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第13話5編:深淵の雨音

第13話5編:深淵の雨音


雨が、冷たく肩を叩いていた。


山道の泥を踏みしめるたび、自ら突いた左足の傷から鋭い痛みが走り、全身の神経を突き刺す。だが、その痛みがなければ、俺の意識は今度こそあの黒い影――魔王の半身に完全に喰らい尽くされていただろう。


「ハァ……ハァ……くっ……!」


刀を杖代わりにして体重を預け、俺は深い霧の中を一人歩き続けた。 背後からは、もうノエルの泣き叫ぶ声も、シバリアが俺の名を呼ぶ重厚な声も聞こえない。ただ、雨が葉を叩く音と、俺の覚すい荒い息遣いだけが静寂を支配していた。


(これで……これでよかったんだ)


胸の奥を抉られるような寂しさと罪悪感が押し寄せる。 俺たちは火山街グランで溶岩獣を退け、宴を催し、ブラッドという新たな仲間を迎えたばかりだった。これから4人で、もっと前へ進めるはずだったのだ。 だが、あの平穏はすべて、俺の存在そのものによって打ち砕かれた。


左腕に目を落とす。 皮膚の裏側で蠢く黒い紋様は、雨に打たれてもなお不気味な熱を失っていなかった。黒いオーラこそ少し収まったものの、左目の視界は依然として半分濁り、冷酷な何者かの視線が内側から己を観察しているような不快感が消えない。


『愚かな男だ』


脳裏に、直接響く声があった。 低く、禍々しく、俺の心を挫くために囁きかけてくる魔王の半身の声だ。


『あの者どもを切り捨てて一人になり、何ができる? お前の望む女――リコリスとやらは、遥か高みの地に捕らわれているというのに。我の力を受け入れねば、辿り着くことすら叶わぬぞ』


「黙れ……」


俺は歯を食いしばり、声に出して拒絶した。


「俺は……俺の力でリコリスを取り戻す。お前の力になど……絶対に頼らない……!」


『ククク……力に頼らぬと言いながら、先ほどは我の影を混ぜた風で敵を打ち払ったではないか。お前の純粋な風魔法など、あの場面では何の役にも立たなかった。お前はすでに、我の力なしでは生きていけぬ身体なのだよ』


「く……っ!」


反論できなかった。 残党部隊の指揮官を吹き飛ばしたあの時、俺は確かに左腕から溢れ出た黒い影を抑え込めず、風魔法『ラ・ラルド』に混ぜ込んでしまった。その結果生まれた異形の黒い風がなければ、ブラッドも俺も無事では済まなかったかもしれない。 守るために力を使えば使うほど、俺は魔王の影に蝕まれていく。この悪循環から抜け出す術を、俺は持っていなかった。


膝の力が抜け、俺は泥水の中に両膝をついた。 雨水が顔を伝い、頬にこびりついた敵の返り血と、己の流した冷や汗を洗い流していく。


(リコリス……俺は、どうすればいい……?)


目を閉じると、いつも彼女の笑顔が思い浮かぶ。 風に揺れる髪、優しく俺の名を呼ぶ声。彼女を取り戻すためなら、命だって捨てられるはずだった。だが、命を捨てることよりも恐ろしいのは、俺自身が人としての心を失い、リコリスのことも、仲間たちのことも分からなくなる化け物に変貌してしまうことだった。


◇


一方、その頃――。


ルシフェルが去った山道の奇襲地点では、冷たい雨が荒れ果てた戦場を濡らしていた。


崩落した巨岩の脇で、ノエルは泥に塗れながら膝をつき、両手で顔を覆って肩を震わせていた。


「ルシフェルさん……どうして……どうして一人で行っちゃうんですか……っ!」


「ノエル、泣くな。服が汚れるぞ」


シバリアが静かに語りかけ、大剣を背中の鞘へと納めた。彼の武骨な顔には厳しさと、それ以上に深い無念の色が滲んでいた。


「でも、シバリアさん! ルシフェルさんは怪我をしてるんです! 自分の足を刺してまで……私たちを守ろうとして……! あのまま一人にしたら、ルシフェルさんは本当に……!」


