第0話:別れ(第4編)
どれほどの時間が流れたのだろうか。
静まり返った部屋の中に、パチパチという木々の爆ぜる音だけが空虚に響いていた。
窓から差し込む光は、すでに昼の柔らかな陽光ではない。村全体を包み込む業火の惨劇が映し出す、どす黒く狂気に満ちた「朱」の色だった。
「……ぁ……ぐ……っ」
かすかな掠れ声とともに、血の海の中に伏していたルシフェルの指先が、ぴくりと痙攣した。
頭部を襲う激痛は、もはや「痛み」という言葉では形容しきれないものだった。頭蓋の奥を熱い鉄杭で打ち抜かれ、脳みそを直接かき回されているかのような猛烈な激痛。視界は掠れ、片目は固まりかけた己の血で開けることすらできない。
「ガハッ……! ゲホッ、ゲホッ……っ!」
喉の奥に溜まっていた血と胃液をぶちまけながら、ルシフェルは死に物狂いで腕に力を込めた。
床にこびりついた自分の血で手を滑らせながらも、爪を立て、這いずるようにして上半身を起こす。激しい目眩が襲い、世界がぐにゃりと歪んだ。
「ハァ……ハァ……ハァ……っ! リコ……リス……っ!」
頭を強く打ち付けた衝撃で意識は混濁していたが、胸の奥で燃える焦燥感だけは消えていなかった。
かすむ視界を必死に凝らし、ルシフェルは狂ったように室内を見回した。
「リコリス……! どこだ……っ!? どこにいるんだ、リコリス……!!」
返事はない。
あるはずがなかった。
そこに広がるのは、先ほどまで彼女が倒れていた場所に残された、不気味な魔法陣の焼け焦げた痕跡だけ。
テーブルも、食器も、彼女の温もりも、すべてが打ち砕かれ、奪い去られていた。
「嘘だろ……? おい……返事をしてくれよ、リコリス……っ!」
ルシフェルは血の滲む膝を引きずりながら、魔法陣の痕跡へと這い寄った。
何も残っていない冷たい床を、血まみれの手でがむしゃらに撫でまわす。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!! リコリスッ!!」
虚空に向かって叫ぶ彼の声は、虚しく部屋の壁に跳ね返るだけだった。
少女の気配は、完全に消えていた。
「おい……だ、誰か……息はあるか……っ!?」
破られた玄関の穴から、煙に巻かれながら一人の男が転がり込んできた。
近所に住む自警団の生き残り、壮年の剣士・バランだった。全身に焦げ跡を作り、血と煤で顔を汚したバランは、部屋の奥で血みどろになって突っ伏しているルシフェルを見つけると、目を見開いて駆け寄ってきた。
「ルシフェル!? ルシフェルじゃないか!! しっかりしろ、生きているか!?」
「バラン……さん……っ」
「なんてことだ、頭からこんなに血を……! 待ってろ、今すぐ村の外へ運び出してやる! ここもじきに火が回る!」
バランがルシフェルの脇へ手を差し入れ、抱え上げようとした。
だが、ルシフェルはその手を振り払った。弱々しく、しかし恐ろしいほどの力で。
「……リコリスは……?」
「え……?」
「リコリスはどこに行ったんだよッ!!」
血走った瞳で叫ぶルシフェルに、バランは息を呑み、痛痛しそうに顔を歪めた。
「……見なかった。俺が駆けつけた時には、村は魔族どもに包囲されていて……たくさんの奴らが連れ去られた。リコリスちゃんも……きっとあいつらに……」
「そんな……っ」
「ルシフェル、立ち上がるんだ! 村はもう終わりだ! 生き残った奴らで一旦森へ逃げるぞ! ここにいたら煙に巻かれて死ぬ!」
バランはルシフェルの肩を強く掴み、必死に説得しようとした。
しかし、ルシフェルの耳には、バランの叫びなど届いていなかった。
(俺が……俺が弱かったから……)
脳裏に蘇るのは、深紅の髪の男——サルガタナスの冷酷な金色の瞳。
手首をへし折られた激痛。
みぞおちを穿たれ、手も足も出ずに崩れ落ちた惨めな自分。
そして……目の前で前髪を掴まれ、蹴り飛ばされ、血を吐いて連れ去られたリコリスの泣き顔。
『ルシィ、逃げてよッ!』
彼女は最後まで、自分を庇おうとしていた。
無力で、恐怖に足すくませていた自分なんかのために。
「クソッ……! クソッ!! クソがあぁぁぁぁぁぁっ!!」
ルシフェルは血まみれの拳を、力任せに床板へ叩きつけた。
