第8話:捕われの少女と魔王の冷眼 第4編:不穏な吐息
第8話:捕われの少女と魔王の冷眼
第4編:不穏な吐息
【シバリア視点】
火山街グランへと続く赤土の山道は、進むごとに牙を剥き始めていた。 ゴツゴツとした岩肌が露出し、足元からはほのかに硫黄の匂いが立ち上っている。木々の緑は失われ、枯れ果てた樹木の群れがまるで死者の手骨のように天を突いていた。
「……チッ、嫌な風が吹きやがるな」
俺は大剣の柄に手を置いたまま、先頭を行くルシフェルの背中を鋭い目で見つめていた。
ルシフェルの歩調は乱れない。右腕を手首ごと砕かれ、体に縛り付けた「片腕の青年」――その歪なシルエットは、この荒涼とした山道の中で異様なまでの存在感を放っていた。
前世の天才剣士「沖田総司」の記憶と才幹に目覚めたという話は、最初こそ眉唾だと思っていた。だが、ネビロスの地下聖堂での立ち回りを見せつけられちゃ、信じざるを得ねえ。あの一瞬の刺突、相手の攻撃を見切る間合いの詰め方……ありゃあ、修羅場を何百回と潜り抜けてきた本物の殺し屋の動きだ。
だがな、問題はそこじゃねえ。
(ノエルヌの嬢ちゃんは気づいてる。俺だって伊達に長年盗賊の頭をやっちゃいねえんだ、勘づかないわけがねえ……)
ルシフェルの背中から滲み出る気配が、ここ数日で明らかに変化していた。 元々は「大切な幼馴染を取り戻したい」という純粋で切実な執念だった。それが今や、触れれば指が腐り落ちそうなほど冷たく、鋭利な「殺意の塊」へと変質しつつある。
「ルシフェル。少しペースを落とせ。この先はゴブリンや岩魔獣の縄張りだ。あんまり殺気を振り撒いて歩くと、集団で群がられるぞ」
「……大丈夫だ、シバリア。来たら斬るだけだ」
振り向きもせずに答えるルシフェルの声に、温度というものがまるでなかった。 その瞬間だった。
ガサリ、と沿道の枯れ木から黒い影が飛び出した。
「ギャギャッ!」
赤黒い皮膚を持った大型の山ゴブリンが三匹。錆びた斧を振り上げ、ルシフェルの死角――右側から跳躍する。片腕のルシフェルにとって、右側は完全なブラインドであり、隙となるはずの領域だ。
「ルシフェル、右だ!」
俺が大剣を引き抜こうとした時には、勝負はついていた。
――シュッ。
空気を切り裂く、一瞬の乾いた音。 ルシフェルは振り向きもしない。左手で抜いた白鞘の刃が、まるで最初からそこにあったかのように一直線に伸びていた。
「ガ……ッ!?」
先頭のゴブリンの喉輪を、正確無比な刺突が穿っていた。 それだけではない。ルシフェルは突いた刀を引くことなく、そのまま足首を軸に円を描くように身を翻した。風魔法の初級『ラ・ラルド』の微かな旋風が刃に纏わりつき、残る二匹のゴブリンの首筋を同時に薙ぎ払う。
ドサリ、と音を立てて倒れる三体の死骸。 戦闘時間、わずか二秒。血の一滴すらルシフェルの服には飛んでいなかった。
「……なっ」
俺は言葉を失った。鮮やかすぎる。だが、俺が息を呑んだのはその剣技のキレに対してではない。 技を繰り出した瞬間、ルシフェルから溢れ出た魔力の色だ。
風魔法の爽やかな緑の光の中に、一筋の濁った黒紫色の魔力が、毒のように混ざり込んでいた。
「おい……ルシフェル、お前今の力は――」
俺が踏み込もうとした瞬間、ルシフェルがうめき声を上げて膝をついた。
【ルシフェル視点】
「ガハッ……!?」
視界が真っ赤に染まり、激しい眩暈が脳揺らしを起こした。 叩きつけられるような激痛。それは切断された右腕の手首ではなく、胸の奥底――心臓の鼓動に合わせて波打つ「何か」から発せられていた。
「ハッ、ヒュー……ッ、ハァ……!」
息が吸えない。肺が凍りついたかのように冷たく冷え切っていく。 左手で握りしめた刀の柄が、恐ろしいほどの熱を帯びて俺の手のひらを焼き焦がしそうだった。
(な……んだ、これは……!?)
耳の奥で、知らない男の笑い声が聞こえる。 低く、優雅で、それでいて全てを足蹴にするような冷酷な声。
『足掻け、哀れな羽虫よ。お前が剣を振るい、殺意を募らせるほどに、その魂はお前の前世すら超えて我が半身へと近づいていく……』
(誰だ……!? 俺の頭の中に話しかけてくるのは……誰だ!)
『私だよ。お前が殺したいと願う男であり、お前自身でもある存在……魔王ルシファーだ』
「ぐぁぁぁぁぁッ!!」
頭骨を内側から万力で締め上げられるような苦痛に、俺は咆哮を上げた。 視界が暗転しかけ、己の左手に凄まじい破壊衝動が流れ込んでくる。目の前にあるもの全てを、シバリアも、ノエルも、この山全体すらも風魔法で切り刻んで粉砕したいという、狂気的な欲望。
「ルシフェル! しっかりして、ルシフェル!」
温かな手が、俺の左頬を包み込んだ。 緑の柔らかな光が視界を覆う。ノエルの声だ。彼女が必死の顔で回復魔法『ル・ヒール』を全開で注ぎ込んでいる。
「離れろ……ノエル! 俺に触るな……ッ! 危険だ!」
「嫌! 絶対に離れないわ! あなたを一人になんてさせない!」
ノエルの悲痛な叫びと、彼女の温かな魔法の光が、俺の脳内を埋め尽くしていた漆黒の闇を押し返していく。 ドクン、と大きく脈打った心臓が静まり返り、冷酷な男の笑い声が遠のいていく。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
俺は両膝をついたまま、荒い息を吐き出した。 全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。ノエルの手首を強く掴んでいた自分の左手を解くと、彼女の白い肌には俺が強く握りしめた赤い手形が残っていた。
「ノエル……すまない、俺は……」
「いいの。大丈夫よ、ルシフェル」
ノエルは自分の手首の痛みを隠すように袖を引っ張り、無理に微笑んで見せた。だが、その瞳は恐怖で微かに震えている。俺に対してではない。俺の中に潜む「何か」に対してだ。
「……小僧」
シバリアが険しい表情で俺の前にしゃがみ込んだ。その大きな手が、俺の肩をぽんと叩く。
「今のが何なのか、俺たちにはわからねえ。だがな……お前、一人で抱え込んで全部を斬り捨てようとするな。お前のその左腕は、リコリスってお嬢さんを抱きしめるためのものだろ? 壊すためにあるんじゃねえはずだ」
「シバリア……」
「行くぞ。立ち上がれ。火山街グランはもうすぐだ」
シバリアは背中を向け、再び歩き出した。 俺は自分の左手を見つめた。手袋の隙間から見えた皮膚には、ノエルが言っていた「黒い筋」が、まるで生き物のように蠢いた痕跡が残っていた。
(魔王ルシファー……。奴の影が、俺の中にいるというのか……?)
リコリスを救うための力が、俺自身を破滅へ導く毒になっている。 底知れぬ恐怖が恐怖となって背筋を駆け抜けたが、俺は歯を食いしばって立ち上がった。
たとえこの身が黒い闇に呑み込まれようとも、俺は止まるわけにはいかないのだ。




