エピローグ 『夢の続き、二人だけの新しい朝――魔女の遺言は終わらない』
――そこは、懐かしい匂いがした。
陽だまりの匂い。淹れたての紅茶の香り。
そして、大好きな人の、甘い香水の香り。
私は、目を覚ます。
身体が軽い。ずっと付き合ってきた、老朽化と損傷による違和感もない。
自分がどこにいるのか、一瞬分からなかった。
目の前には、白いレースのクロスが掛けられた丸テーブル。
その上には、湯気を立てるティーカップと、焼きたてのスコーンに木苺のジャムが並んでいる。
そして、向かい側の席には。
「……遅かったわね、レティ。待ちくたびれたわ」
頬杖をついて、悪戯っぽく微笑む女性がいた。
ハーフアップにした、腰下まである白銀の髪。
宝石のような蒼銀の瞳。
私が最も愛し、私を最も愛してくれた、大人な彼女。
「レナ……?」
私は、席を立つことも忘れ、呆然と彼女を見つめる。
「ふふ。随分とボロボロにされちゃって。……私の大事な人形をいじめるなんて」
彼女は、テーブル越しに手を伸ばし、私の頬に触れた。
透き通るような、温かい指先。
幻影ではない。夢だとしても、これは限りなく現実に近い何か……。
「申し訳、ありません……」
自然と、謝罪の言葉が口をついて出た。
「お護りすると誓ったのに。貴女の最期を看取る事もできずに、私は……先に、壊れてしまって」
「謝らないで。貴女は、立派に果たしてくれたわ」
彼女は首を振る。
その瞳には、慈愛だけが湛えられている。
「見てごらんなさい」
彼女が指差す先。空間の一部が窓のように切り取られ、そこから『外』の景色が見えた。
七色の宝石でできた花で埋め尽くされた……繭の中?
そこで、私の身体――見た事もない七色の宝石。彫像となった抜け殻の私に抱きかかえられて、安らかに揺蕩う青白い燐光。
「あの子の……私の、魂はまだつなぎ止められている。貴女が命を懸けて、魂を燃やして繋いだ未来よ」
レナは、愛おしそうに外の景色を眺める。
「あの子が願ったの。『愛してる』『いかないで』って。……そのワガママが、貴女を繋ぎ止めた」
彼女は、テーブルの上に置かれた小さな桜色のキャンディーを指差した。
アドラが残した、夢の結晶。
「あの子はね、選んだのよ。聖女として世界に縛られる運命よりも、ただの人間として貴女と生きることを」
レナは、自らの喉元に手を当てる。
かつてそこに在ったはずの『聖核』――神との契約の証は、きっと、もうない。
「聖核は砕け、私の願いを宿した夢の結晶、そして貴女が紡いだ私との記憶と混ざり合って、貴女の。いえ、貴女と私の、新しい心臓になった」
彼女は立ち上がり、私の隣に来る。
そして、後ろから私の肩を抱いた。
「もう、私の時間で動くお人形ではなくなるの。貴女は、貴女自身の命で動くのよ」
「……それでは、貴女は……レナは!」
私は、彼女の手を握り返す。
「レナは――消えてしまうのですか? 記憶も、聖女としての力も、全て失って……」
「いいえ」
彼女は私の耳元で囁く。
「私は、ここにいるわ」
彼女の手が、私の胸――魔核が収められるべき場所へと滑る。
かつて遺跡で彼女の指が撫でさすり、宝石継ぎをしてくれた、七色の透かし。
「貴女の中に。……貴女が私を忘れない限り、私は永遠に、貴女の一部として生き続ける」
彼女の身体が、黄金と桜色の光の粒子となってほどけ始める。
夢の終わりの時間が近づいている。
「行きなさい、レティ。……あの子が、私が、待っているわ」
「レナ……ッ!」
私は振り返り、彼女を抱きしめようとした。
だが、私の腕は空を切る。
彼女はもう、光の中に溶けていた。
残ったのは、空中に漂う、最後の言葉。
『愛してるわ、レティ。……今度は、あの子を幸せにしてあげてね』
「……はい」
私は、涙を拭った。
「行って参ります。……私の、愛しい人」
光が弾け、世界が白に染まる。
◇ ◇ ◇
澄んだ音が、深海に沈む図書館の静寂を破った。
七色の花々で編まれた繭に、亀裂が走る。
その中ではいつの間にか、赤子――レナータ様が、確かに存在していた。
すやすやと眠る、白銀の髪の女の子。
ビクリ。
ゆっくりと青銀色の瞳が、開かれる。
「ぁーぅ……?」
彼女は、目の前の宝石の彫像を見上げる。
亀裂から、桜色の光と、黄金の輝きが溢れ出す。
パリン!
