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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第13章 兄の名札
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第55話 兄の名札

挿絵(By みてみん)

返りの間の奥へ続く通路は、狭かった。


人ひとりが通れる幅はある。けれど、床に散った名札が道を塞いでいる。焦げた金属札、薄い木札、墨がにじんだ油紙。どれも欠け、削られ、端だけが白い筋に絡め取られていた。


ノラ・ヴェイルは足を止めた。


踏めば、割れる。


割れれば、そこに残った名が声になる。


ヨルが先へ出ようとして、すぐに体を低くした。小さな黒い体の毛が逆立ち、鼻先は床の白い筋を追っている。


「クル……」


「行けない?」


背後で、エリオが小さく聞いた。


ノラは灯りを低く持ち替えた。


「行ける。でも踏めば名が割れる。割れた名は、ここで声になる」


エリオの顔がこわばる。


奥から、金属を引きずる音がした。


近い。


テオが反射的に踏み出す。ノラは腕を出して止めた。強く掴まない。けれど、通さなかった。


「あいつは待たない」


テオの声は低かった。奥へ進みたい足を、無理に押さえている声だった。


「声を残して追えば、向こうの道が増える」


白い筋は、名札の欠け目から伸びている。割れた名をつなぐように、細く、湿った色で通路をまたいでいた。布の繊維にも見える。けれど、灯りを近づけると、こちらの影から逃げるように縮む。


エリオは記録板の前で、声を大きくせずに紙を握っていた。


「外へ出した照合紙が戻ります。声に出さず突き合わせれば、踏む札を減らせるはずです」


「何分」


「分かりません。ですが、伝令は走らせました」


奥で、また金属が鳴った。


今度は、棚をこじ開けるような音だった。


テオの横顔が固くなる。


返りの間の棚の奥から、乾いた声がこぼれた。


「戻り一名。応答あり」


もう誰の声にも似ていない。だから余計に、聞いた者の中から誰かの顔を探してくる。


エリオは通路の手前を見て、ノラを見た。


「奥へ進む人数は絞ります。声を増やさない方を優先します」


「それでいい」


ノラはヨルを見る。


「足元から目を離さないで」


ヨルは鳴かず、尾だけを低く振った。


外門側から、いくつもの足音が戻ってきた。灰鷹と灯口の者がいて、そのそばには口布を噛んだままの外門の見習いもいた。


返りの間の入口に、マルヤ・センドが立った。


外套の裾には町の埃がついている。走ってきたのだろう。だが、顔はただ慌てているだけではなかった。井戸、石橋、古い物置。町の声漏れを誰へ預け、どこを閉め、誰を残してきたかを、頭の中でまだ数えている顔だった。


「井戸と橋には灯口を置いてきたわ。声を聞いた人は一人にしていない。小屋へも警告と確認を一度回した。ここで私が要るって聞いた」


マルヤはそこまで言って、返りの間の内側を見た。


言葉が止まった。


前の部屋で見た物は、ここでは床材のように踏み固められていた。祈祷布も名札も、声を使い終えた順に押し込められている。


「……ここで、名を扱っていたの」


責める声ではなかった。記録を読む人間の声だった。けれど、その下に怒りがあった。


エリオが紙を差し出した。


「声には出さないでください。印だけで照合を」


マルヤはすぐにうなずいた。


「分かったわ」


名は読み上げず、紙を受け取って灯りのそばへ寄った。灯口の控えは古い。紙の端が擦れ、墨も薄い。神殿へ引き渡された名札の写しには、煤の跡がついていた。研究班の印は、焦げた記録板の端に残っているものと同じだった。


写しの紐穴には、浅い傷が二本並んでいた。古い横穴で見つけた札と同じ、兄が一本、弟がもう一本を刻んだ印だった。あの時は似せられる傷だと退けた。今は、その下に二人の名がある。


