第16話3編:肉体の限界と肉薄する
第16話3編:肉体の限界と肉薄する影
【ルシフェル視点】
♪〜愛しき羊よ、闇へ堕ちよ……その身を刻み、我に委ねよ……〜♪
頭蓋の奥で、おどろおどろしい冷酷な歌が響いていた。
言葉というよりも、脳髄を直接揺さぶるような禍々しい旋律。奪われたリコリスの面影、彼女の冷たい手、無力だったあの日の自分を嘲笑う悪魔の歌声。左腕を固く縛り上げた皮帯の裏側で、皮膚孔が引き裂かれんばかりに「黒い影」が脈動し、ドクドクと不気味な熱気を全身の血管へと送り込んできていた。
(絶たろ……! 俺の脳裏で……歌うな……っ!)
「ガハッ……! 息が……っ!」
俺は膝をつきそうになるのを、右手の刀を泥混じりの砂地に突き立てることでどうにか踏みとどまった。 予選を突破し、本戦へと進んだ『大血闘場』。 二戦目、三戦目と、並み居る巨魁や狂暴な闘士たちを、俺は左腕の「黒い影」を一切使わずに切り伏せてきた。しかし、数時間を超える連戦による圧倒的な肉体の疲労、独立した意思を持つかのように脳裏を揺さぶる歌声、そして荒い吐息とともに高まる感情の昂ぶりが、抑え込んでいた「魔王の半身」の覚醒を容赦なく促していた。
「おいおい、どうしたぁ! さっきまでの勢いはどこへ行きやがった、黒髪の剣士ぃぃっ!」
目の前で、巨大な鉄製モーニングスターを振り回す大闘士が、下衆な邪笑を浮かべて迫ってくる。
視界の端が、泥のような漆黒で塗り潰されていく。 左目の視界はすでに半分以上濁り、沖田総司の絶対の踏み込みを支える足元が、ぐらりと大きく揺らいだ。
(まずい……! 『ラ・ラルド』の踏み込みが……滑らない……っ!)
「死ねぇぇぇっ!!」
頭上から振り下ろされる殺気の塊。 体を退かさなければ殺される。だが、その回避の土壇場で、頭裏の歌声が一際高く狂おしく跳ね上がった。
♪〜拒むな……我を受け入れよ……その鉄塊ごと、敵の肉片を喰らい尽くせ……〜♪
左腕の皮帯がメリメリと音を立てて弾け飛びそうになる。 黒い霧が手首から溢れ出し、刀身を染め上げようとした――。
【ノエル視点】
「ルシフェルさん―――ッ! ダメです、使わないで……っ!!」
観客席の最前列で、私は手すりに身を乗り出し、悲痛な叫びを上げていました。
遠く見下ろす砂場の中央、ルシフェルさんの身体から不気味な漆黒の魔気が漏れ出し、その左目が恐ろしい魔物のように漆黒に染まりかけているのがハッキリと見えました。 連戦の疲労でルシフェルさんの精神力が限界を迎え、あの「魔王の半身」の影が、ルシフェルさんを内側から食い破ろうとしています。
「ルシフェルさん! 負けないでください! 私たちはここにいます! 『ラ・ヒール』――ッ!!」
届かないと分かっていても、私は客席から必死に治癒の光を放ちました。 緑色の柔らかな光の粒子が、風に乗って闘技場へと舞い散っていきます。
「くそっ……! あいつ、あのバケモノの歌に呑み込まれかけてやがる……!」
隣で赤銅色の戦斧の柄を固く握りしめたブラッドくんが、真っ赤な顔をして叫びました。
「おい、ルシフェル!! 聞こえてんだろ、この馬鹿野郎!!」
ブラッドくんは客席の手すりを身を乗り出すようにして乗り越え、喉が引き裂かれんばかりの怒号を放ちました。
「何が『己の刃だけで勝つ』だ! 何が『影の力は使わない』だ! 舌の根も乾かぬうちにその黒い影に甘えようとしてんじゃねえよ!!」
「ブラッドくん……!」
「いいかルシフェル! もしお前がその影に呑み込まれて化け物になったらな……俺が今すぐここから飛び降りて、お前を『ラ・ルビ』の最大火力で丸焦げにしてやるからな!! 二度とリコリスって女の顔も見られねえように、灰にしてやるぞッ!!」
ブラッドくんの灼熱の叫びと、ノエルちゃんの祈り。 そして、その隣で静かに立ち上がったシバリアさんが、重厚な声を大血闘場全体に響かせました。
「踏みとどまれ、ルシフェル!! お前は一人ではない! 騎士の誇りと、俺たちの信義を……その刀に込めろ!!」
【ルシフェル視点】
「が……ぁぁぁぁぁっ!!」
観客席からの叫びが、脳裏を支配していた不吉な歌を力任せにぶち破って届いた。
(ブラッド……シバリア……ノエル……!)
