第56話 奇跡の印
ノラ・ヴェイルは灯りを低く持ち、ヨルが選ぶ石だけを踏んで棚の奥へ進む。テオと、記録帳を抱くマルヤが続いた。エリオは入口に残した見習いへ、手だけで待てと示した。
焼けた金属を湿った布から引き剥がす音の先で、ラウルが記録棚の前へ出た。
焦げた外套をまとい、裂けた手袋からは指の節まで上がる黒い跡をのぞかせていた。ラウルの片手には、薄い金属札があった。
端は焦げている。文字は半分ほど削れていた。だが、灯りの角度が変わった時、残った字が浮いた。
テオ・センド。
返り処置。
応答不安定。
外部搬出不可。
金属札の裏には、削り残された朱印と細い署名があった。マルヤは声にせず、自分の帳面へ写す。
エルマン・オーリス。
その横へ、サイラスの娘の帰還相談と同じ印、と書き添えた。娘の部屋とテオの処置が、同じ手順の中にあった。
マルヤの足が止まり、テオも膝こそ折らないまま、先へ進む意味だけを失ったように立ち尽くした。マルヤは灯口で戻らない名を紙の外へ落とすまいとしてきた手つきで記録帳を抱え直す。しかし今、その紙の中へ閉じ込められているのは自分の兄だった。
「外部搬出不可って、何」
声は低かった。マルヤは名を避け、記録の言葉を選んだことに少し遅れて気づいた。
誰に聞いたのか分からない。テオへか。ラウルへか。神殿へか。
テオは金属札を見ていた。
「外へ運び出してはいけないもの、という意味じゃない」
マルヤの目がテオへ向く。
「外へ出せる状態じゃなかった、という意味だ」
返りの間の棚が、説明を待つように細く鳴った。
ノラは壁の布を見た。布の下が、ほんの少し膨らんでいる。
「長く言わないで」
テオはうなずかず、ただ次の言葉を短くした。
「体は戻った。でも、俺は全部は戻っていない」
灯りが揺れた時、テオの爪越しに背後の石目が透けた。
ほんの一瞬だった。テオはすぐ袖へ指を隠したが、ノラは見逃さなかった。外で保てる体そのものを失っている。その事実が、言葉より先に見えた。
テオは指を隠したまま、袖口の縫い目を二度つまんだ。
マルヤの目が、二度目で止まった。見覚えのある癖らしい。
聞きたいことが、一気に集まった。何があったのか。誰がそうしたのか。なぜ帰らなかったのか。なぜ死んだことにされたのか。
問いのどれを口にしても部屋へ渡ると悟り、マルヤは歯を食いしばった。その沈黙さえこじ開けようと、奥の棚が彼女の声に似た最初の音を作りかける。
「な……」
ノラはマルヤの横へ出る。
「今は奥を止める」
マルヤはノラを睨んだ。
「全部あとに回せって言うの」
「ここに聞かせるよりは」
マルヤは、怒りを声にしなかった。
ラウルが金属札を握りしめた。薄い札が軋む。
「あとに回した結果がここだ。何も言わず、何も戻さず、死んだことにして、札だけ残した」
テオが前へ出た。
「もう足すな」
ラウルは初めて、テオを正面から見た。
目の奥にあるのは、燃え上がる怒りより、長い間同じところで焦げ続けた色だった。
「足りなかっただけだ」
「違う」
「違わない」
「俺は」
テオはそこで一度、口を閉じた。
部屋そのものが待っている。
棚の白い筋が、ほんの少し浮いた。次の言葉を待っている。名でも、後悔でも、願いでもいい。喉から出たものなら、ここは拾う。
テオは、言葉を削った。
「戻すために、もう何も足すな」
ラウルの顔に、痛みに似たものが走った。
「お前が、それを言うのか」
「俺だから言う」
「戻ったくせに」
「戻ってない」
