EP 10
キャルル村長の心音盗聴と、逃走不可の特製人参ハンカチ
嵐の過ぎ去った翌朝、ポポロ村の空は抜けるような青空に覆われていた。
村長公邸のダイニングルームには、爽やかな朝の光が差し込み、鳥のさえずりが響いている。
だが、その長閑な風景とは裏腹に、厨房に立つ俺――佐藤悠人の朝は、分刻みのスケジュールで回る戦場そのものだった。
「はいリーザ、お前の分の『余り野菜と麦雑穀のお粥』だ。胃を壊すから冷ましてからゆっくり食え」
「はふぅぅ……! 温かい……! 炭と野草以外の朝ごはんが食べられるなんて、私、本当に前世でどんな徳を積んだのかしら……!」
「徳じゃなくて俺の慈悲だ。あとルナ、お前はこっちの『高原人参とリンゴの絞りたてジュース』だ。頼むから朝から道端の砂利を変成させてジュースの代金として置こうとするな。ハリセンが火を噴くぞ」
「あらあら、悠人さんは本当に心配性ですわね♡ 今朝の小石はとっても丸くて可愛いから、一週間は金貨の形を保てますのに」
「期間が伸びても詐欺罪に変わりねえわ! ……キュララ! 生配信のコメント欄チェックしながら歩くな、トーストのバターが絨毯に垂れ落ちてるぞ!」
「あ〜ん、悠人うるさぁ〜い☆ 今ね、昨夜の嵐の実況切り抜き動画がバズってて、神界スパチャが止まらないんだから邪魔しないで〜♡」
騒がしい三人の居候たちへ的確に指示を飛ばし、朝食を配膳し、小競り合いを未然に防ぐ。
元・制作会社の危機管理室長兼ディレクターのスキルをフル稼働させ、俺は公邸の平穏をミリ単位のオペレーションで維持していた。
――だが。
そんな俺の完璧な立ち回りを、リビングの隅の薄暗がりから、じっと見つめる視線があった。
ギギギ……ッ。
壁の陰から、ぬらりと姿を現したのは――新村長、キャルル・ムーンハートである。
オーバーサイズのパーカーに身を包み、膝丈の黒スパッツとゴツいミスリル芯入り安全靴を履いた、月兎族の美少女。
本来なら銀白色のショートボブに透き通るような白肌、愛くるしいルビーの瞳を持つ絶世の美少女なのだが――。
ピクン。ピクピクン。
その頭頂部に生えた、純白の長い兎耳が、まるで軍事用の高感度パラボラアンテナのようにピンと直立していた。
耳の先端は、寸分の狂いもなく俺の胸元――左胸の心臓の位置へとロックオンされている。
そして、その愛らしいルビーの瞳からは、光が完全に消失していた。
「……悠人くん?」
「ん? なんだキャルル、起きてたのか。お前の朝飯も今作っ――」
「悠人くん……いま、リーザちゃんのお粥をよそった時……心拍数が毎分六回、跳ね上がったよね……?」
ゾワッッ!!
背筋を駆け抜ける、氷点下の悪寒。
キャルルが履くタローマン特注の安全靴が、ズズ……と床を踏みしめ、間合いを詰めてくる。
「いや、重い大鍋を持ち上げりゃ筋肉を使って心拍数くらい上がるだろ」
「ううん、違うね。筋肉の収縮に伴う拍動じゃないもん。血流の波形が、若い女の子を視界に入れた時の『不純な微動』を描いてたもん」
「どんな精密医療機器だよ! 人の心音を無断でオシロスコープ解析するな!」
「それに……そのあとルナちゃんの手首に触れた時も、心音がトクン……って乱れたよね? キュララちゃんのトーストを注意した時も、声の帯域に『甘やかし成分』が〇・三デシベル混ざってたよね……?」
一歩、また一歩と詰め寄ってくるキャルルの背後から、紫黒色の禍々しい怨嗟オーラがボワボワと立ち上り始めた。
普段は慈愛に満ちた名村長なのだが、一度恋愛感情のリミッターが外れると、月兎族特有の過剰な独占欲と妄執が宇宙規模で暴走する。
「ねぇ……悠人くん? 私というものがありながら……なんで朝から他の女のことばかり見てるのかな……? 私の心音は、悠人くんの足音が聞こえた瞬間から、ずっと毎分百二十回で激しく愛を奏でてるのに……どうして悠人くんは、私だけにドキドキしてくれないのかな……?」
「だから朝飯の準備で忙しいんだって言ってんだろ!」
俺が身の危険を感じて後ずさりした、その刹那だった。
バシュッッッ!!!!
