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彼女は百合  作者: 小野寺 大河
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二十六話

 小学校低学年くらいの俺たちが写っている。

 目元を真っ赤にした愛子の頭を、隣で俺が撫でている。

 脳裏にはおぼろげだが、記憶の輪郭が浮かび始めた。

 愛子はアルバムを俺の見やすい位置に置き直し、

「さっきはわざとページを飛ばしたんだ。これはね、小学校二年生の遠足の写真よ」

 次第に記憶が鮮明なものになっていく。

 それと同時に、入学式の日、クラブ見学のときの愛子の発言を思い出す。

 愛子は懐かしそうに目を細めて、遠い日をゆっくりと語り出す。

「私、この日ね。遠足があんまり楽しみで、朝からはりきって準備してたの。学校に集合して、皆でバスに乗って隣町に山登りに行ったのよね。着くまでもすごく楽しくて嬉しくて、ずっと大声ではしゃいでた。山登りも友達と喋りながら、いつもと違う景色の中を歩くのがすごく新鮮で、うきうきして本当に楽しかった」

 愛子はその写真を見下ろして、楽しそうに微笑む。

 幼き日の無邪気な自分を思い返し、当時の気持ちを少しだけ共有しているようだ。

「それでね、頂上で先生が『少し休憩してからお昼にしましょう。ご飯の前は手を洗ってね』って言ったのに、あんまり楽しかったから荷物を置いてすぐ、一人で勝手に森の中に入っていっちゃったの。何か新しい発見があるかも、どんな楽しいことが待ってるんだろうって。皆よりちょっとだけ先にそれを見つけようと思って、どんどん進んでいったの。そしたら急に雨が降ってきて、」

 愛子の唇が止まる。

 俺もそのときの記憶を完全に取り戻していった。

 休憩時間に降り出した小雨は、数分でバケツをひっくり返したような豪雨になった。

 初めて訪れた場所、それも山の中ではそれがすごく怖くて、先生に誘導されるまま生徒たちは屋内施設に入っていったんだ。

 だけど、俺は一人で森の奥に踏み入っていく女の子の後姿を見つけた。

 先生はもうすぐご飯だって言ってるのにどこ行くんだろうって思った。

 そしたら雨が降ってきて、先生が叫んでるのが聞こえたんだけど、俺はその子のことが気になって、荷物も置かずにその背中を追っていった。

 愛子は再び唇を動かす。

「雨が強くなったから引き返そうって思ったんだけど、道が分からなくなってた。そしたら、あんまり話したことなかった男の子が私の後を追ってきてたの。助かったって思ったら、その子も道分かんないって言うから」

「洞窟みたいなところに入ったんだよな。とりあえず、そこで雨宿りしようって」

 言葉を継いだ俺に、愛子は「思い出してくれた?」と小さく小首を傾けた。

 俺は軽く頷いて、愛子の記憶と同調していく。

「中は真っ暗で奥まで行くのは怖いから、出口付近で雨だけ凌いだ。雨が止めば、先生たちが探しに来てくれる。俺は荷物持ってたし、何とかなるって思った」

「夏人はずぶ濡れの私の頭をごしごし拭き始めたよね」

 そう言って、愛子は少し唇を尖らせる。

「風邪引くかもしれないって思って」

「あんまり話したことない、それも男の子から頭拭かれたらタオル渡されたらびっくりするでしょ。それに何か女の子の扱いに慣れてる感じで」

「ウチには小冬がいたからだよ。それだけ」

 非難めいたセリフに言い返す俺。愛子は目線を伏せ、ひっそりと話を続ける。

「雨、なかなか止まなかったよね。ご飯まだだったから私お腹空いちゃって。夏人、お弁当渡してくれたよね」

「隣でお腹鳴らされたら、そうするしかないだろ」

 唇を尖らせる愛子。

「悪いからいいって言ったのに、夏人ってば勝手にお弁当箱広げだして『ほら、あ~ん』って私の口に押し込もうとするんだもん。あぁ~、恥ずかしかった」

「それは、小冬にするのと同じ感覚で、……悪かったよ」

 愛子は「ううん」と首を振る。

「お弁当、おいしかったな。特に甘い卵焼き。後でお母さんに言って作ってもらったの」

 当たり前だ。母さんの卵焼きは、世界で一番美味い。

「『左塔は食べないの?』って聞いたら『鞄の中にお菓子がある』って言って、私が食べてるとこ笑顔で見てるだけだった」

 愛子は一呼吸置いてから、唇に微笑を滲ませ、優しい眼差しで俺を見つめる。

「本当はなかったんでしょ? 食べるもの」

「……気づいてたのか」

 愛子の言う通り、俺の鞄の中には食べるものなんかなかった。

 でも、そのときの俺は、強気な瞳を潤ませ不安そうにしている女の子が、肩を小さく震わせ寒そうにし、可愛く腹の虫を鳴らせているのを見ている方が心苦しかった。

 クラスで一番元気な、男の子よりも男っぽい女の子は、そこにはいなかった。

 降り止まない雨空を見上げる愛子に、まるで初めて出会ったような印象を持った。

 それが、いつか保健室で俺に向けられた愛子の微笑に覚えた既視感の正体だと気づく。

 俺は今でも、まだ俺の知らない愛子の新たな一面を知り続ける。

 遠足の日の洞窟の中、高校の保健室のベッド脇、そして現在。

 もしかしたら見逃していただけで、もっといろんな顔をしていたのかも知れない。

 愛子は肩を小さく竦め、

「何となく言いそびれちゃって。雨が小降りになって、それから少し経って先生たちの声がしたでしょ。夏人が洞窟から顔を出したときにね、鞄の中を見ちゃったの。食べ物なんて一切入ってなかった」

