第13話1編
第13話1編
宴の喧騒と、赤々と燃える篝火の熱気が背後へと遠ざかっていく。
火山街グランの夜風は冷たく、俺の火照った皮膚を容赦なく叩いた。 見下ろす街は、溶岩獣の脅威から脱した安堵に包まれ、人々が酒を酌み交わす歓声がここまで届いている。だが、俺の胸中に広がっていたのは、勝利の余韻などではなく、底なしの冷たさと焦燥感だった。
左腕が、脈打っている。
「く……っ、はぁ……っ!」
服の上から左の抑え込み、俺は岩肌に膝をついた。 激痛ではない。骨の髄から沸き上がるような、おどろおどろしい「何か」が、皮膚の裏側で蠢いている感覚。漆黒の影が熱を持ち、俺の血管を逆流して脳髄を塗り潰そうとしてくる。 視界の端が、泥のような黒に染まっていく。
(静まれ……頼むから、今だけは静まってくれ……!)
脳裏に浮かぶのは、奪われたリコリスの面影だった。 彼女を連れ去った奴らの冷酷な笑みと、無力だったあの日の自分。怒りが引き金となり、左腕の影――魔王の半身が生み出す魔性が、牙を剥いて俺の意識を飲もうとする。
「おい、ルシフェル……! お前、何やって……」
背後からの声に、俺は息を呑んだ。 振り向くと、そこには赤銅色の戦斧を手に固まっているブラッドがいた。真紅の髪が夜風に揺れ、その瞳は驚愕と戦慄に大きく見開かれている。
「ブラッド……寄るな……!」
俺の声は自分でも驚くほど低く、掠れていた。 見られた。俺の左腕から溢れ出る禍々しい黒いオーラを。そして、光を失い、魔物のそれと同じように漆黒に染まりつつある俺の瞳を。
ブラッドは息を詰まらせ、じりっと後退りした。 「な、なんだよその禍々しい力は……! お前、一体何者なんだ……!?」
仲間として背中を預け合ったばかりの少年悪魔の問いに、俺は答えることができなかった。溢れ出る影を必死に抑え込み、歯を喰い縛って意識を保つのが限界だった。
◇
――翌朝。
グランの街を後にした俺たちは、次なる目的地を目指して険しい山道を進んでいた。 雲は低く垂れ込め、湿んだ風が谷間を吹き抜けていく。空気は重く、それ以上に俺たちの間の空気が重苦しかった。
「……ルシフェルさん、お顔色がよくありませんよ。少し休憩にしましょうか?」
隣を歩くノエルが、心配そうに顔を覗き込んできた。彼女の優しい緑色の瞳には、偽りのない慈愛が宿っている。 ハーフエルフである彼女は、俺の微細な体調の変化にも敏感だ。
「いや、大丈夫だノエル。先を急ごう」
「ですが……」
「俺は平気だ」
少し突き放すような言い方になってしまい、俺は小さく息を吐いた。 俺の歩調の少し後ろ、シバリアが黙ってついてきている。大剣を背負ったその重厚な佇まいはいつも通り頼もしいが、彼の視線が時折、俺の左腕に向けられているのを肌で感じていた。
そして――ブラッドだ。
昨日まで軽口を叩き合い、生意気な態度をとっていた彼が、今日はあからさまに俺と距離を置いている。列の一番後ろを歩き、一度も俺と目を合わせようとしない。 昨夜の光景が、彼の中に強い警戒と不信感を植え付けたのは間違いなかった。
(無理もない……)
あの黒い衝動は、悪魔であるブラッドから見ても異常な代物だったはずだ。仲間だと言いながら、俺は重大な秘密を隠している。リコリスを取り戻すという目的のために、この力を抑え込んでいるが……いつか完全に呑み込まれたら、俺は彼らを切り裂いてしまうのではないかという恐怖が胸を締め付けた。
「おい、ルシフェル」
沈黙を破ったのは、最後尾のブラッドだった。立ち止まった彼の声は硬く、冷ややかだった。
