第3話:滅びの森の遭遇(第3編/全5編
)
【視点:ルシフェル】
【1】
(視線がブレる。呼吸を乱すな……踏み込みの軸は、左足の裏だ)
ルシフェルの意識は、過酷な肉体の激痛とは裏腹に、驚くほど冷徹に研ぎ澄まされていた。
大頭部からの出血、みぞおちを穿たれた打撃の残り傷、そして身体の側腹へ冷たく縛り付けられた、動かない右腕。
ノエルの施してくれた回復魔法『ル・ヒール』によって、失血による最悪の昏睡からは脱したものの、肉体そのものが悲鳴を上げていることに変わりはない。
先ほどまで泥の中で途絶えかけていた歩み。
しかし、眼前でノエルに向かって急降下する魔族の殺気を感じ取った瞬間、ルシフェルの身体は思考よりも速く跳ね起きていた。
頭蓋の奥に刻まれた、新選組一番隊組長・沖田総司の死生観と身体操作。
『病で体が動かぬなら、刃筋に全神経を乗せればいい』
雨の京都で散っていった天才剣士の記憶が、ルシフェルの左腕の筋肉と骨格を完璧に統御していく。
「死ねやァァッ、ハーフエルフの小娘がぁッ!!」
頭上から襲いかかるインプの急襲。
大柄な男——シバリアが大剣を振り上げる動作が、ルシフェルの見切りの中ではあまりにも大振りに見えた。
重厚な大剣ゆえの、コンマ数秒のラグ。その隙を突いて魔族の鉤爪がノエルの細い首元へ届こうとしている。
(間に合わない。……だから、俺が切る)
ルシフェルは左足の一歩を、滑るように地へと踏み込んだ。
右腕を胴体に固く縛り付けているため、身体の重心は大きく左へと偏っている。普通であればバランスを崩して倒れる立ち姿。
しかし、ルシフェルはその「偏り」を逆手に取り、左半身の軸をコマのように高速回転させる推進力へと変換した。
シバリアの脇を、風を切る音すら残さずにすり抜ける。
「なっ——!?」
シバリアの驚愕のつぶやきが耳を掠める。
ルシフェルは左手に握る「古びた鉄の剣」を、最小限の予備動作で深く引き絞った。
泥と黒錆に覆われていたはずの刀身が、ルシフェルの魂の熱と『天稟』の才に反応し、じわりと白銀の脈動を放ち始める。
「……そこを動くな」
低い呟きとともに、ルシフェルは左手の一刀を、空間の直線へと解き放った。
【2】
——『天稟・無明突き』。
ドスッ、ドスッ、ドスッ!!
空中で三連の重厚な打撃音が、ほぼ同時に一つの音となって森に引き裂かれた。
「ガッ、……ぁっ!?」
ノエルの首元まで数センチに迫っていたインプの動きが、空中盤で唐突に完全停止した。
インプの歪んだ眼球が、何が起きたのか理解できずに大きく見開かれる。
ルシフェルの左手から放たれたのは、ただの一刺しに見える白銀の閃光。
しかしその実態は、同一の不可視のラインを正確になぞり、物理的な限界を超えた速度で繰り出された超高速の三連突刺だった。
一番目の突きが、空中を裂いてインプの右眼を穿つ。
二番目の突きが、悲鳴を上げる間もなく喉笛を破壊する。
三番目の突きが、胸腔を貫き、奥にある心臓を的確に押し潰す。
「カハッ、……あ……」
白銀の光がインプの背中へと突き抜け、黒い魔力の飛沫が空中に散った。
爪がノエルの肌をかすめることすら許さず、インプの肉体は力なく宙で折れ曲がり、ドサリと足元の腐葉土の上へ叩きつけられた。
貫かれた傷口から黒い煙が上がり、骸は急速に灰となって崩壊を始めていく。
「な、なんだ……いまの刺突は……!?」
後ろで大剣を構えていたシバリアが、息を呑んで絶句した。
大剣の振り上げを途中で止めたまま、目を見開いてルシフェルを見つめている。
