第8話:捕われの少女と魔王の冷眼(2編) 【ルシファー視点】
第8話:捕われの少女と魔王の冷眼(2編)
【ルシファー視点】
廊下に漏れていた部屋の明かりが、重厚な黒鉄の扉によって遮られる。
カチャリと施錠された扉の向こう側――冷たい床の上で震えているであろう小鳥、リコリスの気配を背中に感じながら、私は薄暗い廊下を静歩し始めた。
彼女の瞳は実に美しい。恐怖に怯え、憤怒に燃え、それでいて消えることのない意志の光を宿している。人間という脆弱な生き物が魅せるあの刹那の輝きこそ、この退屈で果てしない永劫の時において、唯一の慰みであった。
「……狂おしいほどに可憐だ」
指先に残る、先ほど彼女の手が触れた微かな体温の感触を慈しむように噛みしめる。
彼女は自分がなぜここに囚われているのか、なぜ生かされているのかを理解していない。故郷を滅ぼされた悲劇を嘆き、あの惨めな人間――ルシフェルなどという羽虫の無事を祈っている。
実に愚かで、だからこそ愛おしい。
泥に塗れた人間の村で、他愛もない日常に埋もれて死んでいくはずだった存在。それを私がこの魔王城という完璧な鳥籠に引き上げ、永遠の存在にしてやろうというのだ。これ以上の救済がどこにあるというのだろうか。
「失礼いたします、ルシファー様」
廊下の影から滑り込むように姿を現したのは、深紅の髪を揺らす男――サルガタナスだった。私の直属であり、あの村を灼熱の炎で焼き尽くした魔王軍幹部である。
「サルガタナスか。あの女に粗相はしていないだろうな?」
「滅相もございません。ルシファー様の『お気に入り』に手を出すほど、私は命を惜しんでおらぬわけではございませんゆえ」
サルガタナスは深々と頭を下げながらも、その口元には凶暴な笑みを浮かべていた。
「ただ……ネビロスの件についてご報告が。あの狂ったネビロスが仕切っていた地下実験場ですが、例の片腕の生き残り――ルシフェルと名乗る羽虫の手によって完全に打ち砕かれました」
「……ほう」
私は立ち止まり、背後の暗闇を見つめた。
右腕を潰され、絶望の淵に沈んだはずの男。だが、私の計算を嘲笑うかのように、その男は生きて動き続けている。
「ネビロスの両腕を叩き折り、キメラどもを退けたか。片腕でありながら、大したものだ」
「フン、ネビロスが油断していただけに過ぎません。あのような工作員気取りの魔族など、元より我ら幹部の面汚し。ですが……ルシフェルというあの小僧、村で右腕を潰した時とはまるで別人のような鋭さを見せているとのこと」
「当たり前だ」
私は静かに笑みを深めた。
「あの男の中には、既に異物が混ざり込んでいる。前世の記憶……異界の剣士の才幹。そして何より、私という存在の影がな。あの男が抗えば抗うほど、その肉体と精神は私の魔力と引き合い、漆黒の侵食を進めていく」
「……では、あえて生かしておかれるのですか?」
「奪い合いだよ、サルガタナス。あの男が己の破滅に気づかず、この城まで辿り着けるか。それとも途中で黒い闇に呑まれ、自我を失って狂い死ぬか。リコリスという絶望の希望を糧にして、どこまで足掻けるかを見届けてやろうではないか」
私は胸元から、一輪の黒いバラを取り出した。魔力で造られたその花弁は、一見すると美しいが、触れれば一切の生命を吸い尽くす死の結晶だ。
「ルシフェル……お前が愛する女は、ここでお前の訪れを待っている。……だが、辿り着いた時には、彼女が望んだお前の姿など、どこにも残っていないかもしれないがね」
私は黒バラを握り潰した。崩れ落ちる漆黒の粉塵が、冷たい廊下の床へと散っていく。
【リコリス視点】
一人きりになった部屋で、私は冷たい床に膝をついたまま、自分の右首筋に触れた。
「ルビーの首輪……」
指先に触れる鎖は繊細で美しいが、込める魔力はあまりにも重く、私という存在を根底から縛り付けている。
ルシファーという男の瞳を思い出すだけで、全身の血が凍りつくようだった。あの人は私を「人間」として見ていない。ただの気に入った玩具、飾っておきたい珍しい小鳥としてしか認識していないのだ。どんなに言葉を尽くしても、私の悲しみも怒りも、あの男の狂気的な「優しさ」の中に吸い込まれて消えてしまう。
「ルシフェル……」
私の頭裏に浮かぶのは、あの日のルシフェルの姿だった。
魔王軍の襲撃の中、私を護ろうとして右腕を深く潰され、激痛に顔を歪ませながらも私を呼び続けていた彼の声。
あんなに優しかったルシフェル。剣の才能なんてなくて、いつも村の子供たちと笑っていた彼が、私を助けるために全てを失ってしまった。
『安心するといい。あの男は間もなく命を落とす。私に辿り着くことすらできず、己の身に宿る呪いに焼き尽くされてな』
ルシファーの冷酷な言葉が脳裏でリフレインする。
「呪い……? ルシフェルに、何が起きているの……?」
ルシフェルが生きていてくれている。それは飛び上がるほど嬉しいはずのことなのに、胸を刺すような不安が拭えない。ルシファーの言っていた「黒く染まる」という言葉。ルシフェルの身体に、私たちの知らない恐ろしい変化が起きているのではないか。
私は立ち上がり、部屋の大きな窓へと歩み寄った。
見上げる空には、不吉な赤さを帯びた月が浮かんでいる。この城の周囲は切り立った断崖絶壁であり、下を見下ろせば底知れぬ闇と足すくむような雲海が広がっているだけだ。自力での脱出など、最初から不可能な「鳥籠」。
それでも、私は窓ガラスに額を押し当て、遠い西の空へ向けて祈りを捧げた。
「届いて……ルシフェル。お願いだから、無理をしないで。私なんかのために、あなたが壊れてしまわないで……」
首輪のルビーが、私の不安に呼応するように怪しく明滅した。
ルシフェルがこちらに向かっているという事実は、彼が死への階段を登っていることと同義かもしれない。私は彼に助けてほしいと願う反面、どうかこれ以上傷つかないでほしいと、矛盾した想いに胸をかきむしられるのだった。




