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第0話:別れ(第2編)

 「っルシフェル!!」


耳をつんざくような悲鳴が、張り詰めたリビングの空気を鋭く引き裂いた。


手首を破砕されるような激痛に耐えかね、膝をつきかけていたルシフェルの視界の端を、小さな栗色の影が横切る。


それは、恐怖で腰を抜かしていたはずのリコリスだった。 彼女は涙と埃で濡れた顔を歪め、死に物狂いの力を振り絞って立ち上がると、無謀にも深紅の髪の男——サルガタナスへと飛びかかったのだ。


「離して! ルシィから手を離してぇぇぇっ!!」


小さな身体の全体重を乗せた、捨て身の体当たり。 人間離れした身体能力を持つ最高級魔族のサルガタナスにとってみれば、少女の体当たりなど蚊が刺したほどの衝撃にも満たないはずだった。しかし、完全に虫ケラとして見下していた弱者の予心なき抵抗、そして一瞬の油断が彼の体勢をわずかに狂わせた。


「ぬっ……!?」


サルガタナスは突然の出来事に対応しきれず、倒れることこそなかったものの、その大きな身体が踏み出した足元でわずかに揺らぎ、よろめいた。


そして、そのわずかな体勢の崩れに伴い、ルシフェルの手首を万力のように締め上げていた男の指先から、ほんの一瞬だけ力が緩んだ。


(今だ……っ!)


激痛で感覚が麻痺しかけていた腕を、ルシフェルは死に物狂いで引き抜いた。擦れ飛ぶ皮膚の痛みなど気にする余裕すらない。すんでのところで自由を取り戻した手首を抱え、ルシフェルはとっさに身を翻すと、横倒しになりかけたリコリスの華奢な手首をがむシャらに掴み寄せた。


「リコリス! こっちだ!!」


強引に彼女を引き寄せ、サルガタナスの間合いから数歩後ろへと跳び退く。荒い息を吐き出しながら、ルシフェルはリコリスを己の背後へと庇い立てした。引きちぎれそうな手首からはドクドクと血が巡る激しい拍動痛が押し寄せていたが、握りしめた彼女のの手の温もりだけが、ルシフェルに踏みとどまる力を与えていた。


しかし、安堵の時間は一秒たりとも与えられなかった。


「……ほう。小娘の分せいで、このオレ様によろめきを与えたか」


サルガタナスの金色の瞳が、冷徹な殺気を孕んでじわりと細められた。 その視線がルシフェルを通り越し、背後に隠れるリコリスを鋭く射抜く。


人間を、虫ケラを遥かに下回る家畜か何かのように見下していた男のプライドが、ほんのわずかに傷つけられたのだ。その瞳の奥で揺らめく不快感と残虐な光に触れ、リコリスはヒッと小さな悲鳴をあげ、ルシフェルの服の裾をぎゅっと固く握りしめた。彼女の全身が、小刻みにガタガタと震えているのが背中越しに伝わってくる。


「リコリス、俺の後ろから離れるな……絶対に見るなよ……っ!」


ルシフェルは激痛に喘ぐ右腕を庇いながら、必死に左手を構えた。だが、目の前の存在との戦闘力の間には、埋めようのない絶対的な深淵が横たわっていることなど、痛いほど理解していた。


サルガタナスはゆっくりと、歩幅を変えずに動き出した。 その動作には一切の力みがなく、それでいて静寂の中に致命的な死の予感を漂わせている。


「遊びは終わりだ。これで終わらせる。」


男が低く、冷ややかな声でそう呟いた。


——次の瞬間、世界から音が消えた。


目視することすら不可能な超絶的な速度。 ルシフェルが男の影を目で追うことすら叶わない一瞬の出来事だった。


気がついた時には、すでにサルガタナスの姿は元いた場所にはなかった。 そして次の瞬間には、ルシフェルのは眼前に、燃えるような深紅の髪と冷酷な金色の瞳が肉迫していた。


「な——っ!?」


反応すらさせてもらえなかった。 ドカァンッ!! という重苦しい衝撃音が、ルシフェルの体内から響き渡る。


サルガタナスの鋭い膝蹴り、あるいは拳が、正確無比にルシフェルの手薄なみぞおちを深く穿っていた。


「がっ……は……っ!? ぐ……あ……ッ!!」


肺の中にある空気のすべてが、一瞬で口から吐き出された。 横隔膜が麻痺し、息を吸うことすらできなくなる。胃のあたりから全身へと突き抜ける凄惨な衝撃と激痛に、ルシフェルの視界がぐにゃりと真っ白に染まり、血の気が引いていく。