「なんだ、ブラッド」
俺が振り返ると、ブラッドは赤銅色の戦斧の柄を握り締め、睨みつけるように俺を見つめていた。
「隠し事は無しだぜ。昨日のあれはなんだ? お前の左腕……ただの人間や風魔法使いの力じゃねえ。あれは魔王軍の幹部クラス、いや……それ以上の禍々しい魔気だ。お前、俺たちを騙してんのか?」
「ブラッドくん、急に何を言い出すのですか!?」 ノエルが驚いて庇うように俺の前に出た。「ルシフェルさんが私たちを騙すはずなんて――」
「ノエル、黙ってろ!」 ブラッドが苛立ちを隠さずに叫ぶ。「俺は悪魔だ! だからこそ分かるんだよ、あいつの身体から漂う『本物』の魔性の臭いがな! 昨日の夜、あいつの目は真っ黒に染まってたんだぞ!」
「ブラッド」 それまで静観していたシバリアが、重厚な声を響かせて間に入った。「言い方に気をつけろ。ルシフェルはこれまで幾度も俺たちの危機を救ってきた。それが真実だ」
「シバリア、あんたまで目を逸らす気かよ! もしあいつが途中で暴走したらどうするんだ!? 俺たちは背中から斬られるかもしれないんだぞ!」
「それは……」
シバリアが言葉を詰まらせる。彼の誠実な顔に、わずかな葛藤が浮かんだ。 シバリアもノエルも、俺の異変には薄々気づいていたはずだ。ただ、触れてはいけない触れ合いとして、俺を信じて伏せてくれていたに過ぎない。
「……ブラッドの言う通りだ」
俺は低く言った。ノエルとシバリアが息を呑む。
「俺の左腕には……呪いのようなものが宿っている。これ以上の詳細は話せないが、お前たちが俺を警戒するのは当然だ。信用できないと言うなら、俺は一人で――」
「そこまでだ、青くさいガキども」
頭上から響いた粘りつくようなダミ声が、俺の言葉を遮った。
「「「!?」」」
頭上の断崖絶壁から、殺気を孕んだ気配が一気に跳ね上がる。 俺たちは咄嗟に身構え、陣形を組んだ。
岩陰から現れたのは、黒い鎧を纏った異形の集団――魔王軍の残党部隊だった。その数、およそ二十。さらに、その中央に立つ一際巨大な魔族が、醜悪な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「こんな山道で出くわすとは運がいい。サルガタナス様を裏切った反逆者ブラッドに、勇者気取りの人間共……まとめて血祭りにあげてくれるわ!」
「魔王軍の残党か……! グランの宴で浮かれている隙を突くつもりだったようだが、街道の伏兵とは手回しが良いな」 シバリアが大剣を抜く。金属音が山間に響き渡った。
「チッ、面倒な奴らに見つかったぜ!」 ブラッドが戦斧を構えるが、その視線はどこか俺を警戒したままだ。
「皆さん、来ます!」 ノエルが杖を握り締め、後方で詠唱の準備に入る。
敵の指揮官と思われる巨漢の魔族が、腕を振り下ろした。 「殺せ! 首を持ち帰れば、サルガタナス様から多大な恩賞が賜れるぞ!」
「オオオオオッ!」
叫び声と共に、十数匹の小型魔獣と黒鎧の歩兵が、傾斜を駆け下りて襲いかかってきた。
「シバリア、前線を張れ! ノエルは後方支援!」 俺は瞬時に指示を飛ばし、腰の刀の柄に手をかけた。
「言われなくてもな!」 シバリアが踏み込み、大剣を一閃。駆け下りてきた魔獣の第一陣をまとめて吹き飛ばす。重厚な打撃音が響き、敵の突撃が止まる。
「『ラ・ルビ』!」 ブラッドの手のひらから放たれた炎の弾丸が、歩兵の顔面で炸裂した。高熱の炎が敵を焼き尽くす。だが、彼の動きには昨日のような切れがない。時折、俺の背中に向ける視線に迷いが混じっている。
(集中しろ、ブラッド……!)