目にも留まらぬ銀閃。
百メートル五秒台を叩き出すキャルルの神速のステップが炸裂した。
俺が瞬きを一回する間に、彼女は俺の背後へと回り込み、ダイニングの壁に両手をドォンッ!! と叩きつけていた。
逃走不可の、物理的完全包囲(壁ドン)!
「……逃がさないよ、悠人くん♡」
カチャリ、と鈍い金属音が耳元で鳴り響く。
キャルルの細い両手には、一撃で城壁を粉砕する超硬質ミスリル製のダブルトンファーがしっかりと握りしめられていた。
至近距離から見つめてくるルビーの瞳は、底知れぬ狂気と愛執の暗黒物質で満ち満ちている。
「外の世界はね、悪い女や怖い魔獣がいっぱいいるんだよ……? 悠人くんみたいな無防備で優しい男の子は、すぐ騙されて骨までしゃぶられちゃうんだから……。だからね、ずっと私のそばで、人参畑を眺めながら暮らそうね……♡」
「発言が軟禁犯のそれなんだよ!!」
「大丈夫、痛いことは何もしないよ……♡ ただ、二度と他の女のところへ走っていけないように、タローマンの安全靴で両足の踝を優しく複雑骨折させて……それから、私の治癒魔法で一生かけて毎日甘やかしながら看病してあげるだけだから……♡」
「狂気の極致かよ!! 治癒能力の用途が猟奇的すぎるだろ!!」
トンファーの切っ先が、俺の頸動脈を愛撫するようにかすめる。
さらにキャルルは、パーカーのポケットから、何やら丁寧に折りたたまれた布切れをスッと取り出した。
鮮やかなオレンジ色で、下手くそだが一生懸命に縫われた『人参の刺繍』が施された白い布――。
「はい、これ……悠人くんへのプレゼントだよ♡」
「……なんだこれ。ハンカチか?」
「うんっ、手縫いの特製人参柄ハンカチだよ♡ 私の微量な闘気と……昨日の夜、私の枕とお布団でぎゅーって擦り込んで染み込ませた『私の体臭』がたっぷり入ってるの……♡」
「生々しすぎるわ!!」
俺のツッコミに、キャルルはうっとりと頬を染めて微笑んだ。
「これを持っていればね、悠人くんが大陸の果て、魔皇国の奈落や地下帝国の奥底に逃げても、私の鼻と耳で一秒で居場所を特定できるんだよ……♡ 逃げても無駄だからね……? ずっと一緒だよ、悠人くん……♡」
――出た。
ポポロ村の最終兵器、逃走不可の『体臭GPS人参ハンカチ』である。
これを懐に入れられた瞬間、俺のプライバシーと人権は全大陸規模で完全に消滅する!
だが――百戦錬磨のトラブルを処理してきた元・危機管理室長が、小娘のヤンデレごときに屈するわけがない!
「……おいキャルル」
「なぁに、私の愛しい悠人く――」
俺の右手は、すでにエプロンのポケットの奥深くへと到達していた。
指先が触れるのは、今朝配達されたばかりの『ルナミス新聞』を細長く三つ折りにし、布ガムテープでガチガチに補強した我が魂の相棒!
唸れ、コンプライアンスの鉄槌――!
『常識人のハリセン(コンプライアンス・ブレイカー)』!!
俺はゼロ距離の壁ドン状態から、手首の超絶スナップのみでハリセンを抜き放ち、至高の軌道で美少女村長の脳天へ振り下ろした!
「――公権力の首長が住民の心音を盗聴してGPS生乾きハンカチを押し付けるな! ストーカー規制法違反、不正アクセス禁止法違反、および重大な人権侵害だ目を覚ませッッ!!!!」
――パァァァァァァァァンッッッ!!!!
ダイニングルームの空気を爆発させるかのような、乾いた神速の快音が炸裂した。
概念必中のハリセンが、トンファーを構えていたキャルルの頭頂部を完璧にクリーンヒットする。
「ふみゃああっ!?」
心地よい打撃音と共に、キャルルの全身を覆っていたドス黒いヤンデレオーラが一瞬にして霧散した。
殺傷力はゼロ。だが、倫理観と理性を狂わせる因果律を強制的に正常値へと引き戻す絶対の言霊打撃!