胃を押さえたまま崩れ落ちそうになるルシフェルに対し、サルガタナスは一切の容赦を見せなかった。屈み込むルシフェルの襟元を粗暴に掴み上げると、まるで重みを感じさせない動作で、室内奥の木造階段へ向けて力任せに投げつけた。


「ぐあぁぁぁぁぁッ!!」


「……っ!? ぉ……っ? ……ゥ……ッ」


「ガハッ……! ぐ……ぅ……」


そして、激しい衝撃とともに後頭部が階段の硬い縁へと叩きつけられた。


鈍い音が頭蓋に響き渡り、視界が真っ赤な血の色と黒い闇へと交互に明滅する。頭頂部から温かい液体がだらりと垂れ落ち、視界を塞いでいく。全身の感覚が急速に遠のき、意識の糸がプツリと弾け飛ぶように切れた。


ルシフェルは血の海の中に突き伏し、ぴくりとも動かなくなった。


「ルシィッ!!」


【18】


リコリスの悲鳴が、惨劇の残響を残す部屋の中に虚しく響き渡った。


「ルシィ! 目を覚まして! ルシィッ!!」


リコリスは崩れ落ちた足に鞭打ち、血を流して動かないルシフェルへと倒れ込むように駆け寄った。 彼の頭部からは朱い血が流れ出し、木の床にしみ込んでいく。どれだけ身体を揺さぶり、名を呼びかけても、ルシフェルが激しい苦悶の表情を浮かべたまま目を覚ます様子は微塵もなかった。


「嫌……嫌だよ……ルシィ、私を置いていかないで……っ!」


涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、リコリスは必死に彼の胸に手を当て、微かな鼓動を確認しようとする。


だが、その健気な祈りを破ったのは、踏み荒らされた床板を鳴らす冷酷な足音だった。


「おい、小娘……さっきはよくもやってくれたな……」


背後から迫る低い声。 振り返る暇すら与えられなかった。


サルガタナスはルシフェルにすがりつくリコリスの脇腹へ向け、容赦なくその脚を叩き込んだ。


「キャアッ!!」


短い悲鳴とともに、小さな身体が宙を舞い、数メートル先の床へと叩きつけられた。 ゴシゴシと床を滑り、壁に激突して止まる。打ち付けた背中と腹部の激痛に、リコリスは息を詰まらせ、ゴホゴホと激しく咳き込んだ。


「うっ……く……ぁ……っ」


激痛に涙を流しながらも、彼女はなおもルシフェルの方へと手を伸ばそうとした。だが、その頭上に黒い影が落ちる。


「調子に乗るなよ、害虫が」


サルガタナスは冷たい眼光で見下ろすと、身を屈め、リコリスの整った前髪を乱暴に鷲掴みにした。


「痛っ……離して……っ!」


「大人しくしていれば痛い思いをせずに済んだものを……」


ミシミシと頭皮が引きちぎれんばかりの力で、前髪を掴んだまま彼女の身体を無理やり上へと持ち上げる。リコリスはつま先立ちになり、激痛に顔を歪めながら男の手首を必死に両手で掴もうとした。指先には、ルシフェルから貰ったばかりのルビーの銀の指輪が、惨劇の中で虚しく真紅の輝きを放っている。


サルガタナスはその指輪に一瞬だけ目を向けたが、鼻で笑うと冷たく吐き捨てた。


「魔王様も趣味が悪いな……こんな脆弱な人間の小娘を連れて来いとは。さっさと連れて行くとするか」


「嫌……! 放して……ルシィを……ルシィを助けて……っ!」


必死に抗うリコリスの顔を冷たく見つめ返しながら、サルガタナスは空いたもう片方の拳を迷いなく振り抜いた。


ドスッ!!


前髪を掴んで固定されたまま、無防備な彼女のみぞおちへと、圧倒的な破壊力が叩き込まれる。


「うっ……ガハッ……! ゲホッ……!」


リコリスの小さな身体が大きく折れ曲がり、口から激しく血混じりの胃液が吐き出された。瞳から急速に光が失われていき、激痛の限界を超えた彼女の意識は、あっけなく闇の中へと落ちていく。


「ふん、手応えのない」


サルガタナスは前髪を掴んでいた手を雑に離した。 糸の切れた人形のように、リコリスの身体が力なく床へと崩れ落ちる。


「よし、連れてけ」


男が部屋の入り口へ向かって短く命じた。 すると、破られた玄関の穴から、待ち構えていたかのように数々の下級魔族たちが、黒い群れとなってぞろぞろと家の中へ雪崩れ込んできた。


薄気味悪い羽音と爪の音を立てながら、気絶した少女を取り囲む異形の怪物たち。

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