189.マリア・オリヴェテの罪と罰
いよいよテロへと向かっていくマリア・オリヴェテ
その日は朝から快晴だった。
マリア・オリヴェテは、朝7時に起きると、ゆっくりと身支度を整える。
娘のクレールはすでに起きていたが、それは眠るのが早いから……
マリアは、毎日午前2時ころまでは、翌日のレシピのことや、これから客たちに提供するメニューのことを考えている。
本を読んでいることもある。
そのほとんどは、他愛もない小説だ。
誰と誰とが恋愛関係になった、誰が誰に殺された……そんな本。
そんな当たり前の日常を、マリア・オリヴェテは愛しいと思っている。
階下へ降りていくと、まずは娘のクレールにおはようと告げた。
クレールは、「お母さん、今日は朝早いのね?」と。
その通りで、なにしろ彼女は夜半までは、自身が経営している喫茶店「ぶどうの生る季節」の仕事で忙しい。
ゆったりくつろいでバスタブに浸かれるのは、娘のクレールがちょうど眠ったころである。
MVをつける。
また戦争のニュースだ。
しかし、いつもとはどこか違っていた。
(……統合戦線が勝ったですって?)
MV上では、バグダッドでジェマナイ軍がイラク軍と統合軍に大敗を喫した、というニュースが流れていた。
マリアは、食い入るように画面に見入る。
(これでまた、統合戦線にネオスが入ってくるというの? 許さないわよ……?)
……花屋が来た。その日の花を届けに。
マリアは、慌てて玄関に向かう。
MVは付けっぱなしだ……。
──
ニュースによると、今日は急遽大規模なデモが2つ実施されるという。
1つは、統合戦線の勝利を祝い、戦局の拡大を唱えるデモ。
もう1つは、アド・ルーメン主催の反戦デモである……
(ついに来たわ)と、マリア・オリヴェテは思った。
ニュースによると、アド・ルーメンの平和デモ行進には5万人が参加予定。
最高賢者であるアルハジ・ムタリブも、行進の先頭に立って参加するらしい。
宗教組織というものはテロの標的にもされやすいものだが、未だかつてアド・ルーメンがテロの対象となったことはない。
文明の進んだ国ほど、宗教とは目の敵にされるものだが……
(最高賢者……。安心しきっているに違いないわ)
マリア・オリヴェテは思う。
レジ横の引き出しにしまっている、ピストルを手に取った。
ゆっくりと安全装置を確認する。
それから、食器棚の奥深くにしまいこんであった、弾丸を取り出した。
(今日しかない!)
それから、マリアは急いで店を閉めた。
シャッターを閉め、ドア前に「臨時休業」のプレートを出す。
娘のクレールに再度声をかけると、なるべく地味な服装に着替えた。
そして、ザネレ・カシンガから送られていた、アド・ルーメンのバッジを胸につける。
例の平和デモの行進の最中なら、アルハジ・ムタリブに近づくことは容易だろう。
デモの参加者は5万人。
沿道には、それに勝るとも劣らない数のやじ馬が集うはずだ。
どこへでも、隠れることができる。
(今日しかないんだわ!)
マリアは再び思うのだった……
──
マリアは地下鉄に乗る。
肩からはトート・バッグを下げている。
なかには、無論さきほどの拳銃がしまわれている。
いかに、戒厳令による警備体制が厳しくなったからと言って、警察は市民の一人一人を尋問するわけではない。
マリアのような、ごく普通の主婦にしか見えないような人間は、容易に見過ごされた。
ために、マリアは今日、女らしい花柄のスカートを履いていた。
木を隠すなら森に、である。
今、マリアはごく普通の平凡な主婦にしか見えない。
マリアが降り立ったのは、グリーンロードにある駅だった。
例の、ウィンストン・エヴリール(カドリール・ヴァレンタイン)に呼ばれて赴いた先も、この街である。
マリアは、がぜん宿命めいたものを感じる。
しかし、それがいかに彼女が世間からずれていたかの証でもあったように思われる……
グリーンロード周辺の街区は繁華街であり、いわばアルスレーテの下町だ。
人々の耳目を集めるためには、ここでコンサートを開いたり、デモを開催したりするのがふさわしい。
そこでの噂は、人づてに伝わっていく。
文明、いや、文化の伝搬というものだ。
ウィンストン・エヴリールも、しっかりとそれを弁えていたと言える。
──今日、この場でアルハジ・ムタリブが暗殺されれば、鮮烈なニュースとなる──
ウィンストン・エヴリールは、彼女を決してコードネームでは呼ばなかった。
いつでも、「マリアさん」と呼んだ。
「あなたのような方をコードネームで呼ぶことは、その尊厳を傷つけてしまうから……」
そんなふうに、エヴリールはマリアを言いくるめる。
その甘い言葉に、マリアもすっかりほだされてしまった。
(彼──エヴリールは、信頼のおける青年だわ!)
そこには、教師として、人から敬われる職業に就いていた人間特有のうぬぼれがあった。
そのうぬぼれとは、自尊心とは少し違うものである。
生きていく足場を作るためのプライドだった。
──
マリアはエヴリールに電話をかけた──「今日実行します」、と。
「今、どこにいますか?」
「グリーンロード3番街です、あなたのお話を聞いた」
「グリーンロード5番街まで移動してください。そこに、市場があります。生鮮食料品などをあつかっている市場です」
エヴリールは、さっそく指示を出した。
「ここではいけないのですか?」
その場所が、今日のパレードにもなっているということをニュースで知ったマリアは、できるだけ自分のやりやすい場所で襲撃を行いたいと思っていた。
しかし、エヴリールはそんな彼女を諭す。
「今あなたがいる場所には、死角がほとんどありません。市場まで行けば、パレードが来るまで買い物客に紛れ込むことができますし、そこはちょうど大通りと市場の通りが交差している場所なのです」
「……というのは?」
「そこは、歩道の幅がほとんどありません。あなたは、やじ馬の群れをかき分ける必要なく、ムタリブ最高賢者に近づくことができます」
「なるほど!」
マリアは、心のなかで手を打った。
さすがに、秀逸なエヴリールのことだ。
すでに、暗殺計画のひな型は頭のなかに思い描かれているのだった。
「ですが……逃げるときにはどうすれば良いのでしょう?」
「ご心配なく。今日は同時並行で、アマドゥ・カセムの暗殺計画も進んでいます。そちらには、すでに犯行予告状を出してあるのですよ……。ムタリブ最高賢者のパレードのほうに、警察の人員を割くことはできなくなりました。あなたは、人ごみにまぎれてゆうゆうと逃げてください」
「さすがの慧眼ですね……」
「ほめても何もでませんよ。では、健闘を祈ります」
そうして、通話は切れた。
──
マリアは、心のそこからほっとしていた。
実行前に、エヴリールの声が聞けてよかった。
本当は、緊張と恐怖で心臓が破裂しそうだったのだ。
自分は50代、エヴリールは30代手前。
あのような有望な若者がいれば、統合戦線は今後道を踏み外すことはないだろう……
歴史とは、つねに影なる力によってつくられるものなのだ。無名の人士によって。
パレードの開始は午前10時であり、マリア・オリヴェテは午前9時に当該の市場へと到着した。
彼女の運命はどうなるのか……




