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第2話:覚醒! 焦燥の足跡(第3編/全5編)

【視点:ルシフェル】


【1】


「……騒がしいな、虫ケラども」


吐き捨てるように出た自分の声に、ルシフェル自身、微かな違和感を覚えていた。


喉の奥は焼けつくように熱く、血の味が混ざっている。だが、口から漏れ出た言葉は驚くほどに低く、澄み渡り、そして氷のように冷たかった。


右腕の感覚は、相変わらず存在しない。

手首から先は万力で叩き潰されたように骨が鳴り、ただの死んだ肉塊となって側腹へとぶら下がっている。

みぞおちを穿たれた激痛も、後頭部を襲う激しい眩暈も、消え去ったわけではなかった。


だが——それらの苦痛が、遠い。


全身を苛んでいたはずの絶望や恐怖が、まるで他人事のように遠のいていく。

脳蓋の裏側に刻み込まれた「幕末の京都」の情念。病に侵され、右腕を斬り裂かれながらも、雨の石畳の上で刃を突き出し続けた青年——沖田総司の凄惨なまでの死生観が、ルシフェルの精神の主導権を静かに浸食していた。


(右腕が動かないなら、左手で穿つ。……それだけの話だ)


脳裏で、白銀の刃を抱いた沖田の背中が、重なるように前方を向き直る。


ルシフェルは泥に塗れた左手をそっと伸ばし、地に伏せる己のすぐ傍らに転がっていた「古びた鉄の剣」の柄を迷いなく握りしめた。


金属の冷たい質感が、左手の掌へと伝わる。


今朝、不吉な胸騒ぎに背中を押されて家から持ち出した、ただの鈍色のボロ剣。 だが、覚醒した『天稟』の才と沖田の記憶がその柄を通じ、剣の芯へと流れ込んだ瞬間、脈動が起きた。


——ズ、……ッ。


刃に付着していた泥と黒錆が、音もなくパラパラと崩れ落ちる。


錆びついた鉄の身の奥底から、まるで深山から湧き出る清流のような、あるいは蒼い月光を限界まで研ぎ澄ましたかのような、静謐な白銀の光がじんわりと溢れ出し始めた。


(……見事な刃筋だ)


柄を握る左腕に、吸い付くような一体感が生まれる。


ルシフェルは左半身を前に滑らせ、身体の右側を深く隠すように身を捻った。


右腕の存在を消し去り、左手の一刀のみを前方の死線へと一直線に据える。


構えに、一切の無駄な力みがない。 風が吹けばその勢いに乗って揺らぎ、敵が動けばその隙間にスッと刃が滑り込む——完璧に計算し尽くされた、片腕ゆえの極限の立ち姿。


【2】


「ヒッ……!? な、なんだ、その剣は……!?」


正面で身構えていたインプ——ガラクが、恐怖に顔を歪めて引きつった声を上げた。


もう一匹のズーダも、背中の棘を逆立てたまま一歩、二歩と後退る。


さっきまで死に体で泥を舐めていたはずの男。


右腕はぶら下がり、血を流して倒れていたはずの虫ケラ。

それが今、左手一本でボロ剣を構えただけで、森の空気全体を氷点下へと叩き落とすほどの殺気を発しているのだ。


「フ、ツザけるなよッ! 右腕がグチャグチャの人間が、ハタリと立ったからって何ができるってんだァッ!!」


怯えを打ち消すように、ガラクが金切声で叫んだ。 黒い歪な翼を激しく羽ばたかせ、足元の腐葉土を蹴り上げる。


「死ねやァァァッ、人間がぁッ!!」


ガラクの身体が跳ね上がった。


空間を切り裂き、ルシフェルの死角——動きの固まっているはずの右側へと、目にも留まらぬ速度で滑り込む。

鉤爪の生えた指先が死の軌道を描き、ルシフェルの喉笛を一息に引き裂かんと迫る。


襲い来る下級魔族の圧倒的な殺意と速度。 以前のルシフェルであれば、その視圧と恐怖だけで思考が凍りつき、首を刎ねられるのを待つことしかできなかったはずだった。


しかし。


(……遅い)


