第16話4編:客席の瞳と破られた誇り
第16話4編:客席の瞳と破られた誇り
【シバリア視点】
『大血闘場』を揺らす観客の怒号と熱狂が、観客席の隅に設えられた日陰の通路にまで地鳴りのように伝わっていた。
「くっ……ガハッ……! あぁぁっ……!」
俺とノエルの肩に崩れかかるようにして体重を預けている男――「流星拳」と呼ばれた鈴の喉から、血混じりの呻き声が漏れ出していた。 手首や首筋に刻まれたサルガタナスの『邪爪の呪毒』は、ノエルの手厚い『ラ・ヒール』によって辛うじて最悪の侵食を押し留められているものの、その肉体を絶え間ない激痛で苛み続けている。
「リンさん、しっかりしてください……! 今、手すりの近くまでお連れしますからね……!」
ノエルが額に汗を浮かべ、必死に聖なる治癒の光を絶やすことなくリンの身体へと注ぎ込んでいた。
「ノエル、焦るな。お前まで魔力切れで倒れては元も子もない」
「ですがシバリアさん……! リンさんのお身体は、いつ毒が暴発してもおかしくない状態なんです! 本来なら地下酒場のベッドで横になっていなければならないのに……!」
「……いいんだ、小娘……」
リンが血の混じった唾を床に吐き捨て、歪んだ指先で俺の胸甲を固く掴んだ。その死んだように濁っていた双眸が、激痛に苦しみながらも、熱気の渦巻く大血闘場の砂場へと注がれている。
「見せろ……。あの小僧が……ルシフェルと言ったか……。あいつが……どうやって戦っているのかを……俺に見せろ……っ!」
「リンさん……」ノエルが悲しそうに息を呑む。
俺は黙ってリンを抱え直し、観客席の最前列から少し離れた、影になった手すりの脇へと彼を立たせた。
そこから見下ろす広大な砂場の中央――。 そこには、満身創痍でありながら、凛とした佇まいで刀を構え続ける黒髪の剣士……ルシフェルの姿があった。
「おい、来たかオッサン!」
客席の手すりから身を乗り出していたブラッドが、俺たちを振り返った。真紅の髪を汗で湿らせ、赤銅色の瞳に激しい興奮と緊迫感を宿している。
「見ろよ、ルシフェルを! あいつ、もう本戦の四回戦目だぞ! 怪力自慢の斧使いも、毒針使う暗殺者も、全部ただの刀と風だけで切り伏せやがった!」
「四連勝か……」 俺は大剣の柄を握る手に力を込めた。 「連戦による体力の消耗は限界近いはずだ。それ以上に、あの左腕の『黒い影』とのせめぎ合いが苛烈を極めているな」
砂地の中央で、ルシフェルは大きく肩を上下させ、荒い吐息を吐き出していた。 その左腕を頑丈に縛り上げている皮帯の隙間から、不気味な黒い魔気が燻るように立ち上っている。脳裏を蝕む『魔王の半身』の誘惑、そして全身を苛む激痛。
♪〜愛しき羊よ、闇へ堕ちよ……その身を刻み、我に委ねよ……〜♪
俺たちの耳には聞こえないはずの、あの禍々しい悪魔の歌声と死闘を繰り広げながら、ルシフェルは決して左腕の影を解き放とうとはしていなかった。
【リン視点】
「ハァ……ハァ……っ! く……っ!」
砂場で見下ろす小僧――ルシフェルの足元が、ガクガクと大きく震えていた。
(馬鹿な……奴の肉体は、もう限界を超えているはずだ……!)
