第8話:捕われの少女と魔王の冷眼 第1編:城塞の
第8話:捕われの少女と魔王の冷眼
第1編:城塞の鳥籠
深淵の闇を切り取って積み上げたかのような漆黒の建造物――魔王城『幻影の城塞』。その最奥に位置する一室で、リコリスはゆっくりと瞼を開けた。
頭裏を刺すような微かな痺れと、見覚えのない豪奢な天蓋が視界に飛び込んでくる。シルクの寝具は雲のように柔らかく、漂う香木の甘い香りが鼻腔をくすぐった。故郷の滅びた村の、あの焦土と血の匂いとはあまりにもかけ離れた世界。
「……ここは……?」
かすれた声で呟き、身を起こそうとしたリコリスは、己の腕を見て息を呑んだ。
纏っていた村着は脱がされ、見たこともない細密な刺繍が施されたドレスを着せられている。そして何より、右首筋から鎖骨にかけて、鮮やかなルビーの飾りがついた細い鎖の首輪が嵌められていた。重みはほとんどない。しかし、触れようと指を伸ばすと、肌を焼くような微かな魔力の脈動がそれを拒んだ。
「お覚めかな、小さな愛しい鳥よ」
静寂を割って響いたのは、滑らかで、それでいて底知れぬ重厚感を孕んだ男の声だった。
部屋の窓辺、赤い月光を背にして立つ影があった。
漆黒の髪を後ろに流し、一切の無駄を削ぎ落とした美貌を持つ男。その瞳は夜の闇よりも深く、だがその奥底には狂おしいほどの情念が揺らめいている。魔王ルシファーであった。
「……ルシファー……様……?」
リコリスの唇が戦慄く。記憶が途切れ途切れに蘇る。村を焼き払った紅蓮の炎、右腕を握り潰され絶叫していたルシフェル、そして自分を連れ去った深紅の髪の大魔族サルガタナス。そのサルガタナスすらも、目の前の男には深々と膝を折っていたはずだ。
ルシファーは音もなく静かに歩み寄り、ベッドの脇へと腰を下ろした。長身から発せられる圧倒的な威圧感に、リコリスの全身の毛穴が開く。逃げ出さなければならないと魂が叫んでいるのに、指一本動かすことができない。
「怯える必要はない」
ルシファーの白い指先が、そっとリコリスの頬に触れた。愛おしい宝物を慈しむかのような、どこまでも優しい手つき。しかし、その指先は凍てつく氷のように冷たかった。
「お前は傷つけさせない。あの野蛮なサルガタナスにも厳しく言い渡してある。お前はこの城の特別な客であり、私の最も大切な存在だ」
「何を……言っているの……? 私たちは、あなたたちに……!」
リコリスは必死に身体の震えを抑え、ルシファーの瞳を睨み返そうとした。だが、その瞳と視線が交わった瞬間、彼女の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
ルシファーの顔には、温かな微笑が浮かんでいる。声にも優しさが満ちている。
しかし――その瞳の奥は、完全に死んでいた。
感情の通わない、虚無のガラス細工。目の前の少女を人間として見ているのではなく、完璧に磨き上げられた人形か、愛でるためだけに作られた飾りの小鳥として見ている眼差し。その歪んだ「狂愛」の冷たさに、リコリスの心臓が不快な警鐘を鳴らす。
「どうして……どうして私をここへ? ルシフェルは……私の幼馴染はどうなったの!? あの人をどうするつもりなの!?」
リコリスの叫びに、ルシファーの眉が微かに動いた。
「ルシフェル」という名を口にした瞬間、男の瞳の奥で漆黒の魔力が渦を巻く。
「……ルシフェルか。片腕を失いながらも、無様に這いずり回っている虫ケラのことだな」
ルシファーは微笑を崩さぬまま、静かに語りかけた。
「安心するといい。あの男は間もなく命を落とす。私に辿り着くことすらできず、己の身に宿る呪いに焼き尽くされてな。……だが、それでお前が悲しむ必要はない。泥の中で死にゆく者に執着するのは愚かだ。お前はこの清浄なる城で、私と共に永劫の時を過ごすのだから」
「そんな……嘘……! ルシフェルが死ぬはずがない! あのアナタたちなんかに、ルシフェルが負けるはずがないわ!」
リコリスは拒絶するように首を振り、ルシファーの手を拒もうと振り払った。
パチン、と乾いた音が部屋に響く。
リコリスの細い手が、ルシファーの指先を弾いたのだ。
一瞬の静寂。
部屋の空気が凍りつき、気圧が一気に下がったかのような錯覚がリコリスを襲った。ルシファーの表情から笑みが消える。ただ無の瞳が、自分を拒絶した少女の手を見つめていた。
「……気性が荒いな。だが、それもまた愛くるしい」
ルシファーは何事もなかったかのように再び微笑むと、リコリスの細い手首を優しく、しかし絶対に逃げられない力加減で掴んだ。
「焦ることはない。時間は無限にあるのだ。お前がそのちっぽけな執着を捨て、私だけを見つめるようになるまで……いくらでも待とう」
ルシファーは立ち上がり、リコリスに背を向けた。
「ネビロスの実験場が潰されたと報告が入っている。ルシフェルが足掻けば足掻くほど、あの男の肉体と精神は黒く染まり、壊れていく。……お前も祈るといい。あの男が少しでも長く、私を楽しませてくれることをな」
重々しい扉が閉まり、ルシファーの姿が消える。
静寂が戻った豪華な部屋で、リコリスは抱え込んだ膝に顔をうずめた。
首輪のルビーが、まるで魔王の冷たい視線のように、闇の中で怪しく紅い光を放ち続けていた。
「ルシフェル……お願い……生きて……」
少女の届かぬ祈りが、黒き城塞の闇へと静かに溶けていった。




