第15話4編:破られた誇り
第15話4編:破られた誇り
焦げ臭い煙が漂う地下酒場『泥憑き亭』。
ブラッドが打ち放った灼熱の炎魔法『ラ・ルビ』の残り香が充満する中、卓に突っ伏していたリンが、泥に塗れた外套の隙間から顔を上げていた。
「今の炎……高熱の集中……。ただの悪魔の小僧じゃないな……?」
リンの掠れた声には、先ほどまでの拒絶とは違う、かすかな硬さが混ざっていた。 その死んだ瞳が、戦斧を担いでフンと鼻を鳴らすブラッドの姿をじっと捕らえている。
「へっ、気安く小僧って呼ぶなよオッサン」 ブラッドは赤銅色の戦斧を床に突き立て、腕を組んで睨み返した。
「俺はブラッドだ。元魔王軍幹部サルガタナスの配下だった悪魔だぜ。俺の炎はただの火遊びじゃねえ……あのクソ幹部を焼き潰すために磨き上げた炎だ!」
「サルガタナスの……配下……」
リンの身体が再び微かに戦慄いた。だが、今度は錯乱して叫び出すことはなかった。変形し骨の浮き出た己の両手を凝視し、深く不気味な溜め息を吐き出す。
「無駄だ……どんな炎を纏おうと、どんな剣技を振るおうと……あいつらの『邪爪』の前には届かん。絶望を味わうだけだ……」
「おい、そこの店主!」
それまで静観していたシバリアが、重々しい足取りでカウンターへ向かい、店主の男を呼び止めた。店主は床で悶絶するチンピラ闘士たちを怯えの混じった目で見つめながら、唾を呑み込んでいた。
「な、なんだよ騎士様……。うちの店で派手に暴れてくれたじゃねえか……」
「すまんが、これを受け取れ」 シバリアは袋からずっしりと重い銀貨の束を取り出し、カウンターへ置いた。
「店の修繕費と、倒れた愚か者どもの治療費だ。……その代わり、教えてもらいたい。この鈴という男が……かつてサルガタナスとどう戦い、どうやってその誇りを破られたのかをな」
「シバリアさん……」ノエルが身を乗り出す。
店主は銀貨の重さを確かめると、やれやれと首を振り、拭いていたグラスを置いた。
「……たく、物好きな奴らだ。いいか、リンの過去を知ったところで、何かが変わるわけじゃねえぞ」
店主は煙草に火を点け、紫煙を吐き出しながら、悲惨な過去を語り始めた。
「二年前だ。このバルカンに『流星拳のリン』の名が轟いていた頃だ。奴は義理堅い男でな、自分と同じように地方から集まった若い闘士たちをまとめて、『流星党』なんて義勇旅団を立ち上げてたのさ」
「義勇旅団……」俺は耳を傾けた。
「街の荒くれ者から弱者を守り、いずれは魔王軍の侵攻を食い止めるって息巻いてたよ。リンの拳は凄かった。その素早い踏み込みと連続突きは、まるで流星群みたいだってなぁ。闘技場でも負け知らずだった」
「そこへ……サルガタナスが現れたのですか?」ノエルが胸の前で手を強く握りしめる。
「ああ」店主の顔が苦々しく歪む。
「サルガタナス直属の刺客部隊が、このバルカンの地下へ侵入してきた。狙いはバルカンを裏から支配し、兵隊として人間を売り裁く拠点を造ることだ。それを察知したリンたち流星党は、仲間十数人を引き連れて、敵の拠点へ乗り込んだんだよ」
「……それで、返り討ちにあったってわけか」ブラッドが低い声で呟く。
「返り討ちなんて生易しいもんじゃねえ」
店主は灰を落とし、蔑むような、哀れむような目でリンを見た。
「サルガタナスの『邪爪』を前に、リンの仲間の拳も剣も、まるで紙切れみたいに切り裂かれた。一人、また一人と、リンの目の前で肉片に変えられていったんだ。リンは必死で戦った……流星の拳を叩き込もうとしたさ」
「だが……届かなかったんだな」シバリアの声が低く沈む。
「届くどころか……」店主は身震いした。
「刺客の頭領は、リンを殺さなかった。生かしたまま両腕を掴み、その自慢の拳の骨を……指の骨から手首まで、一本一本、時間をかけて、仲間たちの血の海の中で叩き潰したんだ。『二度と拳を握れぬように』ってな」
「なっ……! そんな惨いことを……っ!」 ノエルが涙を浮かべ、激しい憤りに震えた。
「誇りも、仲間の命も、自慢の拳も……全てを目の前で徹底的に打ち砕かれた。奴が助かったのは、たまたま生存者がいないか探しに来た街の奴らに拾われたからだ。だが……拾われた時にはもう、心は完全に死んでたよ」
店主の話が終わり、地下酒場に重苦しい静寂が訪れた。
(仲間の死……己の無力さ……そして打ち砕かれた身体……)
俺は拳を強く握りしめた。 自分の左足に刀を突き立てた時の痛みなんて、比にならないほどの地獄を、この男は味わってきたのだ。サルガタナスという名を聞いただけで狂乱するほどのトラウマ。それが、目の前でボロ布を被り震える男の正体だった。
「どうだ? 満足したか?」
卓から、リンの力のない声が聞こえた。
「俺は……全てを失ったんだ。仲間の悲鳴も、骨が砕ける音も、毎晩夢に出てくる……。そんな俺に……何ができるってんだ……! 俺に構わず、消えてくれ……っ!」
リンの両肩が激しく震えていた。 その背中は、あまりにも小さく、あまりにも儚かった。
「……リン」
俺は一歩踏み出し、リンの目線の前で再び膝をついた。
「悲惨な過去だ。お前が絶望し、酒に溺れる理由も痛いほど分かった。……だがな」
「なんだよ……説教でもする気か……!?」
「違う」
俺はまっすぐにリンの死んだ瞳を見つめ返した。
「俺も……奪われたんだ。目の前で、大切だったリコリスを連れ去られた。俺が弱かったから……無力だったからだ! その時の絶望と悔しさは、今でも胸を焼き尽くしそうになる!」
「ルシフェルさん……」ノエルが胸を押さえる。
「この左腕の影もそうだ!」 俺は左手で右腕の刀の柄を固く握り直した。
「化け物の力を宿され、いつ暴走して仲間を殺すか分からない恐怖と毎日戦っている! ……だがな、リン! 俺は立ち止まらない! 心を折られたまま死ぬくらいなら、俺は足が折れても、この身が化け物に喰い尽くされようとも……前へ進む!」
俺の熱い叫びが、地下酒場の暗闇を突き破るように響き渡った。
リンは目を見開き、息を呑んで俺の顔を見つめていた。 折られた誇り、失われた仲間、そして今なお前へ進もうとする黒髪の剣士の眼光。 二人の男の視線が、火花を散らすように激しく交錯していたのだった。




