156.斎賀の故郷(ふるさと)(2)
マフムードと話す斎賀。
斎賀は黙っていた。
それは、日本がオーストラリア共和国の次なる標的になる、と聞いたからだ。
自分が真に日本人である、という確信は斎賀はいまだに持てないでいた。
パスポート上の偽名は、韓国系である「パク・ミンソク」だ。
自分は日本語を話すし、日本語ベースで考えてもいる。
しかし、それが自分が日本人であるという証明にはならない。
自分は軍人である、そして多言語を話す、ということが斎賀の今更ながらの足かせになっていた。
「俺の故郷が攻撃されることになるのか……」
と、斎賀はつぶやいた。
「あなたは、そのことをどう思う?」
ナジーネが追って聞く。
「いや、感傷的な思いはない。俺は今、日本に住んでいないんだからな……」
その言葉には、斎賀の(自分は日本にとっては裏切り者かもしれない)という思いがあった。
「しかし、日本が攻撃されることには、忸怩たる思いがある。民間人にも犠牲が出るだろう」
「でも、それはジェマナイが倒された後でも、起こりえることだわ。ロシア・アジア共栄圏の国々は、来るべき独立戦争に備える必要があるでしょう? それは、世界の支配者が誰になったとしても変わらないわ?」
ナジーネが冷静に言った。
「ねえ、オガーブ……」
ナジーネは静かに口を開く。
「お前はもし、日本が本当に戦場になったらどうする? ジェマナイの側に立って戦うのか? それとも攻める側に回るのか?」
「えっ? よく分からないことを聞く。俺が本当に日本人かどうか……」
「仮にそうだったら、という話だ。それは、このイランという国が戦場になったら、という話にもつながる」
「そういうことか……」
「そうだ。あたしたちは、お前を仲間として受け入れつつある。しかし、その心の底にあるものは知っておきたい」
「心の底にあるもの、か」
斎賀は、あらためて自分の気持ちというものを探ってみた。
しかし、そこには「生き残りたい」という思い以外の何かは見当たらない。
国家、自由、権利、そのどれもが夢物語に思えた。
自分は、あの戦場で死んでいたかもしれなかった。
なにしろ、自分は味方に見捨てられたのかもしれないのだ。
しかし、わずかばかりの水があって、生き延びることができた……それは、そうしてくれた人物に感謝だ。
斎賀は、あらためて迷った。
「俺は、きっと日本のためには戦わない。その戦いを外から見つめるだろうと思う」
それだけのことを、斎賀は言った。
「それは、どうしてだ?」
「俺が日本人なら、俺は祖国を捨てた人間だ。祖国に顔向けができるわけじゃない。その代わりに、おれは大局を知った。統合戦線という国に属してだ。それを無駄にするわけにはいかない……」
「お前らしい答えだな」
言って、ナジーネは微笑した。
斎賀は、自分の心の奥底に虚無があるのを感じていた。
しかし、その理由は分からなかった。
最愛の妹の死によって、ジェマナイを魂から憎んでいるからだ、といった発想は今は思い浮かばなかった。
漠然と、ジェマナイという巨大な政体に関する畏怖だけを感じている……
ナジーネは、スプーンの先でスープのグリーンピースをしきりにつついていた。
なにか、心にわだかまっているものがあると見える。
「オガーブ、おまえはこの組織に骨をうずめる気はないか? ないよな? ……われわれですら、未来のことは分からないんだから」
その、自分たちの未来をも見すえて、現状がすべてではない、という口調に斎賀は不安を感じた。
「どうしたんだ? サラーブ。あなたらしくもない……あなたは目的があって俺を拉致した。そのスタンスは貫いていてもらわないと、困る……」
「そうだな。人質に慰められるようでは、まだまだだ」
言って、ナジーネは微笑した。
斎賀も、つられて微笑む。
「お前には、お前の命と引き換えに、この組織の役に立ってもらう。これからもだ。それが、建前だ」
毅然として、ナジーネは言った。
そして、斎賀は虜囚という意味合いでの自分の立ち位置を再認識した。
いつ、自分は彼女たちに首を斬られるとも分からない……
その戦慄は、しかしむしろそのときの斎賀にとっては心地よいものだった。
──
朝食を終えると、斎賀は〈山荘〉の前庭に歩いて行った。
腹ごなし、という意味合いもあるが、一人で考え事をしたい、というのもあった。
「すこし、敷地のなかを歩きたいんだが……」
と言うと、ナジーネからはすぐに許可が下りた。
万事がこの調子だ。
作戦行動中にトイレに行きたいと言っても、それにはナジーネの許可がいる。
そんなことを思って、斎賀は苦笑する。
(俺は、オガーブ。しかし、本当の名前はなんと言うんだ? スプリングか? サマーか?)