「影に……頼って……たまるかぁぁぁっ!!」
俺は咆哮した。 溢れ出そうになっていた左腕の黒い霧を、無理やり己の精神力で肉体の奥底へと押し戻す。 右足の膝を強烈に泥へ叩きつけ、己の右拳で左腕の脈動する関節を自傷に近い力で強く粉砕するように掴んだ。激痛が全身の神経を突き抜け、頭蓋の歌声が悲鳴を上げて遠ざかっていく。
「な……なんだお前は!? 急に自分の腕を掴んで……狂ったのか!?」
迫っていたモーニングスターの男が、俺の異常な気迫に気押され、一瞬だけ踏み込みを躊躇った。
その「一瞬」で、十分だった。
(滑れ……! 俺の足……! 風になれ!!)
『ラ・ラルド』――!!
最下位風魔法の魔力が、血の滲む俺の足元を包み込む。 摩擦をゼロにした絶対の滑走。沖田総司の踏み込みが、漆黒の影など一欠片も交えず、純粋な疾風となって砂地を滑った。
「なっ……速――」
モーニングスターが空を切り、男の懐へと滑り込む。
カチン――。
刀身が閃光となって弾けた。 黒い影の魔気ではない。純粋に研ぎ澄まされた、風と刀の三段突き。
一突き目がモーニングスターの鉄柄を断ち切り、二突き目が胸甲を砕き、三突き目が男の首元を正確に捉えて弾く。
ドガァァァンッ!!
「ぐあぁぁぁっ!?」
巨漢の身体が崩れ落ち、闘技場の砂地に激しい衝撃音が轟いた。
「ハァ……ハァ……ハァ……っ!」
俺は刀を地面に突き立て、激しい息を吐き出した。 左腕の黒い紋様は、皮帯の下で忌々しそうに不気味な疼きを収め、皮膚の奥へと引き下がっていく。俺の精神が、仲間たちの声によって土壇場で影の歌に打ち勝ったのだ。
『勝者――ルシフェルぅぅぅっ!! 黒髪の剣士、またしても影の片鱗すら見せず、純粋な風と剣技だけで巨大大闘士を叩き伏せたぁぁぁっ!!』
観客席から、地鳴りのような大歓声が湧き上がる。
俺はゆっくりと立ち上がり、客席の最前列で見守る三人へ向けて、右手で静かに刀を鞘へと納めてみせた。
「……ハッ、格好つけやがって……」
客席でブラッドが安堵の笑みを浮かべ、ぷいっと横を向くのが見えた。
だが、俺たちの死闘はまだ終わっていなかった。 観客席の最も暗い日陰の隅――ノエルとシバリアに抱えられてやってきた、全身を包帯で固められた男……「流星拳のリン」が、死んだはずの瞳を見開き、震える手で手すりを掴みながら、俺の戦いを静かに注視していたのだった。




