第三十七章
第三十七章
年が暮れ、年が明けた。
清水加夏子は、彼女を取り巻く環境ともども何一つ変わらぬまま、冷たい春のただ中に居た。
相変わらず突発的な暴力を振るう彼女を医者も看護師も忌避し、今では誰も積極的に接触を持とうとはしない。
主治医の九十九と担当看護師の恵美子、そしてリハビリトレーナーの銀さんだけが彼女と接し続けていた。
それぞれが異なる動機から… 異なる思惑から…
彼らに共通しているのは、
それが加夏子の為でなく、自分の、もしくは自分の大事な人間の為に行動している
それだけ。
加夏子は孤立無縁だった。
例えそれが、自ら招いた事態であったとしても。
「フゥ〜…」
夕日が朱々と染め上げた病院の中庭、人影の途絶えたエントランス脇のベンチに長々と躯を伸ばした銀さんは煙草の煙を夕暮れの空に向かって吹き上げた。
ここ暫くの間に、澱のような疲労が躯の底に溜まってきているのを感じていた。
こんな事をしているからだと、茜空にボヤくかのように銀さんはひとりごちた。
恵美子の涙にほだされて、加夏子と殉をさりげなく遠ざけるよう腐心しながら今日まで来たが、これが本当に治療になっているのだろうか?
殉だって馬鹿ではない。ましてやあの子には他人の心の声を聞き取る特別な力がある。 俺達の考えている事など、とうの昔に知っているだろう。
それでも尚、アイツはあのお嬢に自分が何をしてやれるのかを必死で探していやがるんだ。
俺は何をしている?
何をしてやれる?
わからねぇよ
袋小路だ
萎え切った心を抱えた銀さんには、今の状況と自分自身を呪うしか術が無かった。
九十九… あの若造、いったい何を企んでやがる…
その時、唄が聞こえてきた。
わらべ唄だった。
とぉ〜りゃんせ と〜りゃんせ…
ベンチから身を起こした銀さんの目に、小さな女の子の姿が映った。
毬の替わりだろうか、サッカーボールを右手でつく幼女の影が長く長く伸びている。
左手の袖には中身が無い。
去年、入院してきた娘だった。
名前は確か…
「みーちゃん」
銀さんはその子の呼び名を口にした。
無心にサッカーボールをついていた少女がこちらを向くと、満面の笑みで応える。
勘のいい子だ、もしかするとこの子も。
そんな事を考えながら、銀さんはベンチから身を起こした。
(続く)