第15話2編:交錯せぬ言葉
第15話2編:交錯せぬ言葉
地下酒場『泥憑き亭』の重苦しい空気の中で、俺の左腕の袖から覗く禍々しい紋様を、リンは見開いた瞳で凝視していた。
「……な、なんだ……その左腕は……? 人間……じゃないのか……?」
リンの掠れた声には、先ほどまでの錯乱とは異なる、冷や汗を伴った動揺が混ざっていた。 打ち砕かれた己の両手を見つめ、それから俺の左腕へと視線を往復させる。
「俺は人間だ」俺はまっすぐに答え、捲り上げた袖をゆっくりと戻した。 「だが、お前が恐怖している魔王軍……その幹部サルガタナスたちの残滓であり、魔王の半身の影をこの腕に宿している。俺自身、この影にいつ呑み込まれるか分からない恐怖と戦っているんだ」
「なら……なら、なおさらだ!」
リンが突然、激しい拒絶の意を込めて卓を叩いた。 砕けて変形した右拳を卓に叩きつけた衝撃で、鈍い痛みが走ったのか、彼の顔が激痛で歪む。それでもなお、リンは必死の形相で俺を睨み据えた。
「関わるなと言っている! 魔王の影だと……? そんな禍々しい代物を抱えて、奴らに勝てると思っているのか!? 甘い……甘すぎるぞ、小僧!」
「甘くなどない!」俺は声を強めた。「俺たちは、お前に救援を求めてここへ来たんじゃない。お前がその身をもって味わったサルガタナスの戦い方、奴らの『邪爪』を破るための手がかりを乞いに来たんだ!」
「断る!」
リンは即座に吐き捨てた。 「俺はもう戦いからは降りたんだ。この惨めな両手を見ろ! 武器どころか、酒瓶すら満足に握れん! 俺の心も、仲間も、誇りも……あの日、あの『邪爪』の一撃によって根こそぎ叩き潰されたんだよ!」
「おい、オッサン」
それまで静かに聞いていたブラッドが、一歩前に踏み出した。 肩に担いだ赤銅色の戦斧を床へドシンと叩きつける。重厚な金属音が地下酒場に響き渡り、周囲の泥酔客たちが一瞬ビクッと肩を震わせた。
「いい加減にしやがれよ。弱音吐いて酒に溺れてりゃ気が済むのか? お前がサルガタナスに怯えて逃げ回ってる間にも、あいつらは人間を、お前の仲間と同じような被害者を増やし続けてんだぞ」
「ブラッド……」ノエルが制しようと手を伸ばすが、ブラッドの勢いは止まらない。
「俺だってなぁ! あのサルガタナスの野郎に利用されて、捨てられて、居場所を失った悪魔なんだよ! だがな、ここにいるルシフェルは、自分の中に化け物を抱えながらも、大切な奴を取り戻すために前を向いてんだ! 怪我して、自分の足を刺してまで仲間を守ろうとした馬鹿なんだよ!」
ブラッドの赤銅色の瞳が、怒りと情熱で燃え上がっていた。 「お前が勝手に絶望して死んだ目をしてんのは勝手だがな、必死に戦おうとしてる奴の足を引っ張るような口叩いてんじゃねえよ!」
「ブラッドくん……」ノエルが胸を打たれたように小さく息を呑む。
「……フン、悪魔か」
リンは冷笑を浮かべ、ブラッドから視線を逸らした。 「悪魔の小僧に説教される筋合いはない。お前たちがどれほど高尚な目的を掲げようと、俺には関係のないことだ。サルガタナスの力は圧倒的だ。奴らの『邪爪』は、あらゆる防御を切り裂き、肉体だけでなく魂まで破壊する。挑めば、お前たちも俺と同じ……いや、命を落としてゴミのように捨てられるだけだ」
「それでも、俺たちは行くんだ」
静かに、だが決して引かない重厚な声で言ったのはシバリアだった。 背中の大剣を支える指に力を込め、死んだ瞳の拳士をまっすぐに見つめる。
「俺は騎士だ。弱き者を守り、邪悪を討つのが命題。そしてこのルシフェルは、己の命を賭して俺たちの背中を守ってくれた旅の仲間だ。お前が絶望の淵に沈んでいるからといって、俺たちが進む脚を止める理由にはならん」
「勝手にしろ……」 リンは再びボロ布のような外套を頭から被り、卓の上に伏せた。
「死にたければ勝手に死ね。俺に二度と話しかけるな。サルガタナスという名を聞くだけで、俺の砕かれた骨が脈打って激痛が走るんだ……消えてくれ」
「リンさん……」
ノエルが悲しそうに言葉を漏らした。 彼女の手から溢れ出ようとしていた微かな治癒の光も、拒絶の壁に遮られて行き場を失っていた。
「ダメですね、ルシフェルさん……。リンさんの心は、あまりにも深い暗闇に囚われています……」
「……ああ。だが、言葉が届かないのも無理はない」 俺は握りしめた右手を見つめた。 「言葉だけで人の絶望は拭えない。ましてや、全てを壊された男のトラウマは……」
俺たちのやり取りが平行線を辿る中、地下酒場の重苦しい停滞感は破られる気配を見せなかった。 サルガタナスの恐怖に完全に屈し、自らを廃人として閉じ込めた「流星拳」の鈴。彼から情報を引き出すのは、予想以上に険しい道のりであることが突きつけられていた。
「どうする、ルシフェル?」 シバリアが低い声で尋ねる。
「一度、店を出て態勢を立て直すか? それとも……」
「いや」 俺は首を振った。
「ここに留まる。この男の心が破られた理由、そしてサルガタナスへの手がかり……まだ諦めるわけにはいかない」
冷たい悪臭が満ちる酒場の中で、俺たちの「言葉」は交錯せぬまま、ただ虚しく空中に浮遊していたのだった。




