第4話:ハーフエルフの姫(第1編/全5編) 【視点:ノエル(ハーフエルフの姫)】
第4話:ハーフエルフの姫(第1編/全5編) 【視点:ノエル(ハーフエルフの姫)】
【1】
「ノエル様、足元にお気をつけくだされ。この先の傾斜は昨日までの泥が残っていて滑りやすい」
「ええ、ありがとうございます、シバリア。でも、私は大丈夫ですよ」
木々が少しずつ疎らになり、背の高い岩肌が見え隠れし始めた森の山道を、私たちは東へ向かって歩き続けていた。 頭上を覆っていた鬱蒼とした枝葉の間から、穏やかな昼の陽光が差し込んでくる。
私たちの少し前方を、無言で歩く青年の背中があった。 ルシフェルさんだ。
彼の立ち姿は、一見すると異様だった。 本来なら右腕があるべき場所——手首を粉砕され、完全に動かなくなった右腕は、厚い布切れによって彼の胸と胴体に固く縛り付けられている。 右手を使えないという偏りを打ち消すかのように、彼の歩みは静かで、驚くほど軸がぶれない。足音がほとんど響かないその歩行は、森を行く野生の獣や、訓練し尽くされた暗殺者のそれにも似ていた。
(本当に……不思議な方……)
私は歩幅を合わせながら、ルシフェルさんの背中をそっと見つめた。
今朝、彼に施した回復魔法『ル・ヒール』の効果は、すでに切れかけているはずだ。 後頭部の傷や打撃痕の痛みは和らいだとはいえ、砕けた手首の激痛や、体力の消耗は計り知れない。普通の人ならとっくに悲鳴を上げて崩れ落ちていてもおかしくないはずなのに、彼は眉一つ動かさず、黙々と東を目指して足を動かし続けている。
「……何か、私の顔についているでしょうか」
ふいに、ルシフェルさんが立ち止まり、振り返った。 前髪の隙間から覗く、冷ややかに澄んだ茶色の瞳。
「あ……ごめんなさい! 見つめるつもりはなかったのですが……傷は痛んでいませんか? もし辛いようでしたら、少し木陰で休息を——」
「必要ない。……この程度の痛みは、歩みをとめる理由にはならない」
ルシフェルさんは素っ気なくそう言うと、すぐに視線を前方へと戻した。 その声には、一切の強がりや虚飾が含まれていなかった。ただ事実として「耐えられるから進む」と言っているのだと分かってしまう。
「ノエル様、放っておきなされ。このお兄さんは筋金入りの頑固者だ。下手に心配すると煙たがられますぞ」
後ろを歩くシバリアが、背中の大剣を軽く揺らしながら苦笑交じりに言った。
「シバリア、そんな言い方は失礼ですよ」
私が窘めると、シバリアは髭を蓄えた口元を緩め、どこか懐かしむような目でルシフェルさんの背中を見た。
「いやなに、昔の自分や、かつて盗賊時代に見てきた『背退けない奴ら』の顔を思い出しましてね。大切なものを奪われ、後がない人間の顔ってのは、みんないい意味でも悪い意味でも似てくるもんです」
【2】
「……大切なもの、ですか」
シバリアの言葉が、私の胸の深くに静かに染み渡っていく。
私は歩きながら、自身の懐に秘めた小さなペンダントにそっと手を触れた。 ハーフエルフ——人間とエルフという、決して交わることのない二つの種族の間に生まれた存在。
幼い頃の私にとって、世界は冷たく理不尽なものだった。 人間の街へ行けば「穢れた耳を持つ異形」として石を投げられ、エルフの郷へ足を運べば「純血を汚した不浄の仔」として冷眼に晒された。 父も母も幼い頃に立ち去り、私は小さな王国の片隅で、隠されるようにして育った。
「ハーフエルフの姫」という立場も、名ばかりのものだ。 王国が権力闘争と魔族の侵攻によって崩壊した時、私を助け出してくれたのは、元盗賊でありながら城の護衛隊長を務めていたシバリアだけだった。
国を失い、居場所を奪われ、世界中から拒絶される痛み。 だからこそ、私はルシフェルさんの瞳に宿る「黒い熱」の意味が、痛いほど理解できた。 彼もまた、平穏だった日常を理不尽に焼き払われ、大切な人である「リコリス」という少女を奪われ、右腕という身体の一部まで打ち砕かれたのだ。