キャルルの手からトンファーがポロリと落下し、その瞳に澄み切った光がパッと戻る。
「はっ……!? わ、私……また壁ドンしてトンファーを……!?」
「また、どころの騒ぎじゃねえよ! 朝の八時から両足骨折エンドの恋愛シミュレーションを押し付けるな!」
「だ、だってぇ……! ハンカチは生乾きじゃないもん、すっごくいい匂いだもん……! 悠人くんが他の子ばっかり構って、私のこと全然見てくれないから……!」
キャルルは両手で頭を押さえ、兎耳をへにゃりと垂らして、涙目で俺を睨みつけてきた。
その瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
「うぅ……悠人くんのバカぁ……! 私だって、本当はこんなことしたくないよぉ……! でも、前村長が逃げて……村の借金も治安も全部私が背負わなきゃいけなくて……。みんなの前では『しっかり者の名村長』でいなきゃいけないのに……悠人くんまで私のそばからいなくなっちゃったら、私、どうすればいいか分かんなくなっちゃうんだもん……!」
しゃくりあげながら、パーカーの袖で目を擦るキャルル。
その姿は、大陸を震撼させる猛獣などではなく、重すぎる重圧に押し潰されそうになりながら必死に背伸びをしている、ただの二十歳の女の子だった。
元・王立アカデミーの姫君でありながら、安全靴を履いて泥にまみれ、村人のために身を粉にして働いてきた孤独な努力。
ヤンデレの暴走の裏にあるのは、誰にも弱音を吐けない彼女の、痛々しいほどの寂しさと甘えなのだ。
俺は深くため息をつき、手にしたハリセンをテーブルに置いた。
そして、しゃがみ込んで泣いているキャルルの前へ膝をつき、その銀髪の頭にポンと優しく手を乗せた。
「……悠人くん?」
「誰がどこへ逃げるって言ったよ」
「え……?」
「俺はお前の公邸の管理人で、自警団の現場監督だぞ。前村長が残した負債も、山賊のサブスクも、怪奇野菜のトラブルも、全部俺が手綱を握って解決してやるって言っただろ。どこにも行きはしないよ」
ゆっくりと、子供をあやすように頭を撫でてやる。
元ディレクターとして、プレッシャーでパニックを起こしたタレントのメンタルをケアしてきた俺の、真骨頂だ。
「キャルル、お前は立派に村長をやってるよ。誰よりも頑張ってるのを、俺が一番近くで見てる。……だから、そんな物騒なトンファー振り回さなくても、ちゃんとここにいる」
「ほ、ほんとう……? 他の女のところへ行ったりしない……?」
「行かねえよ。あんな寄生魚や天然サイコパスや拝金手羽先を相手にしてたら、俺の胃に穴が百個空いちまうわ」
プッ、とキャルルの口から小さな吹き出し笑いが漏れた。
兎耳がピコピコと嬉しそうに跳ね上がる。
「……うんっ! 悠人くん、大好きっ!」
「はいはい。ほら、席に着け。泣き虫村長のために、特別なお手製メニューを作ってやるから」
俺はエプロンを締め直すと、調理台へと戻った。
取り出したのは、今朝タローマートの契約農家から届いたばかりの特級品――ポポロ村名物の怪奇食材『人参マンドラ』である。
土から抜く時に「ギャアア!」と叫ぶ厄介な野菜だが、ヘタを切り落として水に晒せば、一般の人参の五倍以上の濃厚な糖度とマナを宿す超一級の甘味野菜へと変貌する。
「よし、冷えた身体と心を芯から温めてやるか」
俺は人参マンドラを皮ごと薄切りにし、スライスした『たまんネギ』と一緒に、熱した鍋へドンガン特製の発酵バターと共に投入した。
――ジュワァァァァッ!
