第13話2編:崩れゆく信義
第13話2編:崩れゆく信義
頭痛が、割れるように酷い。 左腕から巻き上がった黒い疾風が巨漢の魔族を叩き落とした瞬間、俺の視界は明暗を失い、白と黒の斑点に埋め尽くされていた。
「ガハッ……! な、なんだこの不気味な気風は……!?」
岩場に叩きつけられた敵指揮官が、苦悶の声を上げながら吐血する。 『ラ・ラルド』に魔王の影が混ざり込んだ黒い風は、ただ敵を吹き飛ばすだけでなく、侵食するような冷気で相手の魔力を直接削ぎ落としていた。
(まずい……意識が……持って行かれる……!)
俺は歯を強く食い散らし、血が滲むほど唇を噛んだ。 手に握る刀の柄を通して、黒い衝動が己の体を我が物顔で支配しようと駆け巡る。瞳の奥が熱い。黒く染まりかけた視界の隅で、駆け寄ろうとしたノエルの悲痛な顔が見えた。
「ルシフェルさん……っ!? その体……一体どうして……!」
「来……るな、ノエル……!」
制止の声はかすれ、掠れた吐息にしかならなかった。 ノエルが息を呑み、伸ばしかけた手を止める。その隣で、シバリアが大剣を構え直しながら、緊迫した面持ちで周囲の敵を警戒していた。
「ノエル、下がるんだ! ルシフェルの状態は普通じゃない!」
シバリアの声には、俺を守ろうとする意思と同時に、得体の知れない存在に対する強い警戒が混ざり込んでいた。当然だ。仲間だと思っていた男が、突然魔族すら恐怖するような禍々しい黒い影を撒き散らしたのだから。
そして――ブラッド。
俺のすぐ側に転がっていた少年悪魔は、腰を抜かしたように地面に手を突き、目を見開いて俺を注視していた。 その真紅の髪が風に揺れ、赤銅色の瞳に映っているのは、明確な恐怖と絶望だった。
「お前……まさか……サルガタナス様の言っていた……『魔王の半身』……」
ブラッドの唇が戦慄き、小さな呟きが漏れ出た。 彼がかつて所属していた魔王軍。その幹部たちが探し求め、あるいは恐れていた禁忌の存在。ブラッドはその正体に感づき始めていた。
「おい、答えろよルシフェル……! お前、人間じゃねえのかよ!? 俺たちを騙して、魔王の力を隠し持ってやがったのか!?」
「違う……俺は……!」
弁明しようと言葉を紡ごうとしたが、喉が引き攣って声にならない。 俺が戸惑い、脚を止めたその隙を、泥臭い戦場は見逃してはくれなかった。
「動揺しているぞ! 今のうちにあの化け物どもを殺せ!」
態勢を立て直した黒鎧の歩兵たちが、十数本もの長槍を構え、一斉に突撃してきた。崖の上からは、再び矢の雨が降り注ぐ。
「くっ……『ラ・ヒール』!」
ノエルが咄嗟に障壁となる回復魔法を貼るが、矢の衝撃で光の壁に亀裂が入る。シバリアが大剣を振り回し、迫る歩兵の突撃を受け止めるが、数に押されて後退を余儀なくされていた。
「ブラッド! ルシフェルのことは後だ、今は生き残るぞ!」
シバリアが叫ぶ。だが、ブラッドは動けない。 俺に対する強い不信感と、目の前の死線の間で、彼の思考は完全にフリーズしていた。
(俺のせいだ……俺が余計な力を露見させたから、チームの連携が崩れた……!)
