第15話1編:死んだ瞳の男
第15話1編:死んだ瞳の男
カビと安酒のツンと鼻を突く悪臭が漂う、地下酒場『泥憑き亭』。
「く……っ、大丈夫だ……! 影が……反抗しているだけだ……!」
俺は歯を食いしばり、右手で激しく脈打つ左腕を強く抑え込んだ。 先ほどまで俺を苛んでいた左腕の激痛と「黒い影」の疼きは、ノエルの注いでくれた『ラ・ヒール』の光と俺自身の必死の克己心によって、どうにか皮膚の下へと押し戻されつつあった。
「ふぅ……ハァ……っ。ノエル、すまない。助かった」
「よかった……! ルシフェルさん、無理をしないでくださいね。本当に冷や汗がすごいです……」
ノエルが胸の前で小さく胸を撫で下ろし、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「おいおい、大丈夫かよルシフェル」
赤銅色の戦斧を肩に担ぎ直したブラッドが、呆れたように、だが鋭い眼光を崩さずに俺を見下ろしていた。
「お前の中のそのバケモノ、この街に入ってから明らかに活発になってやがるぞ。……そこの店主のオッサンが言ってた『噂の男』に近づくだけでこれかよ」
「……ああ」俺は深く息を吐き出し、立ち上がった。「だが、だからこそ確かめる必要がある。この痛みの先に、俺たちが求める手がかりがあるはずだ」
「フン、相変わらず頑固な奴だな。シバリアのオッサン、先頭頼むぜ」
「誰がオッサンだ。……行くぞ、足元に気をつけろ」
シバリアが大剣の鞘を鳴らしながら先陣を切り、俺たちは酒場の最も暗い最奥のテーブルへと足を進めた。
そこは、店内のわずかなランプの光すら届かない影の吹き溜まりだった。 テーブルの上には、飲み散らかされた安い麦酒の空き瓶がいくつも転がり、その中央で一枚のボロ布のような汚れた外套を羽織った男が、突っ伏したままピクリとも動かずにいた。
「おい、あんた……」
シバリアが重々しい声で語りかけ、大柄な肩を軽く揺すった。
「あんたが、かつて武闘都市バルカンで『流星拳』とまで称された拳士……鈴だな?」
「…………」
返事はない。ただ、酒臭い荒い息遣いだけがボロ布の隙間から漏れ聞こえてくる。
「シバリアさん、もう少し優しく……。失礼します、リンさん。私たちは――」
ノエルが温かな声をかけ、そっと男の背中に手を伸ばそうとした、その時だった。
「……消えろ」
低い、かすれた声がボロ布の底から響いた。
「……気安く触るな、小娘。酒の邪魔だ」
ゆっくりと頭を持ち上げた男の姿を見て、俺たちは思わず息を呑んだ。
荒々しく伸び切った黒髪の間から覗いていたのは、生きている人間のものとは思えない「死んだ瞳」だった。光を失い、濁りきったその双眸には、希望も、誇りも、感情すらも一切宿っていない。
さらにおどろおどろしいのは、ボロ布の袖口から覗く男の両手だった。 指は奇妙な方向に曲がり、皮膚の上からでも骨が完膚なまでに叩き砕かれ、無残に再着した痕跡がくっきりと浮かび上がっていた。かつて無数の敵を打ち倒したであろうその拳は、今や武器を握るどころか、日常の道具を掴むことすら困難なほど無残に破壊されていたのだ。
「……ひどい……」 ノエルが口元を両手で覆い、悲痛な声を漏らす。
「へっ……これが噂の『バルカン最強の拳士』様かよ」
ブラッドが戦斧の柄を握る手に力を込め、吐き捨てるように言った。
「噂通り、完全に骨を折られて脱殻になっちまってやがる。おいオッサン、こんな奴から本当にサルガタナスの情報なんて引き出せるのか?」
「言葉に気をつけろ、ブラッド」 シバリアが制し、真剣な眼差しでリンを見据えた。
「リン殿。俺たちは旅の者だ。魔王軍の幹部サルガタナスを追い、奴を倒すための力を探している。お前がかつてサルガタナスの部隊と戦い、奴らの技や弱点を知っていると聞いてここへ来た」
「サルガタナス……?」
その名を聞いた瞬間、リンの濁った瞳がピクリと跳ね上がった。 次の瞬間、男の全身が激しい恐怖と戦慄によってガタガタと震え始めたのだ。
「やめろ……! その名を……その名を口にするなアァァッ!!」
リンは両手で頭を抱え込み、テーブルの空き瓶をなぎ払いながら狂乱するように叫んだ。瓶が床に落ちてガシャンと割れ、激しい音が店内に響き渡る。
「ヒッ……! 奴らは化け物だ! あの爪は……あの黒い爪は、俺の仲間を目の前で肉片に変え、俺の拳を粉々に砕いた……! 勝てるわけがない! 人間が立ち向かっていい相手じゃないんだ!!」
「リンさん! 落ち着いてください!」 ノエルが必死に声をかけるが、リンの耳には届かない。
「消えろ!二度と俺の前に現れるな! 死にたくなければ今すぐこの街から失せろぉぉぉっ!!」
酒場の隅で頭を抱えて丸まり、怯える男。かつて最強と謳われた闘士のあまりにも無残な敗北の傷痕が、そこにあった。
俺は黙って、その怯えるリンの姿を見つめていた。 左腕の裏側が、今も不気味に熱い。
(この男も……俺と同じなんだ)
奪われ、打ちのめされ、己の無力さに絶望した男。 俺は一歩踏み出し、リンの目線に合わせるようにゆっくりと膝をついた。
「……リン」
「近寄るなと言ったろ! 俺に構うな!」
「俺の左腕を見ろ」
俺は低く言い、左腕の袖をゆっくりと捲り上げた。 そこには、ノエルの魔法で抑え込まれているものの、皮膚の裏側でドクドクと黒い脈動を打つ、禍々しい「魔王の半身」の影が浮かび上がっていた。
「な……なんだ、その……腕は……!?」
リンの死んだ瞳に、一瞬だけ驚愕の色が走る。
「俺も……全てを奪われた」 俺はリンの目をまっすぐに見つめ返した。
「大切な人を奪われ、この腕に化け物の影を宿された。今でも感情が高ぶれば、この影に意識を喰われそうになる。……俺も、恐怖で逃げ出しそうになったよ」
「ルシフェルさん……」ノエルが胸を痛めるように呟く。
「だがな、リン。俺にはこの背中を支えてくれる仲間がいる。俺たちは逃げない。サルガタナスを討ち、奪われたものを取り戻す。……そのためにお前の力が必要なんだ」
俺の言葉が、狭い酒場の隅に静かに響き渡った。 心を壊され、絶望の底に沈んでいた「流星拳」の男と、魔王の影を宿し自傷してまで前へ進もうとする黒髪の剣士。
二人の「半身」を抱えた男たちの視線が、地下酒場の薄暗闇の中で、静かに交錯したのだった。




