190.2つの死
いよいよテロに手を染めるマリア・オリヴェテです。
グリーンロード5番街の市場は、朝7時開店である。
マリア・オリヴェテが到着したときには、すでに多くの人でにぎわっていた。
買い物客、観光客……そして、ホームレス。
マリアは、(ホームレスに擬態しても良かったか?)などと今更のように考えていた。
しかし、それでは何日も前から髪をくしけずらない、といった小細工が必要に思われた。
マリアは勘違いしていたが、この時代のホームレスは皆が皆ぼろぼろの服装をしているわけではない。
きちんとした、まともな格好をしたホームレスもいる。
それが、この社会の真に恐ろしいところだった。
転落した先と、転落するその前の場所とでは、さほどの違いはないのである。
そういう社会の闇を、マリアは十分に知悉していない……
ウィンストン・エヴリールの言ったように、警察官の姿はまばらだった。
私服組がどれだけまぎれこんでいるのかは知らない。
が、制服を着た警察官は200メートル間隔で立っているだけである。
それも、人々の通行を阻害しないように、遠慮がちに。
警察上部では、アマドゥ・カセムにたいするテロ計画は把握しているとしても、その余念は宗教指導者の暗殺計画にまでは回らない。
警察官が沿道に立っているのは、あくまでもデモ参加者が暴徒化しないためである。
そんなところにも、(なるほど)と、マリアは思った。
──まずは、文化から打撃を与えるということね?
(そして、じょじょに人々の目を覚まさせていけば良い……)
マリアは、手放しで感心するのだった。
マリア・オリヴェテは、屋台の1つでりんご飴を買った。
凶弾となる拳銃をトート・バッグにしまったまま、その場でりんご飴をほおばる。
世の中に、こんなテロリストはいないだろう……
そう考えると、マリアの心からは恐怖心や不安すらもなくなっていくようだった。
パレードは次第に近づいてくる。
今、9時45分。
2キロ先で始まるパレードは、10時15分にはこの場所を通過するはずだ。
パレードの詳細な日程というものを、マリアは先ほどエヴリールから聞かされていた。
『パレードの到着までは、決して慌ててはいけません。怪しまれます』
「怪しむ」──という言葉にひっかりを感じたが、マリアは電話越しに無言でうなずいた。
「イエス」とか「ノー」とかいう言葉を発しなければいけない、ということも忘れていた。
ただただ、彼女は高揚感のなかにあった。
自分が、歴史の一大イベントに立ち会っている、というあの感じである。
オリンピックの開会式に彼女が居合わせたとしても、違和感を感じる者はいなかっただろう。
オリンピックなど、もうこの世界からはとうに失われてしまっていたが。
……そんなとき、娘のクレールからマリアに電話がかかってきた。
マリアは、あわててスマートフォンに出る。
それから、(あわてなくても良かったのだ)と思った。
クレールは、
「かあさん、大変。トゥーランドットがぐずっちゃって……かあさん、こんな時どうしてた? わたし、かあさんに叱られたの? それとも宥められた? 今日は学校へは行かないって、朝から聞かなかったんだけれど、今さっきわたしが話しかけたら大泣きしてね……『お母さんなんて、大嫌いだ!』って。わたし、ここまで泣かれるの初めてで……かあさん、聞いてる?」
マリアは、わけもなく胸をなでおろした。
そして、こんな弁明をつらねた。
「そうねえ……あのころはわたしたち、高層マンションに住んでいたでしょう? 5階くらいに。だから、ベランダに連れていってね、手すりの先にあなたを抱えて突き出すのよ? 『ほら、落ちたら死ぬわよ?』って言ってね? そうすると、あなたは泣き止んだ。転落して死ぬかもしれないという恐怖と、わたしに抱かれているという安心感とでね? まあ……要するに、飴と鞭だったわね?」
電話の向こうで、クレールは絶句していた。
「そんなことがあっただなんて? ……あのとき、わたしは5歳くらいよ? 全然覚えていないわ? それにしても、かあさん、そのころから過激だったのね? さすがに、娘のトゥーランドットにそんなことはできないから、なにか他の方法を考えるわ。ありがとう。じゃあ、休日楽しんで?」
電話のむこうで、クレールはくすくすと笑っていた。
(クレールは、わたしがいないこと、店に「臨時休業」のプレートを出していることにすでに気づいたらしい)
それにしても、今わたしがどこにいるかと聞かれたら、焦るところだった。
あ、いいえ……そうでもないわね。
買い出しでダルエスサラームに来ている、とでも言えばいいことだった。
……いけないいけない、今日のわたしは慌てすぎだ。
こんなことは、今回が初めてじゃない。
わたしが家庭をほっぽって、自分の行動に明け暮れるというのは……
思えば長い教師生活だったし、長い主婦生活だった。
労働争議にも参加した。
そのなかで、わたしはわたしというものをすっかり忘れてしまっていた。
でも、今日こそはそれを取り戻すのよ!