俺は呼吸を整えた。 沖田総司の絶対の踏み込み――間合いを一気に詰め、音もなく刃を走らせる。
『ラ・ラルド』
最下位の風魔法を足元に纏わせ、摩擦をゼロにする。 滑るように岩場を疾走し、敵歩兵の懐へと滑り込んだ。
「なっ、速――」
言葉を吐き捨てる前に、俺の刀は敵の首元を深々と切り裂いていた。血飛沫が舞う中、振り向きざまに二体目の胸元を突く。 一閃、二閃。圧倒的な速度による連撃。
だが――敵の数が多すぎる。 伏兵は崖の上からも弓を番え、黒い矢の雨を降らせてきた。
「くっ、ノエル!」 「『ラ・ヒール』! シバリアさん、右です!」
ノエルが必死に回復魔法を飛ばし、シバリアが盾となって矢を防ぐ。だが、連携が乱れていた。ブラッドが俺との協力を躊躇い、単独で突っ込みすぎている。
「おいブラッド! 戻れ、孤立するぞ!」 「うるせえ! 俺に指示するな! お前みたいな怪しい奴の助けなんて借りるかよ!」
ブラッドは戦斧を振り回し、群がる魔獣をなぎ払うが、背後に迫る歩兵の長槍に気づいていない。
「危険だ!」
俺は踏み込んだ。風の速度を超え、ブラッドの背後へと滑り込む。 長槍がブラッドの背中を貫く直前、俺の刀がその槍身を跳ね上げた。
「な……!?」 驚愕するブラッドの目の前で、俺は槍を持っていた歩兵の胴体を一刀両断する。
「余計なことを考えるな! 死にたいのか!」 「な、なにを……!」
ブラッドが言いかけたその時、頭上から凄まじい風切り音が響いた。 敵の指揮官である巨漢の魔族が、巨大な鉄球を手に、崖の上から跳躍してきたのだ。ターゲットは、態勢を崩しているブラッドと俺。
「死ねええ、反逆者共が!」
視界を覆うほどの巨大な影と、押し潰すような圧力。 シバリアは離れた位置で別の群れと交戦中、ノエルの魔法も間に合わない。
(庇いきれない……!)
直感した。このままではブラッドが押し潰される。 助けるためには、もっと強く、もっと速い力が必要だ。
――『力を欲するか?』――
脳裏に、あの忌々しい声が響いた。 左腕が熱い。疼く。黒い影が脈打ち、俺の意志を無視して溢れ出そうとする。
(ダメだ、使うな……! ここで解放したら、本当に戻れなくなる……!)
だが、目の前にはブラッドがいる。俺を疑い、拒絶しながらも、共に戦ってきた仲間が。
「ルシフェル……!?」 ブラッドが息を呑むのが分かった。俺の左腕から漆黒の霧が噴き出し、刀身へと巻き付いていくのを間近で見ているからだ。
「く……あああああっ!」
俺は悲鳴のような叫びを上げながら、抑え込みきれない黒い衝動を、無理やり風魔法の詠唱へと変換した。
『ラ・ラルド』――!!
黒い暴風が吹き荒れる。 純粋な風魔法であるはずの『ラ・ラルド』が、魔王の半身の影を混ぜ合わせることで、禍々しい漆黒の竜巻へと変貌した。
「ぬあああっ!?」
降下してきた巨漢の魔族が、漆黒の風に巻き込まれ、体制を崩して叩きつけられる。 鉄球は逸れ、地面を大きく砕いた。
「ハァ……ハァ……っ!」
俺は刀を地面突き立て、激しい呼吸を繰り返した。 視界が赤く染まり、黒い斑点がチラつく。左腕の影が皮膚を食い破らんばかりに蠢き、全身の細胞を蝕んでいくような感覚。
「ルシフェル……お前……」
ブラッドが息を呑み、足をもつれさせながら後退った。 その目には、敵に対するもの以上の「恐怖」が宿っていた。
「……引き忘れるな、ブラッド……」 俺は掠れた声で呟いた。瞳の奥で、黒い感情が渦巻いているのを自分でも制御しきれなくなっていた。
「俺から……目を離すな……」
残党部隊の伏兵との戦いは、まだ始まったばかりだった。だが、4人の絆を切り裂く亀裂は、すでに修復不可能なほど深く刻まれようとしていた。




