第0話:別れ(第1編)
第1話:別れ(第2編/全5編)
燃え盛る村の中を、ルシフェルは半ば狂気にとり憑かれたような足取りで駆け抜けていた。
視界のすべてがどす黒い黒煙と、天地を焼き尽くさんばかりの真っ赤な炎によって支配されている。息を吸い込むたびに、超高温の熱気が気管を灼き、肺の奥底を焦がしていくかのような激しい痛みが走る。何度も咽び倒れそうになりながらも、ルシフェルはもつれそうになる両脚を必死に前へ前へと突き出していた。
「助けて……ッ! 誰か、助けてくれぇッ!」
視界の端で、幼い頃から毎日のように笑顔で挨拶を交わしていた近所の農夫の男が、脚から凄惨な血を流しながら這いずっていた。男はルシフェルに気づくと、泥と血にまみれた手を必死に伸ばし、救いを求めるようにその裾を掴もうとする。
「ルシフェル! たのむ、連れて行ってくれ! 足が……足が動かねえんだ!」
一瞬、ルシフェルは脚を止めかけた。胸の奥を激しい罪悪感と情けなさが刺し貫く。だが、彼が視線を向ける前に、農夫の背後にゆらりと黒い影が躍り出た。背中に蜥蜴のような翼を生やし、頭部から禍々しい二本の角を生やした異形の怪異——魔族だった。下級の魔族は下劣な笑い声をあげながら、手に持った黒ずんだ槍を容赦なく農夫の背中へと突き刺した。
「ガハッ……! ぁ……っ」
「ギャハハハハ! 逃げ惑え、人間ども! 宴の余興にもなりはせんがな!」
血飛沫が走り、農夫の瞳から光が失われていく。その凄惨極まりない光景を前にして、ルシフェルは絶叫しそうになる口を必死に手で塞ぎ、後ろを振り返ることなく逃げ出した。
(ごめんなさい……ごめんなさい! 今は……今は、リコリスを助けなきゃいけないんだ……!)
背中に感じる視線と殺気に怯え、生きた心地のしないまま、ただひたすらに愛しい少女の家を目指した。道端には、つい数時間前まで笑い合っていた村人たちの物言わぬ骸が転がり、ある者は家ごと炎に包まれ、ある者は魔族たちの刃にかかって無残に散っていた。平和だったはずの村は、一瞬にして完全なる屠殺場へと変貌を刺していたのだ。
どれほど走っただろうか。心臓が胸破れんばかりに脈打ち、足の裏に刺さるガラス片や木屑の痛みすら麻痺し始めた頃、ついに目的の場所が見えてきた。
村の外れ、小高い丘の麓に佇むリコリスの家だ。
「……え……?」
その場所に辿り着いた瞬間、ルシフェルは思わず息を呑み、足の動きを止めた。
村全体が灼熱の業火と黒煙に包まれ、あらゆる建物が骨組みを露わにして崩れ落ちようとしている中で——なぜか、リコリスの家だけが火の手を完全に免れていたのだ。まるで、その一角だけが世界の理から切り離されているかのように、炎も煙も近寄ろうとしない。不自然なほどの静寂が、その家を包み込んでいた。
だが、それは決して無事であることを意味してはいなかった。
近づくにつれて見えてきたのは、異様な光景だった。リコリスの家の重厚な木製の玄関扉には、まるで巨大な鉄槌か怪物の一撃でも食らったかのように、中心からボロボロに砕け散った巨大な穴が開いていた。
その破れ目から外へと溢れ出してくるのは、木が燃える焦げ臭い煙などではない。鼻を突く刺すような魔気の匂いと、濃厚な死と破壊の気配——肌の毛穴という毛穴が激しく開くような、狂気と威圧感だった。
「リコリスッ……!!」
胸を鋭く刺す胸騒ぎと強い嫌な予感に背中を押され、ルシフェルはなりふり構わず、破られた扉の隙間へと飛び込んだ。
【15】
「ハァ……ハァ……ハァッ! リコリス! どこだ、無事か!?」
足元に転がる木片を踏みつけながら、ルシフェルは家の中に上がり込んだ。
普段ならあたたかな日差しが差し込み、焼き立てのパンと彼女の好きな花の香りが漂っていたはずのリビング。しかし今、そこに広がっていたのはあまりにも惨状を極めた光景だった。
木製のテーブルは真っ二つに叩き折られ、壁に掛けられていた家族の写真や飾りの絵画は破り捨てられている。棚から落ちたガラスの器が床全体に木っ端微塵に飛び散り、足を踏み出すごとにジャリ、ジャリと不快な音を立てた。
そして、その惨劇の中心で、彼女はいた。
「……ぅ……あ……」