「戻ってない」というテオの声に、マルヤの記録帳が胸元でずれた。直そうとした手は一度空を切り、二度目でようやく背を掴む。ラウルはその顔を見ず、鉄板と木板の継ぎ目にあった朱印付きの札へ手を伸ばした。白い筋が剥離を拒んだものの、黒く焦げた指で握り潰すと、湿った音とともに縮んで札を放す。そこにあった短い判定は「奇跡認定」、その下には神殿の朱印が押されていた。
名前はかすれて読めない。だが、印だけは新しかった。返りの間の古い記録板に残る印とは違う。
エリオが近づき、灯りの端で朱印を見た。
「これは、通常の処置印ではありませんね」
エリオは名前の欄を読まず、印だけを見ている。
「名前を先に読めば、ここに取られます。印だけで足ります」
灰鷹の人間らしい、事務的な言い方だった。けれど、その事務的さが今は誰かの声を守っていた。
入口側に残った見習いが、遠くで息を飲む気配だけがした。見せてはいけないものを見られた。そういう空気が、返りの間の湿った部屋に広がった。
見習いが息を飲んだ反応だけで、通常の神官には押せない大司祭印だとノラにも分かった。確認の言葉を避けて札へ視線を戻すと、代わりにラウルが低く告げた。
「あいつらは名前を変える。戻ったものを、戻ったとは呼ばない。都合の悪いものは、奇跡にする」
棚の奥が、ラウルの声を薄く削って返す。
「奇跡にする」
自分の声を棚から返され、ラウルの手が止まった。怒りの言葉まで神殿の材料になると知りながら、それでも黙ればまた同じ隠蔽になる。
「神殿は、二人まとめて死者にした。生きて外へ出た俺もだ。俺も家には知らせなかった。家へ戻れば、神殿に居場所を知られる。こいつを何にしたのか追うには、死者のままの方が都合がよかった」
ノラは踏み出した。
「札を置いて」
「置いたから、ここになった」
「それを持って奥へ行けば、もっと増える」
「増やしたのは神殿だ」
「今、増やしているのはあなた」
ラウルの目がノラへ向いた。
怒りに焦りが混じっていた。探している札が、ここに残っていなかったのかもしれない。
テオがすぐに言う。
「俺を戻すために、誰かの声を足すな」
返りの間が、その声を拾った。
「俺を戻すために、誰かの声を足すな」
テオの声だった。
薄く、息のない音で、棚の裏から同じ言葉が返る。
マルヤが震えた。兄の喉は動いていない。
テオの声を棚に返されても、ラウルは札を抱えて奥の扉へ向かった。棚の影に半分隠れた扉は古い鉄板を何枚も貼り合わせ、継ぎ目を祈祷布で塞いである。テオがたまらず足を踏み出した。
「ラウル」
ラウルは振り返らない。名を呼ばれた痛みより、呼び止められれば止まってしまう自分を拒む背中だった。
「呼ぶなと言った」
その瞬間、棚の奥が同じ声を返した。
「呼ぶなと言った」
ラウルの声が二つになり、マルヤの喉も動いたが、名は出なかった。腕の中で紙の角だけが歪み、今度は破れる前に自分で力を緩めた。
「分かってる。だから、余計に腹が立つの」
その時、テオが言った。
「それでいい」
マルヤの目がテオへ移る。
テオは、ようやくマルヤを見ていた。
「ここで呼ばなくていい」
マルヤは唇を歪めたが、それは笑いにも泣きにもならなかった。
「あなたに許されるために、飲み込んだんじゃない」
「分かってる」
「分かってないわ」
マルヤは記録帳を胸に押しつけた。
「私には、二人とも死んだと書かれた紙しかなかったのよ。今さら目の前に立って、『ここで呼ばなくていい』で済ませないで」
返りの間の白い筋が、マルヤの足元へ一斉に寄った。
マルヤは一歩も退かなかった。
「……でも、ここでは呼ばない。呼べば、あなたたちを取り返すんじゃなくて、この部屋に渡すだけになる」
テオは何も返せなかった。
