第55話 兄の名札
返りの間の奥へ続く通路は、狭かった。
人ひとりが通れる幅はある。けれど、床に散った名札が道を塞いでいる。焦げた金属札、薄い木札、墨がにじんだ油紙。どれも欠け、削られ、端だけが白い筋に絡め取られていた。
ノラ・ヴェイルは足を止めた。
踏めば、割れる。
割れれば、そこに残った名が声になる。
ヨルが先へ出ようとして、すぐに体を低くした。小さな黒い体の毛が逆立ち、鼻先は床の白い筋を追っている。
「クル……」
「行けない?」
背後で、エリオが小さく聞いた。
ノラは灯りを低く持ち替えた。
「行ける。でも踏めば名が割れる。割れた名は、ここで声になる」
エリオの顔がこわばる。
奥から、金属を引きずる音がした。
近い。
テオが反射的に踏み出す。ノラは腕を出して止めた。強く掴まない。けれど、通さなかった。
「あいつは待たない」
テオの声は低かった。奥へ進みたい足を、無理に押さえている声だった。
「声を残して追えば、向こうの道が増える」
白い筋は、名札の欠け目から伸びている。割れた名をつなぐように、細く、湿った色で通路をまたいでいた。布の繊維にも見える。けれど、灯りを近づけると、こちらの影から逃げるように縮む。
エリオは記録板の前で、声を大きくせずに紙を握っていた。
「外へ出した照合紙が戻ります。声に出さず突き合わせれば、踏む札を減らせるはずです」
「何分」
「分かりません。ですが、伝令は走らせました」
奥で、また金属が鳴った。
今度は、棚をこじ開けるような音だった。
テオの横顔が固くなる。
返りの間の棚の奥から、乾いた声がこぼれた。
「戻り一名。応答あり」
もう誰の声にも似ていない。だから余計に、聞いた者の中から誰かの顔を探してくる。
エリオは通路の手前を見て、ノラを見た。
「奥へ進む人数は絞ります。声を増やさない方を優先します」
「それでいい」
ノラはヨルを見る。
「足元から目を離さないで」
ヨルは鳴かず、尾だけを低く振った。
外門側から、いくつもの足音が戻ってきた。灰鷹と灯口の者がいて、そのそばには口布を噛んだままの外門の見習いもいた。
返りの間の入口に、マルヤ・センドが立った。
外套の裾には町の埃がついている。走ってきたのだろう。だが、顔はただ慌てているだけではなかった。井戸、石橋、古い物置。町の声漏れを誰へ預け、どこを閉め、誰を残してきたかを、頭の中でまだ数えている顔だった。
「井戸と橋には灯口を置いてきたわ。声を聞いた人は一人にしていない。小屋へも警告と確認を一度回した。ここで私が要るって聞いた」
マルヤはそこまで言って、返りの間の内側を見た。
言葉が止まった。
前の部屋で見た物は、ここでは床材のように踏み固められていた。祈祷布も名札も、声を使い終えた順に押し込められている。
「……ここで、名を扱っていたの」
責める声ではなかった。記録を読む人間の声だった。けれど、その下に怒りがあった。
エリオが紙を差し出した。
「声には出さないでください。印だけで照合を」
マルヤはすぐにうなずいた。
「分かったわ」
名は読み上げず、紙を受け取って灯りのそばへ寄った。灯口の控えは古い。紙の端が擦れ、墨も薄い。神殿へ引き渡された名札の写しには、煤の跡がついていた。研究班の印は、焦げた記録板の端に残っているものと同じだった。
写しの紐穴には、浅い傷が二本並んでいた。古い横穴で見つけた札と同じ、兄が一本、弟がもう一本を刻んだ印だった。あの時は似せられる傷だと退けた。今は、その下に二人の名がある。
マルヤは声にせず、指で追った。外門の見習いが横からのぞきかけると、エリオがその肩を軽く引いた。
「見すぎないでください。読もうとします」
見習いは顔を下げた。
マルヤの指が、一つの欄で止まった。
紙の上に、二つの名が並んでいる。
テオ・センド。
ラウル・センド。
だが、返りの間の棚が、細く鳴った。
紙に書かれた名を、まだ誰も呼んでいない。それなのに、ここは人の視線と喉の動きを待っている。
ノラはマルヤを見た。
「知ってる名?」
マルヤが紙を握る手に力を入れ、端が折れた。気づいても、指は戻らなかった。
エリオの目が、紙からマルヤへ移る。
テオは、マルヤを見ていた。
逃げる顔でも、兄として呼ばれるのを待つ顔でもなかった。
マルヤが、ようやく顔を上げた。
目の前の男を見る。
「死んだって」
それだけが出た。
紙を押さえていた指が、少し滑った。兄の名を落としそうになった手を、マルヤは自分で止めた。
テオは答えない。
マルヤの声が、少しだけ低くなる。
「二人とも、迷宮で死んだって聞かされた。遺体も戻らなかった。名札も、服の切れ端も、何も」
奥の棚が、かすかに息をした。
ノラはマルヤの横へ寄った。