マルヤは声にせず、指で追った。外門の見習いが横からのぞきかけると、エリオがその肩を軽く引いた。


「見すぎないでください。読もうとします」


見習いは顔を下げた。


マルヤの指が、一つの欄で止まった。


紙の上に、二つの名が並んでいる。


テオ・センド。


ラウル・センド。


だが、返りの間の棚が、細く鳴った。


紙に書かれた名を、まだ誰も呼んでいない。それなのに、ここは人の視線と喉の動きを待っている。


ノラはマルヤを見た。


「知ってる名?」


マルヤが紙を握る手に力を入れ、端が折れた。気づいても、指は戻らなかった。


エリオの目が、紙からマルヤへ移る。


テオは、マルヤを見ていた。


逃げる顔でも、兄として呼ばれるのを待つ顔でもなかった。


マルヤが、ようやく顔を上げた。


目の前の男を見る。


「死んだって」


それだけが出た。


紙を押さえていた指が、少し滑った。兄の名を落としそうになった手を、マルヤは自分で止めた。


テオは答えない。


マルヤの声が、少しだけ低くなる。


「二人とも、迷宮で死んだって聞かされた。遺体も戻らなかった。名札も、服の切れ端も、何も」


奥の棚が、かすかに息をした。


ノラはマルヤの横へ寄った。


「続けるなら、私を見て」


マルヤはノラを見なかった。


テオから目を離せなかった。


唇が動く。


「テ……」


その一音で、返りの間が反応した。


棚の奥で、焦げた名札が一斉に鳴った。薄い金属が震え、壁に詰められた布の下から白い筋が伸びる。床の名札が、マルヤの声の続きを探すように小さく跳ねた。


奥から、同じ音が返る。


「テ……」


マルヤの顔から、血の気が引いた。


ノラはすぐに前へ出た。


「名で呼ぶな。ここは返す場所じゃない。取る場所だ」


マルヤの目が、ノラへ向く。


怒りがあった。


「兄の名前よ」


「だから取られる」


「あなたに止められることじゃない」


「ここに渡すことじゃない」


短い言葉が、返りの間の中で硬く落ちた。


奥がまた鳴る。


「テ……」


今度は、少しだけテオの声に近かった。


呼べば続く。呼べば返る。そう思わせるために、返りの間は最初の一音を磨いている。


テオの顔が歪んだ。


「俺の名を呼ぶな」


その声で、マルヤの表情が変わった。少なくとも、兄だった者だ。


マルヤは紙を胸元へ引き寄せた。灯口で、戻らない名を紙の外へ落とさないための手つきだった。


「どうして」


問いは、テオへ向いていた。


テオはすぐには答えない。


答えを探さず、ここで声にすれば、それも返りの間に取られると警戒していた。


エリオが近づく。


「ここでは、声を選んでください」


マルヤはエリオを見た。


「選べると思う?」


エリオは返せなかった。


奥から、低い音がした。


金属札を壁から剥がす音。


続いて、声。


「見るな、マルヤ」


ラウルの声だった。


見習いが息を飲む。


エリオがすぐにその前へ半歩出た。奥へ答えさせないためだ。


マルヤの肩が動いた。


だが、ラウルは姿を見せない。奥の棚のさらに向こうで、何かを探している。金属を外し、古い紙を破り、必要なものだけを選んでいる音がする。


ノラは奥へ灯りを向けた。


「本物でも、ここで返事をするな」


誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。マルヤへか。テオへか。エリオへか。自分へか。


奥のラウルの声が続く。


「お前は来るな」


息があった。


さっきの棚の声とは違う。だが、それでも返りの間の中では信じきれない。生きた声も、ここでは餌になる。


マルヤの喉が動いた。


今度は、ノラは止めなかった。


マルヤは奥を見ていた。


紙の上の名。目の前のテオ。奥にいるラウル。死んだと聞かされていた兄たち。何も戻らなかった家。空いた椅子。閉じきれなかった記録。


部屋そのものが待っていた。


棚の陰から、幼い男の子の声がした。


「マルヤ」


それは、兄のどちらかが子どもの頃に呼んだ声なのかもしれない。あるいは、返りの間が彼女の顔から勝手に削った音なのかもしれない。


マルヤの指が紙を潰した。


それでも、口を閉じた。


紙の端が破れかけ、マルヤは親指で押さえ直した。


白い筋が、床の上でゆっくり止まる。


マルヤはテオを見た。


奥のラウルを見た。


最後に、名札の棚を見た。


「……呼ばない」


返りの間の布が、内側から押されたように膨らんだ。


マルヤは続けた。


「ここには渡さない」


声は大きくなかった。


「灯口で、戻らない名を拾ってきた。知らない家の名だけ守って、自分の家の名だけここへ投げるなんて、そんな記録は残せない」


奥の棚が、低く軋む。


白い筋が一度、床へ伏せるように縮んだ。欲しかった名を取れず、別の隙間を探し直している。


ヨルが短く鳴いた。


「クルッ」


ノラはすぐに足元を見た。


通路の白い筋が、わずかに薄くなっている。名札の欠け目の間に、足を置けるだけの隙間ができていた。


「今なら行ける」


エリオは見習いへ顔を向けた。


「ここから先は下がってください」


見習いは一瞬、抗議しかけた。だが、鍵束を握る手を見て、自分で首を振った。


「入口を見ます。誰かが声を出しかけたら止めます」


「それでいいです」


エリオはそう言ってから、マルヤを見た。


「あなたは」


「行くわ。呼ばずに見る」


テオが首を動かした。


「来るな」


マルヤはテオを見た。


「兄に言われたから引き返す妹だと思っているなら、二人とも昔から人を見る目がないわ。今ここで、都合よく妹の顔だけしろなんて聞かない」


テオは何も返せなかった。


奥で、また金属が剥がれる音がした。


今度は、先ほどより近い。薄い札が壁から外され、湿った布を引きずるように鳴っている。


ノラは灯りを握り直し、足元へ低く振った。ヨルが床の名札を踏まないよう、鼻先で道を選び、白い筋のない場所へ足を置く。ノラはその後に続き、エリオが背後についた。マルヤも記録帳を胸に押さえたまま進んだ。


マルヤは床の隙間へ足を置いた。


兄の名は、声にならなかった。


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