154.アジンバルの策謀
国家緊急事態相に任じられるドニエスタル侯爵です。
同じ日、アジンバル公国のドニエスタル侯爵は、同国の国家緊急事態省の大臣に任命された。
宰相と兼任して、である。
だが、侯爵は軍事の専門家ではない。他にもっと適任者がいるはずだった。
だから、侯爵は一度はその任命を辞退した。
しかし、シンガ・パハド公王は、
「貴殿がならなければ、誰がなる? 現に今この国のかじ取りは卿の手中にあるのであろう?」
と、押し切った。
そう言われて、侯爵は赤面するとともに、辞令を受けずにはいられなかった。
(そうか、わたしはこの国の戦争についても責任を持つことになるのか……)
というのが、侯爵の内心の声だった。
──
公王に謁見したその足で、ドニエスタル侯爵はこの国の軍需相のもとへと向かった。
マヘンドラ・シン・バンダリという人物である。
ドニエスタル侯爵よりも若干年が若いが、油断のない面持ちをしている。
この人物のことを、彼はあまりよく知らなかった。
というのも、バンダリは秘密警察の出身で、その経歴は謎に包まれていたからだった。
軍のトップを警察出身者が務める、ということは軍内に軋轢を生まないとも限らなかった。
しかし、シンガ・パハド公王はバンダリをいたく信用しているらしい。
『この国のかじ取り』と、先ほど公王は言ったが、であればこの男は車輪のもう片方になるであろう。
であれば、早いうちに話しておくにこしたことはない。
バンダリの執務室は、やはりハヌマン・ドーカの中にあった。
ほんの2、3年前に新たに作られた部屋である。
ハヌマン・ドーカは、公王の宮殿というよりは、この国の官僚組織を総まとめしたもの、だと考えて良い。
当然、公王はこの宮殿で寝泊まりしてはいない。
ここは軍事をつかさどる場所であり、国政を担う場所だった。
ドニエスタル侯爵は、静かにひとつ息をついた後、バンダリの執務室のドアをノックする。
「どうぞ」と、内から声があった。
そして、秘書が扉を開ける。
ドニエスタル侯爵は、一歩、二歩と、部屋のなかに進んでいく。
マヘンドラ・シン・バンダリは、執務机に座っていた。
書類の山、そしてパーソナル・コンピュータ。手元にはタブレットもある。
大方グリペンネオの性能試験のデータやら、ジェマナイから配備されてきたタルタロスのデータでも見ていたのであろう。
ドニエスタル侯爵は、ひとつ咳をする。
内密の話を、という合図である。
秘書が退く。
今、ドニエスタル侯爵はマヘンドラ・シン・バンダリと真向かいに向き合っていた。
バンダリは、侯爵の予想に反して気さくな人物だった。
「紅茶はどうですか? わたしは執務の際にはいつも紅茶を飲むことにしていましてね? ちょうど良い茶葉が入ったのです」
「それでは、部下に煙たがられますでしょう? いかにもお大臣の仕事だと……」
「あっはは。わたしはそういう言われ方には慣れていますよ。わたしはお大臣です。否定するつもりはない」
眼底の奥の光が鋭かった。さすがに秘密警察の出身である。
執務中に紅茶を飲むからといって、それは賄賂で贈られたものではない。
違法性はないのである。ただ、違和感があるだけだ。
ドニエスタル侯爵は再度咳ばらいをした、「あなたのスタンスとわたしのスタンスとは相容れません」という意志表示である。
マヘンドラ・シン・バンダリは両手を組んだ。
「けっこうです。紅茶は遠慮しておきましょう」
「では、わたし一人でいただくとしますよ。あなたには、ミネラルウォーターでももって来させましょう」
マヘンドラ・シン・バンダリが言う。
「ありがたい次第です」
この年下の実務家に向かって、ドニエスタル侯爵は軽く礼をした。
バンダリの気遣いは、たしかに行き届いているのである。
議論の最中に喉がかれないとも限らない。
というよりもむしろ、この男はそれを望んでいる。
バンダリなりの誠実さだと、ドニエスタル侯爵は思った。