そんな冗談で、自分の気持ちを紛らわせる。
〈山荘〉の玄関の扉を開けると、マフムード・カリミが立っていた。
腰には、目立たないように拳銃を差している。
しかし、それでは防衛の任には足らないだろうと、斎賀は思った。
(ここでも、情報軍時代の斎賀の直感が働いていた。この組織は、まだまだアマチュアだと……)
「やあ、サング。調子はどうだ?」
斎賀はぎこちない言葉を紡ぐ。
それを、自分でもどこかおかしいと思う。
「あなたがペルシア語に慣れていないのは分かっている。だから、統合戦線の標準語でもいい。あなたの思うことを言ってくれ」
逆に、マフムードから気遣いを受けて、斎賀はどぎまぎした。
「い、いやあ……それじゃあ尋ねるが、その拳銃は、逆に危険じゃないか?」
「危険、とはどういうことか」
「だから。このご時世、社会の監視はドローンと監視カメラが行っている。君が目をつけられた時点で、その拳銃は役立たずだ」
「そうだな」
しばらく考えた後でマフムード・カリミが答える。
「しかし、しばらくの間の時間稼ぎにはなる。俺の役目は、そういうことだ」
「そういうこと、か。寂しいね」
「俺は、ジェマナイに家族を殺されている。現在の政権が誕生するすぐ以前のことだ。その時代、イランはジェマナイ派と反ジェマナイ派が激しく争っていた。そのなかで、俺は家族を失った」
「そうだったのか……」
「その時だ。俺は、状況を動かした者が悪い、と気が付いた。急進派とは、いつの世でも悪だ。それが時代が遡って、善だとみなされることも少なくはない。しかし、『きっかけ』を作るのは、いつでもそのような連中なのだ。そこに、犠牲が生じる」
「そして……?」
と、斎賀はマフムードの言葉を促す。
「結果として、何がもたらされたのかは、関係ない。そこには、善か悪かがある。わたしは、ジェマナイを悪だと思っている」
「そうか……」
と、斎賀は答える。
〈山荘〉の建物に、ゆるやかな風が吹いた。北風とも、南風ともつかない、生暖かい風である。
「俺はそれ、ただいいと思う。ジェマナイは悪だ。俺には、漠然とした感触があるんだ。家族の誰かが、ジェマナイに殺されたんじゃないかっていう。俺は、それを恐れている。いや、俺が本当に恐れているのは、俺の復讐心だ。それによって、俺が自分を見失い、ひいては世界を見失ってしまうんじゃないのかっていう。これはたぶん、記憶を失う前の俺も強く思っていたことだ。だからこそ、今この瞬間にも強く想起される。俺は……復讐を是としてはいる。でも、復讐を手段としてはいけない」
「そのとき、お前は終わる?」
マフムードは尋ねる。
「ああ。そうだと思う。その瞬間に、俺は終わる。あんたがたとの関係も。その瞬間、俺のすべての生は消滅するんだ」
掌を震わせながら、斎賀は言った。
「あなたは……人情家なんだな」
と、マフムードは言った。
その言葉に、斎賀ははっと打たれた。
「俺は、人情家?」
──それは、俺が最も嫌ってきた種類の人間ではなかったか。
日本という地域の行く末に思いを馳せつつ、ジェマナイという巨大な脅威を脳裏に浮かべつつ、斎賀はそれだけの言葉を絞り出した。
次章に続きます。




