第2話:覚醒! 焦燥の足跡(第1編/全5編)
【視点:ルシフェル】
【1】
熱気が、遠ざかっていく。 背後で村を焼き尽くしていた地獄の業火も、家々が激しく爆ぜる音も、夜の森が吐き出す冷気の中に呑み込まれ、やがて消えていった。
「ハッ……ハッ……ハッ……っ!」
湿った土を蹴る足取りは、すでにまともな歩行ではなかった。 右腕を手首ごと握り潰された凄惨な激痛。後頭部を叩きつけられたことによる眩暈。そして、みぞおちを深く穿たれた衝撃は、一呼吸ごとに吐き気となって喉元を競り上がってくる。
(立ち上がれ……立ち上がるんだ……っ! リコリスが……あいつらに……っ!)
頭の中では、絶望的な光景が何度も明滅していた。 自分を庇おうとしたリコリスの背中。
深紅の髪の男——サルガタナスに髪を鷲掴みにされ、痛痛しく顔を歪めた彼女の叫び。 そして、禍々しい魔法陣の光の中に呑み込まれ、霧のように消え去ってしまった愛しい少女の面影。
「あ……ぁ……っ」
膝がガクガクと震え、支えを失った身体が斜面を滑り落ちる。 重苦しい音とともに、ルシフェルは泥と腐葉土の広がる森の地面へと倒れ込んだ。
冷たい泥が頬にへばりつく。喉の奥に溜まっていた血混じりの吐瀉物を吐き出しながら、ルシフェルは泥に左手の指を立てた。
爪の間に黒い土が詰まり、皮膚が裂ける。だが、全身を支配する絶望的な麻痺が、彼の意志を酷薄に拒絶した。
潰された右腕は、もはや自分の身体であることすら疑わしいほど冷たくなり、側腹へ死んだ肉塊のようにへばりついている。指一本、ピクリとも動かない。
今朝、不吉な胸騒ぎに背中を押されて家から持ち出した「古びた鉄の剣」は、手元から離れて泥の中に虚しく転がっていた。
(俺は……何のために……)
絶望の泥沼が、ルシフェルの意識を底へ引きずり込んでいく。 視界を覆う夜の森の闇はどこまでも深く、光の一片すら差し込む気配はなかった。 後頭部から流れる温かい血液が耳の裏を伝い、森の土へと染み込んでいく。
瞳から急速に光が失われ、ルシフェルは深い暗闇の底へと完全に沈み込んでいった。
【2】
——ザァァァァ……。
耳鳴りのような音が、次第に「降りしきる雨の音」へと変わっていく。
鼻腔を突くのは、焼き尽くされた村の焦げ臭さでも、森の腐葉土の匂いでもない。 冷たい雨の匂いと、濃密な血と硝煙の匂いだった。
(……雨……? なぜ、雨が……)
ルシフェルの意識は、漆黒の昏睡の中に漂っていた。 毎夜のように彼を苛んでいた「狂った宴」のアコースティックで不気味な旋律。それが今、激しい雨音によって途切れ途切れに掻き消されていく。
暗闇の向こう側に、見たこともない光景が浮かび上がっていた。
異国の衣装を纏った男たちが、刀を交え、怒号を上げながら殺し合う凄惨な死線——幕末の京都。
雨に打たれる石畳の上に、一人の青年が立っていた。
浅葱色の羽織を纏い、濡れた黒髪を背に垂らした青年。 その背中からは、呼吸を刻むたびに吐き出される激しい苦痛が伝わってくる。
(あく……っ、カハッ……!!)
青年が激しく咳き込み、鮮血を雨水の中へぶちまける。
病魔が彼の内臓を苛み、命の灯火を削り取っていた。
それだけではない。
青年の右腕は、肩口から肘にかけて刺客の刃によって深く斬り裂かれ、ダラリと力なく垂れ下がっていた。完全なる死に腕だった。
しかし。 その凄惨極まりない満身創痍の状態でいながら、青年の背中からは「諦め」の気配など微塵も漂っていなかった。
ルシフェルは、闇の底からその青年の背中をじっと見つめていた。
右腕を失い、死の直前の極限状態に晒されながらも、折れることのないその瞳。
泥に伏せる己の惨めな姿と、その背中が恐ろしいほどに重なり合っていく。
すると、雨の中に立つ青年が、ゆっくりと振り返った。
涼やかで美しい顔立ち。だが、その切れ長の瞳に宿っていたのは、静まり返った池の水面のような冷徹さと、刃そのもののような狂気の熱だった。
力が…力が欲しいか…? 『我が名は、沖田総司』
青年の声が、ルシフェルの脳蓋の奥底に直接響き渡る。
「欲しい…ほしい…欲しい………!」
『右腕を一本失った程度で……刀が振れぬとでも思うたか、少年』
「欲しい…ほしい…欲しい………!」
沖田の影が、静かに歩み寄ってくる。
彼が左手に握りしめている一振りの刀。その刃は、降りしきる雨と薄闇の中で、まるで月光を吸い上げたかのように幻想的な白銀の光を帯びていた。
『死線において、腕の有無など枝葉に過ぎない。刃とは腕で振るものではなく、踏み込みの軸と、覚悟の刃筋で通すものだ』
沖田の手が、ルシフェルの泥に塗れた左手へ重ねられる。
怒濤のような「記憶」と「技術」の濁流が、ルシフェルの脳内へ流れ込んできた。 死の直前、片腕を失った極限の状態で到達した、天才の身体操作。
『僕の無念と、この剣を……君に預けるよ』
「欲しい…ほしい…欲しい………!」
沖田の薄い微笑みとともに、脳裏を支配していた狂った歌声が完全に粉砕された。
潰された右腕の激痛が、全身の神経を突き動かす鋭利な覚醒の熱へと塗り替えられていく。
闇が、引き裂かれていく。 ルシフェルの閉ざされた瞼の裏側に、白銀の眩い一差しが、静かに差し込み始めていた。