ルシフェルの瞳に映る世界から、すべての音が消え去っていた。


跳びかかってくるガラクの表情、翼の羽ばたき、空気を切り裂く爪のミリ単位の軌道。


そのすべてが、まるで澄んだ水の中に落ちる葉のように、緩やかに、そして鮮明に止まって見えていた。


沖田の天稟がもたらす、絶望的なまでの動体視力と空間把握。


敵の踏み込みの軸、筋肉の収縮、死角へと走る爪の到達点——そのすべての「未来」が、ルシフェルの頭の中に即座に描かれる。


(半身を流し、軸をずらす。……間合いは、ここだ)


ルシフェルは左足をわずかに半歩、後ろへと滑らせた。 体幹を一切ブレさせることなく、最小限の動きで身体の軸をずらす。

ガラクの爪が、ルシフェルの頬の皮膚を僅か数ミリ掠め、空を切った。


「なっ——!?」


ガラクの眼球が、驚愕に大きく見開かれる。 命を仕留めたはずの手応えがない。

完全にかわされたのだ。敵の懐へと飛び込み過ぎた姿勢のまま、空中での体勢が大きく崩れる。


すれ違いざま。 ルシフェルの左腕の肘から先が、物理的な速度の限界を超えて、視界から「消えた」。


【3】


——『天稟・無明突き(むみょうづき)』。


ドスッ、ドスッ、ドスッ!!


極小の打撃音が、ほぼ同時に重なって森に響いた。


「ガッ、……っ!?」


空中に身を躍らせていたガラクの動きが、唐突に停止する。


ガラク自身、何が起きたのか理解できていなかった。

目の前の人間が左腕を引いた、と思った瞬間には、すでに己の肉体に「三つの風穴」が開いていたのだ。


一回の突刺動作にしか見えない白銀の閃光。


だがそれは、不可視の同一ラインを完璧になぞり、物理法則を超えた速度で繰り出された超高速の三連突刺だった。


一番目の突きが、眉間を穿つ。 二番目の突きが、喉笛を断ち切る。 三番目の突きが、胸腔の奥にある心臓を的確に突き穿つ。


「カハッ、……あ……」


白銀の光がガラクの肉体を内側から突き破り、鮮血が夜の森へと撒き散らされた。


悲鳴をあげる猶予すら与えられない。 ガラクの濁った瞳から急速に光が失われ、糸の切れた人形のようにドサリと泥の上へ叩きつけられた。


「ガ、ガラク……!? おい、ガラクッ!?」


残されたズーダが、絶叫した。 信じられない光景だった。


下級魔族とはいえ、人間を遥かに凌駕する身体能力を持つ同胞が、片腕の傷ついた人間の一突き——それも、目にも留まらぬ一瞬の攻撃で即死させられたのだ。


ガラクの骸は、血を流しながら徐々に黒い煙となって崩れ、空気中へと霧散していく。


ルシフェルは、左手の一刀を静かに引き戻すと、ゆっくりと顔を上げた。 白銀の刃身には、血の一滴すら残っていない。凄まじい刃筋が、血を弾き飛ばしていたのだ。


その前髪の隙間から覗く瞳が、恐怖で全身を激しく震わせるズーダを捉える。


「あ……あぁ……っ!!」


ズーダの膝がガクガクと砕けかけた。


ルシフェルの背後に、ゆらりと立ち上る薄蒼い影——浅葱色の羽織を身に纏った天才剣士の幻影が、冷酷な眼光で自分を見下ろしているのが見えた気がしたからだ。


「ヒィィィッ!! 化け物……化け物だぁぁぁッ!!」


ズーダは完全に戦意を喪失した。 爪を引っ込め、背中の翼を狂ったように羽ばたかせながら、命からがら逃げ出そうと森の奥へ向けて身を翻す。

サルガタナスへの報告も、魔王軍の規律も、すべての思考が吹き飛んでいた。ただ、目の前の「片腕の鬼神」から逃れたい一心で地を蹴る。


だが。


「……リコリスを奪った代償は、高くつくぞ」


ルシフェルの低く冷ややかな声が、逃げ出す魔族の背中に突き刺さった。

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