そして、バンダリのほうでは紅茶を飲めば思考が明晰になり、饒舌にもなるのだろうと思われた。
「わたしは先ほど、シンガ・パハド公王から国家緊急事態相に任命されたのですよ」
徐に、ドニエスタル侯爵が切り出す。
「ほう、国家緊急事態相ですか?」
「ですが、これはあなたにこそふさわしい役職だと思うのです」
「わたしが秘密警察の出身だからですかな?」
バンダリの返答も容赦なかった。
「そうとも言えます。ですが、それはわたしが分不相応であるからでもあります。ご存じのように、わたしは軍事の専門家ではない」
「それは存じ上げております。しかし、この国の政治をあなた以上にまとめ上げられる人物はほかにいないでしょう?」
「だと、良いのですが……」
「侯爵ともあろう方が、ご謙遜をなさる」
バンダリの眼鏡の奥が光った。
「率直な話をしましょう」
と、バンダリ。
「今、ジェマナイはマレーシア戦線を突破されようとしています。ここを突破されれば、アジンバルは目と鼻の先だ。先に統合戦線に宣戦布告をした我が国も、オーストラリア共和国という脅威にさらされることになる」
「おっしゃる通りです」
ドニエスタル侯爵がへりくだる。
「しかし、要は、この戦線が突破されなければ良いのではありませんか? ここは、我が国の攻め手が功を奏することなる」
「ですが、我が国にビッグマンはない」
「なければ、作れば良いのです。それは、あなたがご存じの通りだ。しかし、現状でも打開策はある」
「グリペンネオの大軍を送り出すと……?」
侯爵は慎重だ。
「それも考えてはいます。ですが、それも現実的な解決の手段ではない。ここは、巡航ミサイルでオーストラリア共和国の首都を狙う、というのはどうでしょう? 軍を引かなければ、我々はあなたがたの首都を攻撃する、と」
「いやいや、あなたは老獪だ。わたしよりも年下とも思えない……。しかし、核の使用をほのめかすのですか?」
「そうです」
侯爵は、思わず言葉を飲み込んだ。
軍人の、いや、秘密警察の人間の言葉とはこのようなものなのか? と。
まるで、そこでは人間の生き死にが一つの数値に還元されているかのようだ。
「我が国にも、核弾頭を搭載できる巡航ミサイルは存在します。今、それを敵を威圧する盾として使うのです。言葉は、時に武力よりも物言うことがある。戦争は、始まる前に止めるものです」
「なんですと……?」
ドニエスタル侯爵は絶句した。
ここに、戦争のプロとしての言葉があった。
バンダリは秘密警察出身とは言え、軍事のなんたるかを分かっている。
それは、はったりでもあり、実力でもあり、脅威でもあるのだ。
要は、使いようによっていかようにも変化し得るものが軍事だと、バンダリは分かっている……
ドニエスタル侯爵は、柄にもなく額に汗をかいている。
この、マヘンドラ・シン・バンダリという人物を恐れた。
そして、恐る恐る言う。
「あなたは、まさかグリペンネオをマレーシアに派遣はなさいませんな?」
バンダリは一呼吸を置いた。
「なぜ? ……グリペンネオはわが軍の軍隊です。ジェマナイの、ではありません」
「おお、それは。では、ジェマナイからの要請がなければ、わが空軍は出撃させない?」
「その通りです。アジンバルは、アジンバルです。もっとも、わたしにとってはネパールという名前のほうが馴染みが深いが……いずれにせよ、国民を危険に晒すことを、わたしは望んではいませんよ」
と言って笑った。
「それに、はっきりしていることがあるのです」
「それは何でしょう?」
ドニエスタル侯爵はやや首をかしげる。
「オーストラリア共和国の次の標的は、日本です」
マヘンドラ・シン・バンダリは、はっきりと断言した。
それは、もと秘密警察の長官という職能からくる、確固とした確信だった。
ドニエスタル侯爵は、自分が軍務に不慣れなことを恥じつつ、この戦争は勝てる、という思いを手にしていた。
マヘンドラ・シン・バンダリは、「勝利」につながる重要な駒だった。
アジンバルにまた新たな人物でした。