俺の砕かれた両拳が、うずくように脈打った。 かつて闘士として修羅場をくぐり抜けてきた俺には分かる。あの小僧の全身の筋肉は悲鳴を上げ、視界も眩んでまともに立っていることすら奇跡に近い状態だ。
さらにおぞましいのは、あの左腕から漂う気配だ。 サルガタナスの『邪爪』どころではない、本物の魔性の闇……魔王の半身の影が、小僧の意識を喰らい尽くそうと牙を剥いている。あの暴虐な力をひとたび解き放てば、目の前の敵など一瞬で肉片に変えられるはずなのだ。
それなのに――なぜだ。
「なぜ……あの力を使わない……!?」
俺の掠れた叫びに、隣に立つブラッドという悪魔の小僧が、フンと鼻を鳴らして答えた。
「使わないんじゃねえよ、オッサン。『使わない』って決めたんだよ、あいつはな」
「決めた……だと……!?」
「そうだ」ブラッドは赤銅色の戦斧を肩に叩きつけ、まっすぐにルシフェルを見つめた。
「影の力に頼って勝ったところで、自分は化け物の奴隷になるだけだってな。……お前の心を叩き直して、サルガタナスをぶちのめすためには、自分自身の人の刃で勝たなきゃ意味がねえんだよ!」
「俺の……心を……?」
胸の奥が、激しく締め付けられた。
目の前で次の対戦相手――身の丈三メートルに迫る巨漢の鉄槌使いが、大地を揺らしながらルシフェルへと迫っていく。
「死ねぇぇぇ! 手負いのネズミがぁぁぁっ!」
振り下ろされる、車輪ほどもある巨大な鉄槌。 回避など不可能な間合い。ルシフェルの左腕から、一瞬だけ泥のような黒い霧が噴き出し、その瞳が漆黒に染まりかけた。
(やはり力に屈するのか……! 悪魔の力に呑み込まれるのか……!)
俺は思わずそう叫びそうになった。
だが――小僧は違った。
「ガあぁぁぁぁぁっ!!」
ルシフェルは血を吐くような咆哮を上げると、自らの右手で、暴走しかけた左腕の関節を強烈に押し潰すように掴んだのだ。骨が軋む音がここまで聞こえてきそうなほどの自傷行為。己に激痛を叩き込むことで、黒い影の侵食を強引に弾き返した!
♪〜拒むな……我を受け入れよ……その鉄塊ごと、敵の肉片を喰らい尽くせ……〜♪
脳裏に渦巻くであろう化け物の歌声を、血反吐とともに吐き捨てる小僧。
『ラ・ラルド』――!!
血の滲む足元に、最下位風魔法の澄んだ魔力を纏う。 摩擦をゼロにした絶対の滑走。沖田総司の踏み込みが、漆黒の影など一欠片も交えず、純粋な疾風となって砂地を滑った。
カチン――。
一閃。 鉄槌の柄が一刀両断され、巨漢の胸甲に綺麗な一筋の斬撃が走る。 巨体がドガァァンと倒れ伏し、歓声の嵐が『大血闘場』を揺らした。
「ハァ……ハァ……ハァ……っ!」
砂場に刀を突き立て、膝をつきながらも立ち上がるルシフェル。 その全身は泥と血に塗れ、決して美しくなどない。だが……泥臭く、泥泥になりながらも、大切な者のために、俺のような落ちぶれた廃人のために、純粋な人の剣技だけで死線を潜り抜けるその姿。
「あ……ぁ……」
熱いものが、俺の死んでいたはずの瞳から溢れ出た。
(俺は……何をしていたんだ……?)
二年前、仲間を殺され、拳を砕かれ、俺はサルガタナスの恐怖に屈した。 『勝てるわけがない』『人間が立ち向かっていい相手じゃない』と自分に言い訳をし、酒に逃げ、心を閉ざして死んだふりをしていた。
だが、目の前の小僧はどうだ。 身体の中に本物の化け物を飼い、その激痛と呪いに苛まれながらも、一度たりとも前を見ることをやめていない。足が折れようと、身が喰われようと、仲間を信じて刃を振り続けている!
「俺は……俺は……っ!!」
砕かれ、歪んだ己の両拳を、俺は血が滲むほど固く握りしめた。 指の骨が激痛を訴える。だが、胸の奥で冷たく凍りついていた何かが、激しい音を立てて砕け散っていくのが分かった。
「リンさん……」
ノエルが涙を浮かべながら、優しく私を見つめていた。
「ルシフェルさんは、諦めていません。あなたの誇りも、大切な人との未来も……絶対に諦めないために戦っています!」
「ああ……分かっている……分かっているよ、小娘……!」
俺の死んだ瞳に、失われたはずの灼熱の火花が、再び激しく燃え上がり始めていた。
「おい、小僧……ルシフェル……!」
俺は手すりを掴み、激痛に耐えながら身体を起こした。
「負けるな……! そんな奴らに……自分の中の化け物に……負けるんじゃねぇぇぇっ!!」
地下酒場の廃人だった「流星拳のリン」の叫びが、大血闘場の歓声の渦へと、力強く響き渡ったのだった。
第16話4編はここで終わりです!