「続けるなら、私を見て」
マルヤはノラを見なかった。
テオから目を離せなかった。
唇が動く。
「テ……」
その一音で、返りの間が反応した。
棚の奥で、焦げた名札が一斉に鳴った。薄い金属が震え、壁に詰められた布の下から白い筋が伸びる。床の名札が、マルヤの声の続きを探すように小さく跳ねた。
奥から、同じ音が返る。
「テ……」
マルヤの顔から、血の気が引いた。
ノラはすぐに前へ出た。
「名で呼ぶな。ここは返す場所じゃない。取る場所だ」
マルヤの目が、ノラへ向く。
怒りがあった。
「兄の名前よ」
「だから取られる」
「あなたに止められることじゃない」
「ここに渡すことじゃない」
短い言葉が、返りの間の中で硬く落ちた。
奥がまた鳴る。
「テ……」
今度は、少しだけテオの声に近かった。
呼べば続く。呼べば返る。そう思わせるために、返りの間は最初の一音を磨いている。
テオの顔が歪んだ。
「俺の名を呼ぶな」
その声で、マルヤの表情が変わった。少なくとも、兄だった者だ。
マルヤは紙を胸元へ引き寄せた。灯口で、戻らない名を紙の外へ落とさないための手つきだった。
「どうして」
問いは、テオへ向いていた。
テオはすぐには答えない。
答えを探さず、ここで声にすれば、それも返りの間に取られると警戒していた。
エリオが近づく。
「ここでは、声を選んでください」
マルヤはエリオを見た。
「選べると思う?」
エリオは返せなかった。
奥から、低い音がした。
金属札を壁から剥がす音。
続いて、声。
「見るな、マルヤ」
ラウルの声だった。
見習いが息を飲む。
エリオがすぐにその前へ半歩出た。奥へ答えさせないためだ。
マルヤの肩が動いた。
だが、ラウルは姿を見せない。奥の棚のさらに向こうで、何かを探している。金属を外し、古い紙を破り、必要なものだけを選んでいる音がする。
ノラは奥へ灯りを向けた。
「本物でも、ここで返事をするな」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。マルヤへか。テオへか。エリオへか。自分へか。
奥のラウルの声が続く。
「お前は来るな」
息があった。
さっきの棚の声とは違う。だが、それでも返りの間の中では信じきれない。生きた声も、ここでは餌になる。
マルヤの喉が動いた。
今度は、ノラは止めなかった。
マルヤは奥を見ていた。
紙の上の名。目の前のテオ。奥にいるラウル。死んだと聞かされていた兄たち。何も戻らなかった家。空いた椅子。閉じきれなかった記録。
部屋そのものが待っていた。
棚の陰から、幼い男の子の声がした。
「マルヤ」
それは、兄のどちらかが子どもの頃に呼んだ声なのかもしれない。あるいは、返りの間が彼女の顔から勝手に削った音なのかもしれない。
マルヤの指が紙を潰した。
それでも、口を閉じた。
紙の端が破れかけ、マルヤは親指で押さえ直した。
白い筋が、床の上でゆっくり止まる。
マルヤはテオを見た。
奥のラウルを見た。
最後に、名札の棚を見た。
「……呼ばない」
返りの間の布が、内側から押されたように膨らんだ。
マルヤは続けた。
「ここには渡さない」
声は大きくなかった。
「灯口で、戻らない名を拾ってきた。知らない家の名だけ守って、自分の家の名だけここへ投げるなんて、そんな記録は残せない」
奥の棚が、低く軋む。
白い筋が一度、床へ伏せるように縮んだ。欲しかった名を取れず、別の隙間を探し直している。
ヨルが短く鳴いた。
「クルッ」
ノラはすぐに足元を見た。
通路の白い筋が、わずかに薄くなっている。名札の欠け目の間に、足を置けるだけの隙間ができていた。
「今なら行ける」
エリオは見習いへ顔を向けた。
「ここから先は下がってください」
見習いは一瞬、抗議しかけた。だが、鍵束を握る手を見て、自分で首を振った。
「入口を見ます。誰かが声を出しかけたら止めます」
「それでいいです」
エリオはそう言ってから、マルヤを見た。
「あなたは」
「行くわ。呼ばずに見る」
テオが首を動かした。
「来るな」
マルヤはテオを見た。
「兄に言われたから引き返す妹だと思っているなら、二人とも昔から人を見る目がないわ。今ここで、都合よく妹の顔だけしろなんて聞かない」
テオは何も返せなかった。
奥で、また金属が剥がれる音がした。
今度は、先ほどより近い。薄い札が壁から外され、湿った布を引きずるように鳴っている。
ノラは灯りを握り直し、足元へ低く振った。ヨルが床の名札を踏まないよう、鼻先で道を選び、白い筋のない場所へ足を置く。ノラはその後に続き、エリオが背後についた。マルヤも記録帳を胸に押さえたまま進んだ。
マルヤは床の隙間へ足を置いた。
兄の名は、声にならなかった。