宝石が砕け散る。少しずつ、剥がれ落ち、光の粒子となって舞い上がる。
やがて、七色に輝く宝石の彫像の中から、一人の女性が姿を現した。
漆黒の髪は艶やかに流れ、深紅の瞳は星のような輝きを宿している。
ズタズタだった黒と赤のゴシックドレスは再構成された。
ほんのりと透ける、漆黒と深紅の宝石を編み上げたような、繊細で、しかし鋼よりも強靭な、新たなドレスへと生まれ変わっていた。
体中に走る肌の宝石継ぎの跡はそのままに、しかし、内部機構は極めて快調。
人形の身体はそのままに、陶器のように硬かった肌が、今は透けるように白く潤いに満ちている。
唯一、失われていた右腕は、白く透き通るような七色にうっすらと輝く宝石で再生され、指先には桜色の光が宿っている。
――私は、ゆっくりと目を開けた。
視界がクリアだ。
違和感もない。
胸の奥の魔核……だろうか? なにかが、力強く脈打っているのが分かる。
それはもう、誰かの寿命を喰らった、呪いの炉ではない。
神に授けられた力と、世界をも変える夢の力。
相反する二つを、愛で繋いだ、永久機関。
さらに、この胸の内に感じる鼓動は――私一人の鼓動ではなく。
「……あ……あー!」
レナータ様が両手を伸ばしている。そっと、その確かな重みを胸の中に抱きしめる。
その温もり。重み。ミルクの匂い。
全てが愛おしい。
「おはようございます、レナータ様」
私は微笑む。
人工的な笑顔ではない。心からの、自然な笑みがこぼれる。
「ま、ま!」
彼女は私の首に抱き着き、嬉しそうに頬ずりをする。
「はい。……ただいま戻りました」
私は、彼女を強く抱きしめ返した。
終わったのだ。
長い逃避行も。死の、消滅の運命も。
私たちは生き残った。
「……起きましたか」
不意に、声がかかった。
私は顔を上げる。
ホールの入り口、どこからか持ち込んだらしい、机と椅子。床まで山積みにされた本に、保存食。
真っ白のドレスアーマーを着込んだ、黄金の髪に縁どられた、白い影があった。
オルドリア。
彼女は、私たちを待っていたのだ。
冷淡な表情か、歪んだ嗜虐心で覆い隠していたその表情は今、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……随分と、長い昼寝でしたわね」
「オルドリア……」
私は立ち上がる。警戒はない。彼女からはもう、あの焦げ付くような殺意は感じられない。
「貴女は……どうして」
「勘違いなさらないで」
彼女はフンと鼻を鳴らし、立ち上がった。
足元には、彼女の騎士剣が鞘に放り込まれたまま、転がっている。
「ただ、見届けたかっただけです。私が――負けた相手が、本当に目覚めるのかを」
彼女は私を見て、そして腕の中の赤子を見た。
その瞳が一瞬、和らぐ。
「……聖核は消えました。その赤子はもう、ただの人間。教会が血眼になって探す価値もない。そうでしょう?」
「ええ。そうです」
「なら、結構ですわ」
彼女は足元の剣を拾い上げた。構えるためではない。腰に収めなおすために。
「まあ、こんな事を聞いておいてなんですけれど、報告をしようにも、そもそも連絡が取れません。私も、身を隠します。十分に使い走りはして差し上げたでしょう。退職金をたんまりいただきたいくらいです」
それは、完全な決別宣言だった。
彼女は、第一管理塔、白亜の大聖堂を。現世界の支配組織を、これまでの自分を、裏切ることを選んだのだ。
「……良いのですか? 管理の外の世界は決して住みやすい場所では」
「あの。私は元棄民の子ですよ?」
彼女は可笑しそうに笑った。
「誰が戻るものですか。……首輪のない犬は、野良犬になるしかありませんわ」
彼女は首元をさする。
そこには、うっすらと絞められた痕と、微細な文様の形をした、おそらく火傷の痕跡がまだ残っているが、それを隠そうともしない。自由の代償として、誇らしげに晒している。
「私は行きます。……世界は広いのです。どうとでもしますわ」
「あの子……ミアは?」
「……さあ。もし縁があれば、迎えに行ってさしあげます」
彼女はぶっきらぼうに言い、背を向けた。
だが、その背中は、以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
「レティシア」
去り際に、彼女が立ち止まる。
「礼は言いませんよ? ……そ、それに。どさくさに紛れて、あ、あんな――初めてだったのに」
ぽつりとつぶやいた最後の言葉はよく聞き取れなかったけれど、ほんのり赤く染まった美貌はとても、とても印象的だった。
それから。
彼女は振り返らずに、片手を軽く上げた。
「達者で。……幸せになりなさいね? ポ・ン・コ・ツ」
「……貴女も。壮健で、オルドリア」
