第2話:覚醒! 焦燥の足跡(第2編/全5編)
【視点:インプ(下級魔族)】
【1】
「ケケケッ! おい、待ちやがれってんだよ、ズーダ!」
湿り気を含んだ真夜中の森に、耳障りな甲高い声が響き渡る。
頭部から歪に生えた角を揺らし、鳥と爬虫類を混ぜ合わせたような禍々しい黒翼を羽ばたかせながら、下級魔族——インプのガラクは、前方を這うように突き進む同種の魔族へ向かって唾を吐き捨てた。
「うるせえぞ、ガラク! サルガタナス様は『先に行く』とお仰ったんだ! 遅れりゃオレたちの首が胴体から飛ぶんだぞケヒヒッ!」
ズーダと呼ばれたインプは、背中の鋭い棘を逆立て、爪をジャリジャリと木の幹に食い込ませながら樹上を跳ね回っていた。
二匹のインプは、つい先刻まであの哀れな人間の村を蹂躙していた手先の一端だ。
上級魔族であるサルガタナスが指示した『高潔な光』——あの栗色の髪の小娘を確保するための大がかりな転移陣。その詠唱を急ぎ完成させ、首尾よく小娘を魔界の入口へと転送し終えたところまでは良かった。
しかし、肝心のサルガタナスはインプどもの報告など意にも介さず、漆黒の魔法陣の中へと一人で消えてしまった。
取り残された下級魔族どもは、気まぐれな上官の怒りを恐れ、後を追って大急ぎで森を駆け抜けている最中だったのだ。
「ちくしょうめ、あんな小娘一人を連れ去るのに、なんでオレたちまでこんなところでコソコソ走らなきゃならねえんだ」
ガラクは不満げに喉を鳴らし、鉤爪の生えた指先で自身の耳元をガリガリと掻いた。
「文句を言うな! 魔王様のご命令だぞ! あの小娘は『特別な餌』なんだよ。
それに……ケケッ、村の人間どもは全滅だ。火の海の中で焼き豚になって死んだか、魔族の餌になったかだ。人間の悲鳴ほど美味い酒のツマミはねえからな!」
「違いねえ! ガハハッ!」
二匹は不快な嗤い声を上げながら、夜の森の木々を飛び移っていく。
人間など、魔族にとってみれば虫ケラ以下の存在に過ぎない。
腕を一本へし折られれば絶叫して這い回り、家を焼かれれば涙を流して乞い願う。
そんな脆弱で醜い生き物を踏み潰すことこそが、彼ら下級魔族にとっての唯一の娯楽であり、生存の意味だった。
だが、その時だった。
「……ん?」
前方を走っていたズーダが、突如として太い幹の上でピタリと足を止めた。
後方を飛んでいたガラクは、衝突しそうになりながら慌てて翼をはためかせ、不機嫌そうに叫ぶ。
「おい! なんだって急に止まるんだよズーダ! サルガタナス様に置いていかれるって——」
「静かにしろ、ガラク。匂うぜ……」
ズーダは赤く濁った眼球を怪しく蠢かせ、鼻をひくひくさせながら森の深遠な闇を見つめていた。 爪の先を噛み鳴らし、低く喉を鳴らす。
「血の匂いだ。……それも、ただの血じゃねえ。ついさっき流れたばかりの、濃厚で熟した人間の血だ」
【2】
「血だと……? 冗談だろ、村の人間は残らず焼き払ったはずだぜ?」
ガラクも鼻を鳴らし、空気中に漂う匂いを探った。
確かに、湿った腐葉土と夜の冷気の隙間から、強烈な生の匂いが漂ってくる。 熱く、甘く、それでいて死の予感に満ちた、人間の新鮮な血液の匂い。
「ケケケッ! どうやら村から這い出してきたマ抜けが一匹、ここまで逃げて力尽きたらしいな!」
「おいおい、探すか? サルガタナス様の後を追うのが先だろ!」
口ではそう言いながらも、ガラクの口角からは卑しい唾液がダラリと垂れ落ちていた。
下級魔族にとって、生存したばかりの新鮮な人間の肉と血は、何物にも代えがたい極上の好物だ。
魔王軍の過酷な階級社会において、上級魔族に虐げられる日々を過ごす彼らにとって、弱った人間を食い散らかすこと以上の快楽は存在しない。
「少し寄るくらい、大した遅れにはならねえよ! ひと口啜って、肉を千切ってから行けばいいさ!」
ズーダは不快な黄色い歯を剥き出しにして笑うと、樹上からすっと滑り降り、匂いの元へと向かって闇の中を這い進み始めた。ガラクも喉を鳴らしながら、その後に続く。
二匹がたどり着いたのは、背の高い木々に囲まれた、小さな斜面の麓だった。
ぬかるんだ泥と腐葉土の上に、一人の青年が倒れていた。
ボロボロに汚れた服。後頭部から流れた血が黒く木目を染め、全身を泥に塗れさせてピクリとも動かない。 そして何より目についたのは、その右腕だった。
「ケヒヒヒッ! 見ろよガラク! こいつ、右腕がグチャグチャだぞ!」