 タオルを除けば、空の弁当箱と小冬に持たされた大量の絆創膏だけ。

「そのこと黙ってたのは、多分、夏人に喋っちゃったら夏人の優しい嘘を、優しい笑顔を台無しにしちゃうかもしれないって思ったからだと思う」

 愛子は愛おしそうに、写真の縁をなぞっていく。

 遠い日の思い出の輪郭を確かめるように、ゆっくり優しく小さな指を動かす。

「それまではね、夏人のこと、いつも楽しそうにしてるんだけど、何かへらへらしてて頼りないなって思ってた。でも、男の子とも女の子とも仲良くて、皆と笑い合う笑顔が太陽みたいに輝いてて。私……ちょっと羨ましかった」

 愛子は、あの頃から確実に成長している顔を上げる。

「前に『夏人は自分のためだって言っても、いつも人のこと考えてる』って言ったでしょ?」

 俺がそれを聞いたのは、夜の帳が下りる保健室だ。

 情けなくてカッコ悪い俺の言葉も心も、その直後の微笑みで全部包み込んでくれた。

 愛子はそのときと同じ、いや、それ以上の暖かさを持った笑顔で俺を真っ直ぐ見つめる。

「私がそう言っても、夏人は『たいしたことじゃない、俺にはこれくらいしかできない』って答えるんだけど、それも含めて、やっぱり私は夏人のそういうところ、本当にかっこいいって思う」

 頬を淡く紅潮させた愛子が、華奢な身体をたおやかに俺へと寄せる。

「ちゃんとお礼、言えてなかったね。夏人、助けてくれてありがとう。遠足のときだけじゃない。今までずっとありがとう。二人の関係に甘えていたのは、夏人だけじゃないよ。私も一緒」

 俺と愛子は、お互い伝えていなかった想いを打ち明けあった。

 高校入学以来、俺は静森さんのことばかりで考えて、見ていた。

 でも、今俺の目の前には普段の人懐っこい笑顔とは違う、可憐な少女の微笑がある。

「夏人……」

 愛子の顔がおもむろに近づいてくる。

 俺は愛子をちゃんと見てきた。もう何年も、愛子を見てきた――つもりでいる。

 でも、本当にそうか?

 ちゃんとこの目で、もう十数センチ程しか距離のない女の子を見てきたか?

 それこそ甘えてしまうくらいに一緒に居すぎて、近すぎて、感覚が麻痺していないか?

 だって入学式の朝の俺は、この子の隣を歩きながら可愛い女の子に出会いたいだなんて思ってたんだから。

 熱っぽい瞳が俺を見つめる。

「……夏人、なんでそんなに顔が赤いの?」

「それは、」

 ――お前がそんな風に俺を見つめるから。

 切なそうに小さく開く可憐な唇。

 とんでもない引力によって、惹きつけられる。

 この行為の先に、今までの嘘や後ろめたさの答えが、その正体があるのか。

 俺の胸にとある想いが浮上する。

 突然現れた女神じゃなく、ずっと近くで笑い合っていた女の子の方が俺には――。

 お互い合図したわけでもないのに、同じように目蓋を下ろし、同じように顔を傾け、同じように頬を赤らめ、同じように惹きつけられていく。

 未知の行為に胸を激しく高鳴らせているのは俺だけか?

 お互いの瞳は、相手だけを写している。

 彼我の距離は数センチ――これまでの俺たちの距離よりずっとずっと近い。

 歩み寄ったことのない距離。俺と愛子は、今それを縮めて――。

「愛子ちゃぁあああああん! かわいすぎますぅうううう!」

 俺と愛子は同時に、ベッドで眠っているはずの静森さんを見やった。

 視線を浴びた静森さんは目を瞑ったまま上体を起こし、側にあったぬいぐるみを抱きしめ、口をむにゃむにゃさせている。

 そして、しばらくして、再びベッドに背中から倒れた。

 寝言……かよ。

 俺は愛子と顔を見合わせる。

 周囲に充満した恥ずかしい雰囲気に、お互い顔を背けた。

 戦後最大級の沈黙が続き、

「わ、私、お茶淹れてくるね」

「お、おう」

 愛子は逃げるように部屋を飛び出した。それを見届け、俺は、

「はぁあああああああああああああああああああああ~」

 海よりも深い溜め息を落とした。やばい。今のは、やばかった。

 俺は愛子としていた、しそうになっていた行為を思い返し、沸騰したやかんみたいになっている顔を手で覆う。

 あのまま何もなかったら、俺はきっと愛子と――。

 その先を想像して、俺の胸は再び早鐘を打つ。

 目を閉じると愛子の長いまつげ、うっとりと下りる目蓋、真っ赤に染まる頬、求めるような唇が鮮明に思い出された。

 胸の高鳴りは、今や音になって聞こえそうなくらいになっている。

 心の奥から溢れ出す感情に戸惑いながらも、胸を高鳴らせる俺だったが、このときは、間もなくして静森さんが学校に来なくなるなんて、夢にも思っていなかったんだ。

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