パレードは、じょじょに近づいてきた。
先頭には、先導している警察官もいない。
「戦争、反対!」
「ジェマナイとのあいだに、和平を!」
「統合軍は、今すぐバグダッドから撤退せよ!」
「ライジングアースを破壊しろ!」
(なにを勝手なことを!)
と、マリアは思った。
統合軍が手を引けば、ジェマナイは今にでも核兵器や粒子気化爆弾を撃ち込んでくるに違いない。
なにしろ、かつては、モスクワ、サンクトペテルブルク、ベルリン、パリを死の街にした元凶なのだ!
この戦いは一刻の猶予も許されない!
……あなたたちは、本当に人類の滅亡を望んでいるの?
ロシアとアジアだけが生き残ればいいの?
──否。断じて否!
そして、マリア・オリヴェテは車道に飛び出した。
スロー・モーションかのように、肩から下げたトート・バッグから拳銃を取り出す、マリア。
目の前には、アド・ルーメンの最高賢者であるアルハジ・ムタリブがいる。
彼が、一瞬目を見開いたように思えた。
──群衆たちとともに、「戦争反対!」と叫んでいる。
「あんたたちが戦争を引き起こしているのよ! 世の中には、戦争をなくすための戦争が必要なのよ!!」
マリア・オリヴェテは叫んだ。
──
警官たちが気づいたときには、遅かった。
1人のホームレスが、彼女の足にすがった(瞬間、危険を察知したのである)。
マリア・オリヴェテは、彼を蹴り倒した。
近づいてくる、警官たち。
遠くで、ピストルを構えている警官たち。
動じない、マリア・オリヴェテ。
……すべてが、無音の光景のなかで展開した。
マリア・オリヴェテは、1発の銃弾を撃った。
それは……たしかに、歴史を変える1発だった。
弾丸は、アルハジ・ムタリブの胸に当たり、彼は崩れ落ちた。
「わああああっ!!」という、怒声。
周囲からかけよってくる信者たち。
沿道のやじ馬たちが、一斉に車道に飛び出した。
互いに殴り合う、人と人。
反戦派と主戦派が入り乱れる。
……もはや、何が起こったのかも分からない。
マリア・オリヴェテは、その場から逃げようとした。
ウィンストン・エヴリールが言った通り、この場で警察官たちの力は通用しなかった。
アルハジ・ムタリブは、見事暗殺された──マリア・オリヴェテという一市民の手で。
マリアは、群衆をかきわけて市場のほうに逃れようとする……まるで、荒い波の立つ夜の海を泳いでいるかのようだ。
ようやく、車道から歩道へと戻る。
拳銃をその場に捨てて、彼女は立ち去ろうとした。
地下鉄の駅は、目と鼻の先だ。500メートルほど歩けばいい。
さきほど、りんご飴を買った屋台が見えた。
店主は、何があったのかと、驚愕の表情を浮かべている。
そんな屋台からひったくりをする、ホームレスの少年。
マリアは、ほっとした。無事に、任務を果たせた……
──しかし、そのときだった。
「そこの女、止まりなさい! 止まらないと撃ちます! 群衆のみなさんは、伏せて!」
人々の波が、一斉に地面にしゃがみこんだ。あるいは、伏せた。
マリアだけが立っていた。立って走っていた……
一発の銃声。
ずどん、という鈍い音。
……
マリアもまた、アルハジ・ムタリブと同じように地面に崩れ落ちた。
(かあさんは、義務を果たしたわ。正しく生きたのよ。あなたは、トゥーランドットをお願いね? この世界は、きっと良い世界になる。いつかきっと。……かあさんは、この世界のなかできちんと戦ったのよ? 誰もが戦っているんだわ……生まれてきてくれて、ありがとう。クレール! またね!)
消えゆく意識のなかで、マリア・オリヴェテはそんなことを思った。
それが、彼女の最期だった。
その死に安らかさを……