木片が弾け飛び、拳の皮膚が裂けて新たな血が噴き出す。だが、身体の痛みなど、胸を切り刻む激痛と屈辱に比べれば蚊が刺したほどのものでもなかった。
「ルシフェル、やめるんだ! 手がボロボロになる!」
「バランさん……俺は……俺はあいつを許さない……っ!」
ルシフェルはバランの制止を振り切り、床に擦り付けた顔を上げた。
その瞳から涙は消えていた。代わりに宿っていたのは、血よりも濃いドス黒い「執念」だった。
「あの紅い髪の男……サルガタナスと言った……! あいつが……あいつらがリコリスを奪ったんだ!!」
「サルガタナス……!? 馬鹿な、それは魔王軍の幹部……大魔族の名だぞ!? そんなバケモノに立ち向かうなんて自殺行為だ!」
「関係ないッ!!」
ルシフェルは膝を震わせながら、壁に手をついて立ち上がった。
視界がグラつき、何度も倒れそうになりながらも、彼は足元に転がっていた一本の『剣』を見つめた。
それは、今朝——不吉な胸騒ぎに背中を押され、家から持ち出していた古びた鉄の剣だった。
惨劇の中で一度も振るわれることなく、虚しく床に転がっていた愚かな自分の象徴。
ルシフェルは膝を折り、血で濡れた手でその柄を力強く握りしめた。
金属の冷たさが、麻痺しかけていた全身の神経を冷ややかに呼び覚ましていく。
「追う……。俺はあいつらを追う……っ!」
「正気かルシフェル!? 相手は一国の軍隊すら滅ぼす魔族なんだぞ! 訓練も積んでいないお前が一人で行って、何ができるっていうんだ!」
バランがルシフェルの胸ぐらを掴み、必死の面持ちで引き留める。
「犬死にするだけだ! リコリスちゃんだって、お前が死ぬことなんて望んでいない!」
「じゃあ俺にどうしろっていうんだよ!!」
ルシフェルはバランの手を激しく振り払い、獣のような声を上げた。
「リコリスが……あんな惨い目にあって連れ去られたのに! 俺だけが安全な場所に逃げて、泣き寝入りしろっていうのか!? そんなことできるわけがないだろッ!!」
「ルシフェル……」
「俺の命なんて……リコリスを救えないなら、ハジから存在しないのと同じなんだよ……っ!」
血と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ルシフェルは絶叫した。
その声には、バランの言葉を挟む余地すら与えない圧倒的な決意が籠もっていた。
バランは固く口を結び、掲げた手をゆっくりと下ろした。
もはや、この青年の覚悟を砕く言葉など、世界中のどこにも存在しないことを悟ったからだ。
「……分かった」
バランは深々と溜息をつくと、腰のポーチから小さな革袋と古びた地図を取り出し、ルシフェルの手に押し付けた。
「これは少ないが金と、この地域の詳細な地図だ。……魔族どもは東の『黒竜の山脈』の先、魔界へと続く大穴を目指しているはずだ」
「バランさん……」
「勘違いするな。俺はお前を応援しているわけじゃない。……だが、ただ死にに行かせるわけにもいかん。生きろ、ルシフェル。リコリスちゃんを連れて、絶対に生きて戻ってこい」
「……ありがとう」
ルシフェルは短く応えると、革袋をポケットに押し込み、剣を鞘へと収めた。
壊れた玄関の穴から外へ踏み出すと、灼熱の風がルシフェルの前髪を激しく揺らした。
燃え盛る村。崩れ落ちる家々。
そこにはかつて暮らした平和な日常の面影など、どこにも残っていなかった。
ルシフェルは振り返らなかった。
一歩、また一歩と、燃え盛る業火の中を東へ向かって歩き出す。
頭痛は依然として消えず、脳の奥底ではあの狂気に満ちた宴の旋律が、幻聴のように静かにリフレインしていた。
『光があるなら闇もある……』
『高潔な女神は その光を奪い去ってしまえばいい……』
「黙れ……」
ルシフェルは低く、地獄の底から響くような声で呟いた。
「奪われたなら……奪い返すだけだ」
たとえこの身が闇に呑まれようとも。
たとえ世界のバランスが崩れ去り、すべてがクズレようとも。
絶対に、リコリスを取り戻す。
深紅の髪の男——サルガタナス。
そして、その背後にいる魔王。
絶望的な敗北と別れを胸に刻み、青年の長き過酷な復讐と奪還の旅が、今、幕を開けた。