一瞬の出来事だった。片腕を縛り付け、ボロボロの服を着た青年が、自分よりも疾く踏み込み、空中を舞う魔族の急所を三度同時に穿ったのだ。
ノエルもまた、腰を抜かしかけた体勢のまま、驚きと呆然が混ざり合った瞳でルシフェルを見上げていた。
「大丈夫ですか」
ルシフェルは振り向きもせず、冷ややかにノエルへ問いかけた。
その構えは、依然として左半身を前に出し、白銀の刃先を残る二匹のインプへと向けたまま、微動だにしない。
「は、はい……! ありがとうございます、助けていただいて……!」
「礼には及ばない。……まだ、片付いていない」
ルシフェルの前髪の隙間から覗く茶色の瞳が、上空の枝々で凍りついている残りの二匹のインプを鋭く射抜いた。
【3】
「ヒィッ……! な、なんだあいつは! 一瞬でズーガが殺されたぞ!?」
「手首が潰れてる人間だろ!? なんであんな速度で剣が振れるんだよケヒヒッ! 狂ってやがる!」
樹上で背中の棘を逆立て、二匹のインプがガタガタと爪を鳴らして怯えていた。
下級魔族とはいえ、彼らの動体視力をもってしても、いまルシフェルが放った一撃の軌道が見えなかったのだ。
ただ白銀の光が走ったと思った瞬間には、同胞の心臓が撃ち抜かれて即死していた。
「ひるむな! 上と左右から挟み撃ちだ! いくら手練れでも、片腕の人間なら死角を突けば殺せるァッ!!」
二匹のインプは恐怖を掻き消すように奇声を上げ、左右へと散った。
一匹は樹木を蹴って左側からの曲撃、もう一匹は上空へ跳躍し、ルシフェルの死角である右側——動かない右腕の側から鋭い爪を振りかざして死の包囲網を敷く。
完璧な挟撃。片腕を奪われた剣士にとって、右側の死角は絶対に防げない致命的な穴のはずだった。
だが。
(右側……死角。沖田の記憶においても、右腕を斬られた後に何度も狙われた筋だ)
ルシフェルの頭脳は、恐ろしいほどの静寂を保っていた。
視界の世界から音が消える。
左右から迫るインプの動き、筋肉の収縮、空間を滑る爪の角度。そのすべてが、まるで止まった絵画のように緩やかにルシフェルの脳内で展開される。
(右が死角なら、最初から身体ごと左へ旋回させればいい)
ルシフェルは右側の死角を回避しようとはしなかった。
むしろ、死角である右側から襲いかかるインプの爪を引きつけるだけ引きつけ、肉迫したコンマ一秒の瞬間に、左足を軸にして身体をくるりと反時計回りに半回転させた。
旋回。
右腕のない右半身を空転させて敵の爪を空切らせ、反転した推進力をそのまま左手の一刀へと乗せる。
——『天稟・二重閃』。
白銀の刃が、美しい円弧を描いて夜の森を切り裂いた。
「ガハッ……!?」
「ギャァァッ!?」
すれ違いざま。
左側から迫っていたインプの首元と、右側から死角を突いたはずのインプの胸板が、一滑りの白銀の閃光によって同時に深く斬り割られた。
白銀の光芒が空中に一閃の軌跡を残し、二匹のインプは悲鳴を上げる間もなく交差するように交わり、地面へと叩きつけられた。
ドサドサッ……と重い音が響き、二匹の骸はみるみるうちに黒い灰となって風に散っていく。
ルシフェルは左手の一刀を静かに引き戻すと、刃先に残るわずかな魔気の残滓を、手首の一振りで払った。
白銀の光芒がすっと潜み、ボロ剣は再び静かな鈍色へと戻る。
ルシフェルは息を乱すこともなく、静かに右足を揃えた。
その背後で、大剣を握ったまま固まっていたシバリアと、手を胸元に合わせたまま絶句しているノエルの視線が、ルシフェルという青年の存在に釘付けになっていた。