「分かっている」


シバリアは短く答え、横に立つブラッドへと視線を向けた。


ブラッドは、濡れた真紅の髪を前額に垂らしたまま、泥の上に転がった赤銅色の戦斧を見つめて固まっていた。 彼の指先は微かに震えている。


「……おい、ブラッド」


シバリアが声をかけると、ブラッドはビクッと肩を跳ね上げ、咎められたような顔でシバリアを見上げた。


「な、なんだよ……! 俺のせいだって言いたいのか!? あいつが急におかしくなったんだぞ! 俺は……俺はただ……!」


「責めてなどいない」


シバリアは静かにかぶりを振った。


「お前が恐怖を感じたのは当然だ。あの異様な魔気、そして自らを傷つけてまで暴走を止めるルシフェルの姿……。だが、ブラッド。お前は見たはずだ。あいつが命がけでお前を庇った瞬間を」


「っ……!」


ブラッドは言葉に詰まり、唇を噛み切らんばかりに強く結んだ。 脳裏に焼き付いて離れない光景があった。 魔獣の爪が自分に迫った時、迷わず間に割り込んでくれたルシフェルの背中。そして、暴走しかけた左腕を向けられ、「俺を殺す気か」と問うた自分に対し、己の足に刀を突き立ててまで魔力を逸らした、あの血吐くようなルシフェルの顔。


『仲間だからだ……!』


あの叫びが、雨音を突き抜けてブラッドの胸の奥で何度も反響していた。


自分を裏切り、道具として切り捨てた魔王軍の幹部たち。 それに対し、魔王の禍々しい影を宿しながらも、自分たちを守るために自らを痛めつけた男。どちらが信じるに値する存在かなど、答えは最初から出ていたのだ。


「俺は……」


ブラッドの声が掠れた。赤銅色の瞳から、一筋の雫が頬を伝って落ちる。それが雨水なのか、悔し涙なのか、彼自身にも分からなかった。


「俺は……あいつのこと、疑って……化け物みたいに言って……っ! なのにあいつは、俺を守って……一人で消えやがった……!」


「ブラッドくん……」 ノエルが涙を拭い、ブラッドを見つめる。


ブラッドは地面に落ちていた戦斧を力任せに拾い上げると、ギチギチと柄を握りしめた。


「ふざけんなよ……! 勝手に一人でカッコつけてんじゃねえよ、ルシフェル……! 協定破棄だ? 俺を仲間だと言っておきながら、勝手に一人で行くなんて許さねえぞ……!」


ブラッドの身体から、怒りと決意を込めた高熱の気が立ち上り、周囲の雨粒を蒸発させた。


「シバリア! ノエル! あいつを追うぞ!」


ブラッドが叫んだ。その瞳には、先ほどまでの怯えや迷いは一切なかった。ツンとした生意気な少年悪魔の顔に、真の「仲間」としての苛烈な意思が宿っていた。


「ああ、もちろんだ」 シバリアの唇に、うっすらと頼もしい笑みが浮かぶ。「あいつがどれほど深い闇を抱えていようと、俺たちは一度背中を預け合った旅の仲間だ。一人で背負わせはせん」


「はい……! 私も、ルシフェルさんを絶対に一人にはさせません!」 ノエルも杖を握り直し、強く頷いた。


冷たい雨の中、3人はルシフェルが去った深い霧の山道へと歩みを進め始めた。 分断された絆は、まだ途切れてはいなかった。


◇


「ハァ……ハァ……」


雨脚がさらに強まる中、俺は谷間の洞窟へと辿り着き、崩れるように壁際に身を寄せた。


足の傷からの出血は収まりつつあったが、体力の消耗と黒い影とのせめぎ合いで、意識は保ちそうになかった。視界が暗転していく。


(リコリス……みんな……すまない……)


冷たい岩肌に頭を預け、俺は深い闇の中へと意識を失っていった。 自分を追いかけてくる3人の強い意志と足音に、まだ気づく由もなく――。

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