胸を刺す罪悪感が、左腕の黒い影をさらに肥大化させる。 『奪われたリコリスを取り戻す』――その目的のためなら、俺はどんな悪魔にでも身を落とす覚悟があったはずだ。だが、目の前で脅威に晒されている仲間の顔を見たとき、俺の心は激しく揺れ動いた。
「死ねえええっ!」
ブラッドの無防備な側頭部を目掛け、一匹のアーマード・ハウンドが鋭い爪を振り下ろす。
「ブラッドっ!」
俺の身体が、思考よりも先に動いていた。 左腕の痛みを無理やり意識の奥底へ押し込め、絶対の踏み込みを発動する。
音もなく地面を滑り、ブラッドと魔獣の間に割り込む。 右手の刀を一閃。風の刃が魔獣の喉元を正確に切り裂き、黒い返り血が俺の頬を濡らした。
「ガアッ……!?」
絶命した魔獣が倒れ込む。俺は刃を返し、迫り来る二体の歩兵の喉を、一連の流れのまま突いた。沖田総司の三段突きにも似た、不可避の連続突き。 一瞬のうちに三体の敵を無力化し、俺はブラッドの前に立ちふさがった。
「ハァ……ハァ……っ、立て、ブラッド……!」
刀を握る右手が震えている。左腕はもう、麻痺したように感覚がなかった。 ブラッドは首を振るようにして、見上げる俺の背中を呆然と見つめていた。
「なんで……助け……」
「仲間だからだ……!」
俺は背中越しに叫んだ。 「お前が俺を疑おうと、敵だと決めつけようと……今は俺たちが生き残るのが先決だ! 俺を殺したければ、この急襲を生き延びてからにしろ!」
俺の叫びが、山道に響き渡る。 ブラッドは目を見開き、噛み締めた唇から血を滲ませた。彼の葛藤が、手に取るように伝わってきた。自分を捨てた魔王軍、それに連なるような禍々しい力を持つ俺。だが、その俺が身を挺して自分を守っているという現実。
「……チッくしょうが!!」
ブラッドが咆哮した。 地を蹴って立ち上がり、赤銅色の戦斧を強く握り直す。その瞳に、迷いを振り払うような苛烈な炎が宿った。
「勝手なこと言ってんじゃねえよ、ルシフェル! 俺はお前を信用したわけじゃねえ! ただ……あのクソ魔族どもに殺されるのが気に入らねえだけだ!」
「……ふっ、それで十分だ!」
ブラッドが俺の隣に並び立つ。 彼の身体から、高熱の炎魔法の残り香が立ち上った。
「シバリア! ノエル! 前線を押し戻すぞ!」
俺の指示に、離れた位置にいた二人が力強く頷いた。
「了解だ! これ以上、好き勝手はさせん!」 シバリアの大剣が黄金の闘気を纏い、群がる敵を一掃する。
「ルシフェルさん、ブラッドくん、お二人を包む風と炎を癒やします……! 『ラ・ヒール』!」 後方からのノエルの聖なる光が、俺たちの背中を包み込み、蓄積した疲労をわずかに和らげた。
「おい、ルシフェル! あのデカブツを仕留めるぞ!」 ブラッドが戦斧を掲げ、指揮官の巨漢魔族を指さした。巨漢は膝をついていた状態から立ち上がり、怒りに満ちた異形の前肢を振り上げている。
「ああ……一気に決める!」
俺とブラッドは視線を交わした。 昨夜までの不信感と、いま芽生えた複雑な緊張感。だが、戦場において俺たちの呼吸は、皮肉なほど完璧に合っていた。
俺は刀を深く構え、足元に風を集める。 ブラッドは戦斧の刃に、限界以上の高熱の炎を宿らせる。
「行くぞ……ブラッド!」
「合体技で焼き潰してやる……っ!」
二人の気が、高まる。 だが、俺の左腕の「黒い影」は、まだ静まってなどいなかった。合体技の威力を高めれば高めるほど、魔王の半身が俺の魔力を侵食し、技そのものを狂わせていく感覚があった。
(耐えろ……俺の意識……散るな……!)
俺たちは同時に地面を蹴り、巨漢の魔族へと突撃を開始した。




