第0話:別れ(第3編)
薄暗い室内を、足元から込み上げてくるような不気味な魔気の波動が満たし始めていた。
玄関の破れ目から津波のように雪崩れ込んできたのは、無数の下級魔族たちだった。 鳥の羽と爬虫類の皮膚を混ざり合わせたような歪な翼を羽ばたかせ、赤く濁った眼球を怪しく蠢かせるインプたち。背中に鋭い棘を生やし、爪をジャリジャリと床板に食い込ませながら這い回る小悪魔の群れ。彼らは異様な甲高い声でケケケと不快な嗤い声を上げながら、倒れたリコリスを取り囲む。
「ヒヒヒ! 見ろよ、これがサルガタナス様の仰っていた小娘か!」 「美味そうな匂いがするぜ……喰っちまってもいいのか?」 「馬鹿め! 魔王様のお命じになった『高潔な光』だぞ、手を叩き切られたいのか!」
下級魔族たちが下劣な欲望を剥き出しにしながら、身動き一つ取れなくなったリコリスの周りに群がる。何匹かのインプが彼女の腕や足元へ群がり、黒く汚れた爪で彼女の肌を傷つけないよう注意しながら、異界の転移魔法を起動させるための詠唱を始めた。
「……グラ・ゾ・ラ・メ・ル……ズ・ダ・ル・ガ……」
呪わしい魔法の言葉が重なり合い、低く響く重低音となって空気を激しく震わせる。リコリスが横たわる床を中心に、おどろおどろしい黒紫色の魔力光がじわじわと広がり始めた。光はまるで生き物のように彼女の身体を舐め回し、古代の禁忌の文字を描き出していく。
その凄惨な光景から少し離れた階段の麓。 破砕された木片と自身の血の海の中に横たわるルシフェルは、ただピクリとも動かずに伏していた。後頭部から溢れ出た深紅の血液が、床の木目を黒く染め上げていく。息は途切れ途切れで、意識は完全に深い闇の底へと沈み込んでいた。
一匹のインプが、そのルシフェルの残骸に気付き、奇妙そうに首を傾げた。 インプは血の匂いに誘われるようにルシフェルへと近づくと、鋭い爪の生えた指先で、血の海に沈むルシフェルの頬を無造作に突いた。
「サルガタナス様!! この男はどうしますか!?」
インプは気絶したルシフェルを指差しながら、リビングの中央で外套を揺らしている男……サルガタナスの方へパタパタと走り寄っていった。
「息はまだありますぜ? 魔族の餌にでも連れて行きますか? それとも、ここで首を叩き切って血を吸い尽くしてやりましょうか! ケケケッ!」
醜悪な顔を歪めて報告するインプに対し、サルガタナスは振り返りもせず、心底不快そうに鼻で冷たく笑い飛ばした。
「放っておけ」
サルガタナスの冷酷な一言が、インプの期待をあっさりと打ち砕いた。
「そんな命の薄い虫ケラ一匹、放っておけばいずれ勝手に血を流し尽くして死ぬ。それに……その男が死ぬか生きるかなど、オレ様の知ったことではない。魔王様のご命令はそこの小娘の回収だけだ」
サルガタナスはそう吐き捨てると、金色の瞳で転移魔法の準備が進むリコリスを一瞥した。
「お前ら、さっさと戻ってこいよ。オレ様は先に行くからな」
サルガタナスはインプの返事も待たず、何一つ未練もない様子で悠然と歩き出した。
彼の足が二歩、三歩と踏み出されたその瞬間——サルガタナスの目の前、空間の歪みとともに、巨大な漆黒と金の魔法陣が浮かび上がった。魔法陣の表面には禍々しいルーン文字が高速で回転し、この世のものとは思えぬ甘美で爛れた魔気の匂いが噴き出していく。
サルガタナスは一切躊躇することなく、その魔法陣の中へと足を踏み入れた。
「ククク……狂った宴の始まりだ」
残虐な笑みを残し、サルガタナスの身体が暗黒の光の中に溶け込んでいく。魔法陣は空間に美しい波紋を広げた後、スッと音もなく消え去った。
「ヒィッ! サルガタナス様が先に行かれたぞ!」 「急げ! 詠唱を早めろ! 遅れれば俺たちが引き裂かれるぞ!」
サルガタナスの離脱を受け、焦った下級魔族たちは狂乱の声を上げながら転移魔法の詠唱を速めた。
「……ズ・ダ・ル・ガ・バ・ラ・メ・ル……消エヨ……!!」
ちょうど移転魔法の長大な詠唱を終えた下級魔族たちの身体が、黒い煙となってスーッと空間へ溶けるように消えていく。
そして、それに続くようにして、気絶したリコリスの下に巨大な魔法陣が現れた。 その魔法陣は、サルガタナスの放った漆黒のそれとは異なり、リコリスの秘めたる「光」と魔族の「闇」が激しく衝突し合うように、不気味で眩い光を放ちながらグルグルとしばらく高速で回転した。
指先に嵌められたルビーの銀の指輪が、回転する魔法陣の光を浴びて、最期の抵抗のように一瞬だけ真紅に強く輝く。
次の瞬間——
ドォンッ!!
眩いばかりの光の柱がリコリスの身体を包み込み、空間を圧迫するような光のフラッシュが部屋全体を白く染め上げた。
やがて光が収まり、激しい風が吹き抜けた後。 部屋の中には、静寂だけが残されていた。
下級魔族たちの姿も、そして……ルシフェルが何よりも命をかけて守りたかった愛しい少女、リコリスの姿も、跡形もなく消え去っていた。
残されたのは、荒らされた家具の瓦礫。 破られた扉から吹き込む、村を焼き尽くす黒煙と業火の熱気。
そして——頭から赤黒い血を流し続け、冷たい床の上で一度も起き上がることのなかったルシフェルの身体だけであった。