返りの間の布が、沈黙へ入り込もうとするように膨らんだ。だが、欲しかった名は出なかった。
ヨルが短く鳴いた。
「クルッ」
ノラはすぐに視線を動かす。
ラウルが扉へ手をかけている。
扉の札は半分焼けていた。残った文字は、かすれている。それでも読める。
奇跡の間。
その下に、さっきの札と同じ朱印がある。
ラウルが扉の継ぎ目へ手を差し込むと、黒い熱が指先から走り、鉄板の縁を焦がした。白い筋が怯えるように縮むのを見て、エリオが踏み出す。
「止まってください」
ラウルは扉へ向いたまま言う。
「灰鷹は、止める相手を間違えている」
「人を傷つけて奥へ入った時点で、あなたを止めます」
「なら、あとで止めろ」
ラウルが扉を押すと、押し込められていた声が奥で重く動き、床の名札を一斉に震わせた。白い筋はラウルを追わずノラたちの足元へ広がり、札を踏ませて追跡を止めようとする。テオの顔に、弟をまた奥へ失う焦りが出た。
「逃げる」
ノラは足元を見たまま言う。
「声を増やして追えば、向こうの道が増える」
「今追わなければ、奥へ行く」
「踏めば、ここに名を置く」
テオは言い返そうとして、足元で自分の影へ寄る白い筋を見た。ノラに従ったのではなく、自分の一歩が誰かの名を渡すと理解して口を閉じる。
エリオはすぐに判断した。
「入口と外門を押さえます。人を増やさない。負傷者を外へ出す。ここから奥へ進む人数は絞ります」
「そうして」
ノラはうなずいた。
マルヤが前へ出る。
「私は」
言いかけて、奥の扉を見た。
マルヤの目には、追いたさが残っていた。
テオもラウルも、扉の向こうへ行く。兄を失ったと思っていた時間が、その先でまだ動いている。追わずにいられるはずがなかった。
マルヤは記録帳の背を親指で二度なぞった。奥へ向いていた足が、半歩戻る。
「記録を持って出る。ここで声にしないために」
マルヤは追いたい足を戻した証しのように、帳面の留め紐を表紙へ巻きつけた。テオが初めて彼女を見ると、その視線から逃げずに選んだ役目を言葉にした。
「声にしない。外で照合する。ここにある名を、これ以上ここのものにしない。兄の名も。……誰かの名も」
ノラはうなずく。
「それがいい」
「よくないわよ」
マルヤの声は低かった。
「よくない。納得もしていない。でも、ここに名を落とすよりはまし」
外門の見習いが、入口側から小さく言う。
「僕が案内を」
エリオが首を振った。
「あなたは入口です。神殿側がここへ人を入れようとしたら止めてください。理由は短く。声を出すな。それだけでいい」
見習いは一度、奥の扉を見た。怖いのだろうが、逃げるための目ではなかった。
「分かりました」
エリオはノラを見た。
視線には、いくつもの疑いがあった。神殿への疑い。ラウルへの警戒。テオへの不信。そして、ノラが何を知っているのかという問い。
「あとで、あなたにも聞きます」
ノラはエリオを見る。
ここで逃げる言葉を使えば、それも残る。ごまかせば、あとで別の形で戻ってくる。
「今は奥」
エリオは目を逸らさなかった。
「はい。今は奥です」
ラウルの姿は、扉の隙間へ消えかけていた。ノラはヨルを見る。
「足元」
ヨルは白い筋の間へ鼻先を下げ、踏める場所を探した。小さな体を低く沈め、欠けた名札の縁を避けて進む。その後をノラが追い、テオも続いた。
マルヤは入口側へ下がる途中で一度だけ振り返り、名を呼ばずに記録帳を抱く腕に力を込めた。
返りの間はまだ待っていたが、そこに欲しかった名は落ちなかった。
ノラは扉の前に立つ。
奇跡の間。
その下の朱印だけが、新しい。
ラウルは、その奥へ消えていた。




