第15話5編:二人の「半身」
第15話5編:二人の「半身」
地下酒場『泥憑き亭』の薄暗闇の中、俺とリンの視線が真正面からぶつかり合っていた。
焦げ臭い煙と安酒の匂いが立ち込める室内で、俺の叫びだけが不気味な静寂を切り裂いて響き渡っている。
「足が折れても……この身が化け物に喰い尽くされようとも……前へ進む、だと……?」
リンの掠れた声が漏れ出た。 外套の隙間から覗くその「死んだ瞳」に、ほんのわずかだが……激しい感情の波紋が広がっていくのが見えた。折られた誇りとトラウマの底で泥のように沈んでいた男の瞳に、かすかな熱が宿りはじめている。
「そうだ」
俺は膝をついたまま、リンの目を逸らさずに言葉を重ねた。
「俺は一人で戦っているんじゃない。俺が暴走しそうになったら止めてくれる仲間がいる。俺の背中を任せられる仲間がいるんだ。……お前にもかつて、命を預け合える仲間がいたはずだろ」
「仲間……」
リンは力なく呟き、奇妙な方向に曲がった己の両手をじっと見つめた。骨が叩き砕かれ、無惨に歪んだ皮膚の痕跡。仲間の悲鳴と、自慢の拳が破壊されたあの惨劇の記憶が、脳裏を駆け巡っているのだろう。
「やめろ……思い出させるな……。俺のせいで……俺が不甲斐ないばかりに、あいつらは全員……肉片に変えられたんだ……!」
リンの身体が、激しい罪悪感と痛みに苛まれて震え出す。
「お前のせいじゃない!」
声を上げたのはノエルだった。 彼女は一歩前に踏み出し、涙の浮かぶ優しい緑色の瞳でリンを見つめた。
「仲間の方々は、リンさんを責めてなんていません! 大切な人たちのために最後まで戦ったリンさんの誇りを、一番知っていたのはその仲間の方々のはずです……! それなのに、リンさんがご自分を責めて暗闇に閉じこもっていたら……亡くなった方々が悲しみます!」
「ノエル……」
「リンさん、お願いです……」 ノエルは胸の前で小さく手を合わせ、温かな光の気配をその手に纏わせた。
「ご自分の心を、これ以上痛めつけないでください……。傷ついた過去を抱えたまま立ち上がろうとするルシフェルさんを、どうか……助けてあげてください……!」
ノエルの悲痛でまっすぐな訴えが、リンの胸を深く突き刺した。
「チッ……相変わらずお人好しだな、ノエルは」
ブラッドが戦斧を肩に担ぎ直しながら、ふんと鼻を鳴らした。 赤銅色の瞳を細め、冷たくも温かい視線をリンへと向ける。
「おい、オッサン。俺は悪魔だから人間の感動的な話なんて興味ねえよ。だがな、一つだけ言っておいてやる」
ブラッドは一歩歩み寄り、卓の上の酒瓶を足蹴にして倒した。カランと虚しい音が響く。
「酒に溺れて死んだふりしてんのは楽だよな。だがな、お前がそうやって怯えて逃げ回ってる間にも、サルガタナスの奴らは高笑いしてんだぞ? 『あの流星拳のリンとやらも、完全に叩き潰してやったわ』ってな。……それで本当にいいのかよ? 悔しくねえのかよ!?」
「ブラッド……」
シバリアも静かに歩み寄り、重厚な威圧感を伴ってリンの横に立った。
「俺は騎士だ。敗北の苦しみも、己の無力さに打ちひしがれる夜の冷たさも知っている。……だがな、真の戦士とは、叩きのめされた回数ではなく、そこから何度立ち上がったかで決まるものだ。お前の誇りは、まだ死んではいないはずだぞ」
仲間たちの言葉が、次々とリンの心に打ち込まれていく。
俺は己の左手を胸に当てた。 ノエルの治癒魔法と仲間たちの存在によって抑え込まれているものの、皮膚の裏側では不気味な「黒い影」が、今も脈動を続けている。俺は魔王の影という呪いを抱えた「半身」なのだ。
そして、目の前でボロ布を被り震えるリン。 彼もまた、過去の惨劇と叩き潰された身体という絶望の呪いを抱えた、もう一人の「半身」だった。
「リン……」 俺は静かに呼びかけた。
「俺たちの力だけでは、サルガタナスの『邪爪』を破ることはできないかもしれない。この左腕の影に呑み込まれて、俺自身が化け物になる恐怖も消えてはいない。……だからこそ、お前の経験が必要なんだ」
俺は右手を差し出し、リンの目の前へと突き出した。
「お前の折られた拳の代わりに、俺が刀を振るう。お前の失われた誇りの代わりに、俺が風を纏って敵を貫く。……俺と一緒に、もう一度戦ってくれないか?」
「ルシフェル……お前……」
リンは絶句し、見開いた瞳で俺の差し出された手を見つめていた。
差し出されたのは、光と影の狭間で必死に抗う青年の右手。 そして、目の前にいるのは、両拳を叩き壊され、心まで死に絶えかけた中年闘士。
(拒絶か……それとも……)
地下酒場の重苦しい空気の中で、二人の「半身」を抱えた男たちの時間が、ゆっくりと動き出そうとしていた。
リンの手が、微かに動いた。 変形し骨の浮き出た歪な指先が、震えながら俺の手へと伸びかけ――
「……くっ……ガハッ……!?」
次の瞬間、リンは突如として胸を押さえ、激しく血を吐き出して卓へ倒れ込んだ。
「リンさん!?」ノエルが悲鳴を上げる。
「な……なんだ死に損ないのオッサン! 急に血なんて吐き出しやがって!?」 ブラッドが驚愕の声を上げた。
リンの喉からは、ゴロゴロと異様な音が漏れ出ていた。 彼の手首や首筋に、漆黒の不吉な「爪痕」のような紋様が、まるで生き物のように不気味に浮かび上がり、その肉体を内側から蝕み始めていたのだ。
「これ……これは……サルガタナスの『邪爪の呪毒』か……!?」 シバリアが息を呑み、大剣の柄を固く握りしめる。
「ヒ……ヒィ……ッ! 思い出さ……せ……るな……っ! 爪が……俺の……体を……っ!」
リンは狂乱と激痛の叫びを上げながら、床を転がり回った。 過去のトラウマと、二年前の戦いで叩き込まれた残忍な呪毒が、ルシフェルたちの訪れと感情の高ぶりによって最悪のタイミングで再発したのだ。
「ノエル! 手当てを!」 俺は叫び、狂乱するリンの身体を抱きかかえた。
「はい! 『ラ・ヒール』――ッ!!」
ノエルの聖なる光が、暗い地下酒場を照らし出す。 だが、リンの体内で暴れ狂う呪毒の黒い気配は、ノエルの魔法すら弾き返さんばかりに跳ね上がっていた。
「くそっ……! 話を聞くどころじゃねえぞルシフェル!」 ブラッドが戦斧を構え、周囲を警戒する。
覚醒しつつあるルシフェルの「魔王の半身」、そして過去の呪毒に蝕まれ苦しむ「流星拳のリン」。 二人の運命が複雑に絡み合う中、武闘都市バルカンでの物語は、さらなる混乱と試練の渦へと巻き込まれていくのだった。




