第2話:覚醒! 焦燥の足跡(第4編/全5編)
【視点:混ざり合う視点(ルシフェル/逃走するインプ)】
【1】
(ヒィィィッ! 逃げろ、逃げろ、逃げろォォォッ!)
背後の樹木をなぎ倒す勢いで夜の森を滑空しながら、インプ——ズーダの脳内は、灼熱した恐怖の叫びで埋め尽くされていた。
羽ばたく翼が、冷たい枝葉を荒々しく引き裂く。
足元の腐葉土を蹴りつけ、一刻も早くこの不気味な空間から遠ざかろうと必死に死力を尽くしていた。
一瞬だった。
ほんの息つく間すら与えられず、同胞のガラクが屠られた。
右腕を潰され、死に体で泥を舐めていたはずの、あの「ただの村人」の手によって。
(あり得ねえ……あり得ねえだろッ! あんな人間がいるわけがねえ! あいつの手元で光ったボロ剣……何なんだよあの速さはッ!? 突きが一回じゃねえ、一度に三つの穴が叩き開けられやがったんだぞケヒヒヒッ!!)
パニックを起こした思考がぐるぐると空回りし、爪の先が恐怖でガタガタと震える。
魔族の肉体は人間を凌駕しているはずだった。
力も、速度も、生命の格すらも自分たちが圧倒的な上に君臨しているはずだった。
だが、あの青年の前髪の隙間から覗く眼光に触れた瞬間、ズーダの全身の細胞は「己が狩られる側の弱者である」という絶望的な事実を叩きつけられたのだ。
(サルガタナス様に知らせねえと……! あの男はただの生き残りじゃねえ! 狂ってやがる、あの眼は本物の殺戮者の眼だぁぁッ!!)
必死に翼を羽ばたかせ、地上数メートルの高さを滑空するズーダ。
前方に見える大きな幹の影へ逃げ込もうと、死に物狂いで腕を伸ばした。
——しかし。
背後から迫る「空気の羽ばたき」すら存在しなかった。
ただ、夜の静寂を静かに滑るような、冷ややかな靴底の踏み込み音が一音。
——ト……ン。
(……え?)
ズーダの耳に、その音が届いた時には。
すでに彼の真横、闇の隙間をすり抜けるようにして、一人の青年の影が追いついていた。
【2】
(踏み込みの軸を深く、風の抵抗を刃筋で切る。……追いついた)
ルシフェルの意識の中では、自身の肉体と「沖田総司」の遺した身体感覚が、完璧な調和を保ちながら連動していた。
病魔に冒され、右腕を斬り裂かれ、死の直前まで至った天才剣士。
彼が到達したのは、腕力や魔法の魔力といった力任せの破壊ではない。
足の指先から膝、腰の回転、そして刃の重心の移動に及ぶまで、すべてのエネルギーを一点の「踏み込み」へと集約させる、極限の身体操作だった。
右腕は完全に死んでいる。側腹に冷たくぶら下がり、呼吸のたびに手首の砕けた骨が痛む。
しかし、その痛みがルシフェルの集中力を削ぐことはなかった。
むしろ、その痛みが冷酷な現実の楔となり、前世の天才が宿した「冷徹な死生観」をより一層研ぎ澄ませていく。
左手に握られたボロ剣は、月光のごとき白銀の光を絶やすことなく放っていた。
泥も、黒錆も、もはや刀身のどこにも残っていない。
研ぎ澄まされたその刃は、夜の暗闇を照らし出す一差しの光となって、空中を逃走する魔族の背中を的確に捉えていた。
「ひっ、あぁぁぁぁっ!?」
空中で振返ったズーダの濁った眼球が、恐怖に大きく見開かれる。
信じられない速度。追いつかれるはずのない飛翔速度を超え、人間が地に足をつけたまま、己の真横へ滑り込んできていたのだ。
青年の左半身が深く引き絞られる。
白銀の刃先が、一直線にズーダの喉元と胸腔の死角を狙って固定されていた。
「来んな! 来るんじゃねぇぇぇッ!!」
狂乱したズーダが、右腕の鋭い鉤爪を振りかざし、ルシフェルの顔面を目がけて振り下ろす。
悪あがきの絶叫とともに解き放たれる、死に物狂いの一撃。
だが——ルシフェルの瞳には、その爪の軌道すらも止まって見えていた。
(死角からの振り下ろし。……軸を三寸左へ流せば、届かない)
ルシフェルは左足の踏み込みを一ミリの狂いもなく滑らせ、最小限の半身で爪をかわす。
ヒュン、と風を切る不快な音がルシフェルの耳元をかすめたが、彼の髪一筋すら掠めることはなかった。
そして、交差する一瞬。
ルシフェルは左手に握る白銀の剣を、ただ静かに、前方の直線へと解き放った。
【3】
——『天稟・一閃』。
ドスッ……!!
肉体を貫く重厚な手応えが、ルシフェルの左手に残酷なまでに鮮明に伝わってきた。
「ガっ、……カハッ……っ!?」
空中での動きを完全に止められたズーダの口から、どす黒い滑落した血が激しく吹き出した。
白銀の刃先が、彼の胸板の真ん中——背中へと抜けるように深く、寸分の狂いもなく貫通していた。
逃げ惑う魔族の心臓を、一直線の一刺しが正確に打ち砕いたのだ。
「あ……が……なぜ……こんな……虫ケラ、の……手が……っ」
ズーダの目から、急速に生気が失われていく。
刺さった白銀の刃から溢れ出る透明感のある光が、魔族の体内に宿る禍々しい魔力を内側から浄化するように弾けさせていた。
ルシフェルは一切の感情を排した冷ややかな瞳で、貫かれた魔族を見つめていた。
そこにあるのは、敵を討ち果たしたカタルシスでも、殺戮への愉悦でもない。
ただ、リコリスを奪った者たちに対する、静かで途方もない「執念」だけだった。
「言ったはずだ」
ルシフェルは低く、地獄の底から響くような声で呟く。
「リコリスを奪った代償は……高くつく、と」
ルシフェルが左腕に力を込め、白銀の剣を一気に引き抜いた。
「ギャァァァァァッ……!!」
断末魔の悲鳴とともに、ズーダの肉体は宙で大きく折れ曲がり、泥と腐葉土の広がる地面へと叩きつけられた。
貫かれた胸の穴から黒い煙が猛烈な勢いで吹き出し、その骸は急速に崩壊を始めていく。
爪が、翼が、禍々しい角が、風に溶ける黒い灰となって夜の空気中へと散っていく。
ほんの数十秒前まで、人間を虫ケラと蔑み、喰い散らかそうとしていた下級魔族の痕跡は、何一つ残ることなく消え去った。
ふぅ、とルシフェルは静かに息を吐き出した。
左手に握られた白銀の剣。その鋭利な刀身には、魔族の血の一滴すら付着していなかった。
完璧な刃筋と、覚醒した『天稟』の光が、すべての汚れを弾き飛ばしていたのだ。
夜の森に、再び静寂が戻ってくる。
ルシフェルは泥に塗れた己の脚を見つめ、それから動かなくなった右腕へと視線を落とした。
潰された手首の痛みが、再び神経の奥底でジクジクと脈打ち始めている。
だが、彼の心には、もう一話目のような絶望的な弱さは存在しなかった。
右腕を失おうとも、この左手に宿る沖田総司の記憶と、光を纏う白銀の一刀がある限り、自分は戦える。
ルシフェルは固く口を結び、夜明けの兆しを待ち受ける東の空へと視線を向けた。