ズーダが指を指して嘲笑った。 青年の右腕は、手首から肘にかけて骨が完全に破砕され、本来曲がるはずのない方向へと歪に折れ曲がっていた。手首の肉は潰れ、皮一枚で繋がっているかのように冷たく地面にへばりついている。
「あぁ……あの顔、見覚えがあるぜ!」
ガラクが翼を羽ばたかせ、倒れる青年の顔を覗き込んだ。
「あの小娘の家で、サルガタナス様に歯向かおうとしてみぞおちを殴られたマ抜けだ! 手首をへし折られて、階段から転げ落ちて気絶していた虫ケラじゃねえか!」
「ギャハハハ! 生きて森まで逃げてきたのか! 往生際が悪い悪あがきだぜ!」
二匹のインプは、絶望の泥の中に伏せるルシフェルを取り囲み、耳障りな声を上げて踊るように嘲笑った。
ルシフェルのすぐ傍らには、泥に塗れた「古びた鉄の剣」が空しく転がっていた。
今朝、不安に背中を押されて持ち出したという、ただの鈍色の鉄くず。刃は錆びつき、一度も振られることなくそこに転がっている。
「ハッ! ボロ剣なんか抱えて森まで逃げてきたのかよ! 武器を持ったところで、手首が潰れてちゃ握ることもできねえのにな!」
ズーダが爪の生えた足で、ルシフェルの脇腹を無造作に蹴りつけた。 ルシフェルの身体がピクリと痙攣するが、意識は戻らない。呼吸は浅く、今にも途絶えそうなほど弱々しい。
「サルガタナス様に置き去りにされた時はどうなるかと思ったが、こんなところで極上の『おやつ』にありつけるとはなぁ!」
ガラクは鋭い爪をジャリジャリと研ぎ澄ませながら、ルシフェルの首元へと顔を近づけた。 皮膚のすぐ下を脈打つ、温かい頸動脈の位置を爪の先でなぞる。
「右腕は完全に骨まで潰れて死んでる。足も腰もガタガタだ。抵抗なんてできっこねえ!」
「ケケッ! 首筋から生き血を啜って、次はどの肉から喰ってやるか!」
二匹の下級魔族は、下劣な欲望を剥き出しにしながら、無抵抗の獲物をいたぶり尽くす瞬間の快楽に酔いしれていた。
彼らには理解できていなかった。 目の前に転がっているのが、ただの気弱で無力な村人の残骸ではないということに。
その暗闇の底で、何かが静かに、しかし致命的なまでに変質し始めていたということに。
【3】
「おい、ズーダ。首を切る前に、まずはこのボロ剣を遠くに放り投げておこうぜ。見ているだけで惨めになってくる」
ガラクが嘲笑いながら、泥に埋もれた鉄の剣を足で蹴飛ばそうとした。
——その時だった。
「……ズーダ……」
ガラクの足が、途中でピタリと止まった。
声を出したのはズーダではない。だが、ズーダの方を見ると、その赤く濁った眼球が恐怖で大きく見開かれ、背中の棘を硬直させて凍りついていた。
「おい……ズーダ? どうしたんだよ……」
ガラクが気味悪そうに首を傾げた、次の瞬間。
——空気が、沈んだ。
森を吹き抜けていた冷たい風が、突如としてピタリと止む。
木々の葉が擦れ合う音すら消え去り、周囲の空間全体の温度が、一瞬にして数度も跳ね下がったかのような強烈な冷気が支配した。
「ヒッ……!?」
ガラクの背筋に、冷や汗が吹き出した。
魔族としての本能が、全身の毛穴という毛穴を開かせ、「逃げろ」と絶叫し始める。 この感覚には見覚えがあった。サルガタナスのような、圧倒的な力を持つ最高級魔族の前に立たされた時に感じる、生命の格の隔絶——いや、それとも違う。
もっと冷たく、もっと鋭利で、刃そのものを喉元に突きつけられているかのような、狂おしいまでの「死の威圧感」。
ゆっくりと。 泥の中に伏していた青年の身体が、動き始めた。
「……な……なんだ……!?」
ガラクとズーダは、引きつった声を上げながら二、三歩後ろへと後退った。 青年の右腕は、依然として冷たく潰れ、側腹に死んだ肉塊のようにぶら下がったままだ。後頭部からは血が流れ、全身は泥と血で泥濘になっている。
だが。 地面に左手をつき、ゆっくりと上半身を起こした青年の「顔」を見た瞬間、二匹のインプの喉から言葉が完全に消え去った。
そこにいたのは、恐怖に泣き叫んでいたあの気弱な村人ではなかった。
前髪の間から覗く青年の瞳。 そこ宿っていたのは、静まり返った池の水面のような冷徹さと、何千もの死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、果てしない狂気の熱。
青年——ルシフェルは、血の滲む唇を微かに開くと、深遠な地獄の底から響くような声で、静かに低く呟いた。
「……騒がしいな、虫ケラども」
その言葉が森の空気を切り裂いた瞬間、下級魔族たちの頭上に、終わりなき惨劇の幕が上がろうとしていた。