(私には、世界を変えるような強い魔法も、シバリアのような強大な剣技もありません……)
けれど。 打ち打ちの絶望の中で、なおも立ち上がろうとする誰かの傍らに寄り添い、その傷を癒やすことならできる。 それが、ハーフエルフとして生まれ、世界に拒絶され続けた私が、この旅で見出したい「私の存在理由」なのかもしれなかった。
「ノエル様、あそこに小川がありますぞ。少し水を補給していきましょう」
シバリアが指差した先には、岩肌を滑るように清流が流れる小さな沢があった。
「ええ、そうですね。ルシフェルさん、少しだけお水を飲んでいきませんか?」
ルシフェルさんは一瞬だけ足を緩め、静かに頷いた。
【3】
清冽な水が、渇いた喉を潤していく。 ルシフェルさんは左手で水筒をすくい、淡々と口に含んでいた。 右腕を固定したままのその動作には、相変わらず無駄がない。
「ルシフェルさん……一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
私は水筒を置き、思い切って彼に問いかけた。
「何でしょうか」
「あなたのその剣技……先ほどの戦いで見せた、あの凄まじい刺突と身のこなしについてです。シバリアも驚いていました。村人であったあなたが、どうしてあれほどの技を振るえるのですか?」
ルシフェルさんは左手の水筒を静かに置くと、沢の透明な水面に映る己の顔をじっと見つめた。 その瞳には、彼自身すらも完全には割り切れていないような、遠く深遠な光が宿っていた。
「……自分でも、上手く説明できるわけではない」
ルシフェルは静かな声で語り始めた。
「昨夜、村が燃え、俺は手首を握り潰されて絶望の中で気を失った。その深い闇の中で……俺は見たんだ。見たこともない遠い異国の雨の中、病に侵され、右腕を斬られながらも刀を振るい続けていた一人の剣士の姿を」
「異国の……剣士……?」
私が首を傾げると、後ろで水を含んでいたシバリアも、興味深そうに耳を傾けた。
「彼の名は、沖田総司といった。……死の直前、右腕を失った極限の状態で彼が到達したという剣の記憶と、この世界で俺に目覚めた『天稟』という力が混ざり合い、俺の左腕を動かしている」
ルシフェルさんは左手をゆっくりと開いて、握りしめた。
「俺自身の力ではない。……前世の天才が残した無念と、その技術を、俺は借りているだけに過ぎない」
彼の言葉は、あまりにも途方もなく、一見すれば夢患者の戯言のように聞こえたかもしれない。 だが、私には分かっていた。 彼から漂うあの「死生観」と、一度の刺突で三つの穴を穿つという物理を超えた神業。それは、生半可な修練や嘘から生まれるものでは絶対にあり得ないということを。
「借り物だろうと何だろうと、構いません」
私はルシフェルさんの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「その技が、あなたを絶望から救い上げ、大切な人を取り戻すための力になっているのなら……それは間違いなく、今のあなたの『翼』です」
ルシフェルさんは一瞬だけ目を見開き、それから素っ気なく視線を逸らした。
「……甘いな。これは翼などという温いものではない。ただの……泥を這うための刃だ」
そう呟きながらも、彼の前髪に隠された表情が、ほんのわずかに和らいだのを、私は見逃さなかった。
「さあ、行きましょう。東の山脈は、まだ遠いです」
ルシフェルさんは立ち上がり、再び白銀の気配を秘めたボロ剣の鞘を握り直した。 ハーフエルフの私と、元盗賊のシバリア、そして片腕の天才剣士・ルシフェルさん。 歪んだ世界の中で出逢った私たちの旅は、少しずつ、しかし確かな絆を育みながら、さらなる深遠へと歩みを進めていくのだった。
(第4話・第1編 完 / 第2編【視点:シバリア(大剣士)】へ続く)