部屋の中央、割れた家具の瓦礫の中に、リコリスはペタリと床に座り込んでいた。激しい恐怖によって腰が完全に抜けてしまったのか、立ち上がるどころか身動き一つ取れず、華奢な身体をガタガタと震わせている。彼女の白いドレスは泥と埃で汚れ、自慢の栗色の髪は乱れていた。
「ル……ルシィ……助けて……っ」
涙で濡れ、恐怖に激しく揺れる茶色の瞳が、部屋に飛び込んできたルシフェルを捉えた。かすれて震えるその声を聞いた瞬間、ルシフェルの全身に血が巡り直す感覚があった。生きていた。無事だった。その安堵感だけで、彼は彼女のもとへと駆け寄ろうと強く踏み出した。
しかし——その脚は、即座に氷の中に叩き込まれたかのように凍りつくことになる。
「チッ……邪魔が入りやがったか……」
リコリスのすぐ目の前、数歩と離れていない位置に立っていた「男」が、鬱陶しそうに舌打ちをしながら、ゆっくりとこちらへ振り返ったからだ。
ルシフェルの息が止まる。 身体中の細胞が一斉に悲鳴を上げ、全身の血液が逆流するような衝撃が走った。
視線が、その男の存在に釘付けになった。
男の髪は、燃え盛る村の炎よりもなお深く、暗く、禍々しい深紅。そして、ルシフェルを射抜いたその二つの瞳は、暗闇の中でも爛爛と異彩を放つ金色だった。
背丈はルシフェルよりも頭一つ分高く、身に纏っている漆黒の鎧と外套は、どれほど多くの命を奪ってきたかを示すかのように重厚な殺気を纏っている。人間離れした圧倒的な存在感。そこに立っているだけで周囲の空間の重力を歪めているかのような密度の濃い圧迫感が、狭いリビングの中に満ち渡っていた。
「誰だ…………お前は……?」
恐怖で引きつる口唇を震わせ、ルシフェルはどうにかそれだけの言葉を絞り出した。声が掠れ、自分のものとは思えないほど弱々しく部屋に響く。
男はルシフェルのその問いかけを聞くと、整った容姿の唇を冷たく歪め、鼻で笑った。
「ククッ……気になるか? 虫ケラが、自分の死に顔でも映しに来たかのような顔をしやがって」
紅い髪の男は、まるで路傍の石ころか踏みつぶす虫ケラを見るかのような、徹底的な見下した目でルシフェルを見た。そして、一切の隙を感じさせない優雅かつ重厚な足取りで、カツン、カツンと床の瓦礫を踏み鳴らしながらルシフェルの方へと歩み寄ってくる。
一歩、男が踏み出すごとに、胸を押し潰されるような圧迫感が増していく。ルシフェルの全身の毛穴が開き、冷や汗が吹き出した。皮膚がピリピリと痺れ、息を吸うことすら困難になっていく。
「ルシィ、逃げてよッ!!」
後ろで倒れ込んでいたリコリスが、濡れた瞳からボロボロと大きな涙を溢れさせながら、叫ぶような声を張り上げた。
「お願いだから逃げて! その人はダメ……勝てるわけないよ! 早く、早く逃げてぇっ!!」
リコリスの必死の悲鳴がリビングに響き渡る。 だが、ルシフェルは逃げなかった。いや、正確には一歩たりとも逃げることができなかったのだ。
男から放たれる本能的な恐怖、命の格の違いを見せつけられるかのような精神的威圧によって、両脚が床に頑丈な杭で打ち付けられたかのように固まって動かない。脳内では全身の細胞が「逃げろ! 今すぐ背を見せてここから去れ! 死ぬぞ!」と激しく警鐘を鳴らし、絶叫している。
けれど、仮に身体が自由に動いたとしても、ルシフェルが背を見せて逃げ出すことなど絶対にあり得なかった。
「リコ……!!」
倒れ込み、恐怖に震えながら自分を案じる彼女の姿。 頭の中には、ただ彼女を助けたい、彼女を守らなければならないという想いしかなかったからだ。たとえ相手がどのようなバケモノであろうとも、ここで逃げれば彼女がどうなるかなど目に見えていた。
男はルシフェルの目と鼻の先、お互いの息遣いすら届くほどの至近距離で、ぴたりと足を止めた。
その瞬間、二人の間の空気が完全に圧迫され、温度が数度下がったかのように凍りついた。
「……あ、……っ……あっ……」
近距離で対峙した男の絶大な威圧感と殺気を前に、ルシフェルは喉が固まり、激しい恐怖のあまり次の言葉すら紡ぐことができなくなっていた。
【16】
(動け……動けよ、俺の身体……ッ!)