甘い人参の芳香と、香ばしいバターの香りが kitchen に立ち込める。
弱火でじっくり、たまんネギが透き通るまで炒めて甘味を極限まで引き出したら、黄金色の野菜ブイヨンを注ぎ入れ、人参がクタクタになるまでコトコトと煮込む。
十分に柔らかくなったら、魔導ブレンダーで繊維を極限まで滑らかに粉砕。
鮮やかなオレンジ色のピューレに、ポポロ高原牧場の濃厚な原乳と生クリームを惜しみなく注ぎ、木べらで静かに混ぜ合わせる。
仕上げに、世界樹のマナ蜜をほんのひと匙と、岩塩を少々。
――完成。佐藤悠人特製、『極上人参マンドラの濃厚ポタージュ』だ。
白いスープ皿にたっぷりと注ぎ、表面に生クリームで小さな渦巻きを描き、パセリの代わりに刻んだ新鮮な陽薬草を散らす。
傍らには、オーブントースターでこんがりと黄金色に焼き上げた、外カリ中フワの『米麦草バゲット』を添えた。
「お待たせ、キャルル。特製の人参ポタージュだ。冷めないうちに飲め」
「わぁぁぁあっ……!!」
テーブルについたキャルルの目が、宝石のようにキラキラと輝いた。
立ち上る甘く優しい湯気。
キャルルは震える手でスプーンを手に取り、鮮やかなオレンジ色のスープをすくい上げると、フーフーと息を吹きかけて口元へと運んだ。
「はふっ……ん……っ♡」
その瞬間、キャルルの全身の力がフニャリと抜けた。
頬が林檎のように赤く染まり、ルビーの瞳がトロンと蕩ける。
「んん〜〜〜〜っっっ♡♡ おいひい……! すっごく……すっごく甘くて、クリーミーだよぉ……!」
キャルルの喉から、幸せに満ちた吐息が零れ落ちる。
生クリームとバターの濃厚なコクの奥から、人参マンドラ本来の爆発的な甘味と大地の旨味が、波のように押し寄せてくる。
たまんネギのまろやかな出汁が全体を優しくまとめ上げ、喉を通るたびに、冷え切っていた胃袋と心がじんわりと温かい幸福感で満たされていく。
「バゲットを浸して食ってみろ。さらに美味いぞ」
「うんっ……!」
キャルルはカリカリのバゲットをスープの海へと浸し、たっぷりと吸わせてパクリと頬張った。
「サクッ……ジュワァッ……! あぁっ、パンの香ばしさとポタージュが合わさって、もう止まらないよぉ……! 悠人くんのご飯は、本当に世界で一番あったかいね……♡」
スプーンが止まらない。
キャルルは夢中になってポタージュを口に運び、最後の一滴までバゲットで綺麗に拭い取って平らげた。
空になった皿の前で、彼女は両手を合わせ、満足そうにふにゃけた笑みを浮かべていた。
「ふぅ……ごちそうさまでした♡ 元気、百倍湧いてきちゃった!」
「だろ。しっかり食ったら、今日の村長の仕事も頑張れよ」
「うんっ! 自警団のパトロールも、ドンガン地下帝国との通商条約の書類確認も、ぜーんぶ笑顔でやっつけてくるね!」
ピコピコと純白の兎耳を元気に揺らし、キャルルは椅子から立ち上がった。
先ほどまでの暗いヤンデレの影はどこへやら、そこには誰もが慕う、ポポロ村の太陽のような名村長の姿があった。
「……よし、いい笑顔だ。じゃあ俺は食器を片付け――」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
スッ……。
キャルルが小悪魔のように愛らしく微笑みながら、俺の胸ポケットへ、素早い手つきで何かを滑り込ませた。
「……ん? おい、キャルル?」
「えへへ♡ 約束通り、悠人くんの心臓の音、ちゃーんと毎日聞きに来るからね♡」
キャルルはパチンとウィンクを飛ばすと、タローマン特注の安全靴を踏み鳴らして、公邸の玄関へと軽やかに駆けていった。
後に残された俺は、胸ポケットに違和感を覚えて指を差し入れた。
引き抜いたのは――。
オレンジ色の糸で人参の刺繍が施された、ふわりとキャルルの甘い体臭が漂う、あの『特製人参柄ハンカチ』だった。
「……ちゃっかり置いていきやがったな、あのウサギ村長」
俺は思わず苦笑いを浮かべ、布地を軽く叩いた。
まったく、逃走不可のGPSを押し付けられたというのに、なぜかそこまで悪い気はしなかった。
エプロンを外しながら、俺は青空の広がる窓の外を見上げる。
今日もまた、厄介で愛おしい猛獣たちと、常識人管理人の騒がしい一日が始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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