心の中でどれほど叫んでも、指先ひとつ動かすことすら困難だった。目の前に立つ深紅の髪の男からは、今まで生きてきて一度も感じたことのない種類の「死の気配」が立ち上っている。まるで巨大な捕食者の前に立たされた無力な獲物のように、全神経が恐怖によって麻痺させられていた。
「ルシフェル……っ!」
リコリスはボロボロと涙を流し続けながら、床に伏せたままルシフェルを見つめ続けていた。彼女の瞳には、自分を助けに来てくれたことへの愛おしさと、それ以上に彼が目の前で殺されてしまうのではないかという絶望的な恐怖が混ざり合っていた。
「ルシフェル……逃げて……お願いだから……!」
その泣き声が、ルシフェルの中の「何か」をぶち壊した。
恐怖に竦み、震えていた心臓に、熱い感情が爆発的に流れ込む。自分が怯えている間にも、リコリスは恐怖に晒されているのだ。男の視線が自分に向けられている今しか、彼女を救う機会はないかもしれない。
「う……うおあぁぁぁぁぁッ!!」
ルシフェルは動かない身体に力任せのムチを打ち、恐怖をかき消すような叫び声を上げながら、目の前に立つ男の顔面に向けて右拳を全力で振り抜いた。
己の持つすべての筋力、体重、そしてリコリスを守りたいという執念を乗せた一撃。風を切る音が狭い空間に響く。
……が。
「ククク……愚かな」
男——サルガタナスは、半歩すら引くことなく、ただ首をわずかに傾けただけだった。 ルシフェルの決死の拳は、男の深紅の髪を揺らしただけで、空を切った。激しい空振りの衝動でルシフェルの体勢が大きく前へ崩れる。
その瞬間だった。
「当たると思ったのかい……?」
嘲笑うような冷ややかな声とともに、ルシフェルの右腕に激痛が走った。 空振りしたルシフェルの手首を、男の手が正確無比に捉えていたのだ。まるで万力で締め上げられたかのような強烈な力。
「ぐっ……!? が……っ!」
「人間にしては威勢だけはいいが……虫ケラの足掻きだな」
サルガタナスはルシフェルを嘲笑いながら、手首を掴む力をじわじわと強めていく。
ミシ、ミシ、とルシフェルの手首の骨が嫌な音を立て始めた。まるで鉄の万力で骨を直接叩き潰されているかのような凄惨な激痛。ルシフェルは顔を激しく歪め、必死に左手で男の腕を叩き、引き剥がそうと抵抗した。
「離せ……っ! 離せぇっ!」
「離せと言われて離す奴がどこにいる? 少しは頭を使ったらどうだ?」
ルシフェルは掴まれている腕にだんだん増していく激痛に耐えかね、身体を捻って強引に距離を取ろうとした。しかし、男の握力は強固そのものであり、引けば引くほど肉に指が食い込み、より耐え難い痛みを生み出すだけだった。
痛みのあまり視界が真っ赤に染まり、膝がガクガクと折れかける。だが、男は逃がすつもりなど毛頭ないらしく、冷酷な金色の瞳でルシフェルが苦しむ様を愉しむように見つめている。
どちらにしろ、腕を掴む力はどんどん強くなっていく。骨が砕ける感覚が刻一刻と迫り、ルシフェルの口から悲鳴が漏れ出そうになった、その時だった。
「っルシフェル!!」
叫び声と同時に、横から小さな影が猛然と飛び出してきた。