彼女の姿が、扉の向こうへと消えていく。
彼女もまた、新しい旅を始めるのだろう。
今度こそ自分の意志で選んだ、自分の道を。
「あー、ぁー」
レナータ様が、去っていくオルドリアに向かって手を振っている。
「ばいばい、ですか?」
「ぁーうぅーぅ」
私たちは、静かになったホールに残された。
心音の無い赤子。
けれどその鼓動は私の中に、確かに息づいている。
さて。
私たちも行かなければ。
ホール中央の祭壇に現れていた転移陣へと歩み寄る。
ダンジョン、という名目できっと、アドラとリネアが用意してくれた出口。
巨大な魔法陣が輝きだす。
その光は、どこに繋がっているのか分からない。
きっと、誰も私達を知らない、静かで自由な場所へ。繋がっているのだろう。
「お嬢様」
私は、腕の中の小さな命を見つめる。
彼女には、もう記憶はない。
私たちが乗り越えてきた苦難も、交わした言葉も、誓いも。
全て忘れて、真っ白な状態で、ここから始まる。
寂しくないと言えば、嘘になる。
けれど。
「新しい旅の始まりですよ」
「たび!」
レナータ様は、意味も分からず復唱して笑う。
その笑顔があれば、どこへだって行ける。
思い出は私の胸の中に。
そして未来は、蒼銀の瞳の中に。
光が私たちを包み込む。
私は、レナータ様を抱いたまま、光の中へと一歩を踏み出した。
さようなら、優しくて残酷な世界。
そして、こんにちは。
二人だけの、新しい朝。
――光を抜けると、そこは柔らかな風が吹く丘の上だった。
足元には、青々とした草原が広がり、名もなき小さな花々が風に揺れている。
頭上には、どこまでも高く、澄み渡る青空。
遠くには、穏やかな海がキラキラと陽光を反射しているのが見えた。
ソーダ水の海ではない。
磯の香りがする、ありふれた、けれど懐かしい海。
「……着きましたよ」
私は、腕の中のレナータ様に囁く。
彼女は眩しそうに目を細め、それから、パァッと笑顔を咲かせた。
「あー! あー!」
小さな指で、空を指さす。
雲が流れていく。鳥が鳴いている。
世界は、こんなにも美しかったのか。
私は、深く息を吸い込んだ。
胸の奥の鼓動が、心地よいリズムで脈打つ。
もう、焦る必要はない。追われることも、戦うことも、失われていく時間を気に病むこともない。
ここからは、私たち二人だけの時間が、続いているのだから。
◇ ◇ ◇
それから、月日が流れた。
世界の片隅。地図にも載らない小さな岬に、一軒の家がある。
白い壁に、赤い屋根。
庭には色とりどりの花が咲き乱れ、窓辺にはいつも磨かれたガラス瓶が置かれている。
開け放たれた窓からは爽やかな風がそよそよと吹いている。
「レティ~! まだぁ?」
庭から、元気な声が響く。
私は、キッチンの窓から顔を出した。
「もうすぐですよ。手を洗って待っていてください」
「はーい!」
返事をして井戸の方へ走っていくのは、五歳になったレナータだ。
白銀の髪は背中まで伸び、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
その背中にかつての聖女の面影を見ることは、もうない。
彼女は、ただの元気な女の子だ。
花に見とれて転んでは泣き、素敵なお洋服でくるくると回って微笑みを振りまき、お腹が空けば機嫌が悪くなる。
私は、ボウルの中の生地をかき混ぜる。
小麦粉、卵、砂糖にバター、そしてたっぷりのミルク。
甘く、優しい香り。
フライパンを火にかけ、薄く油を引く。
ジュッ。
生地を流し込むと、甘くて上品な香りが立った。
おたまで薄く延ばし、きつね色になるまで焼く。
「……上手く焼けました」
頷きを一つ。私は満足げに呟く。
この数年で、私の料理の腕は格段に上がった。
戦闘機能ばかりだった身体も、今ではすっかり『お母さん』仕様に馴染んでいる。
右手を見る。
上品な虹色に輝く、透き通った素材で再構成された腕は、以前の陶器のように滑らかな腕よりもさらに、ずっと繊細な作業ができる。
宝石継ぎが施された身体も、万全。今はただの装飾として、この人肌の温もりすら宿した人形の身体を彩っている。
彼女の髪を結ぶことも、服のボタンを留めることも、こうして料理をすることも。問題ない。
全ては、彼女を愛するために。
「ただいまー!」
レナータが、バタバタと家に入ってきた。
「わぁぁ、いいにおい!」
彼女はテーブルにつき、目を輝かせる。
私は、焼きあがったばかりのクレープを皿に乗せ、彼女の前に置いた。
中には、庭で採れた木苺と、たっぷりのカスタードクリーム。
さらに上にはホイップクリームをちょんちょん、ちょんっと。
「はい、どうぞ。慌てないのですよ?」
「いただきまーす!」
彼女は大きな口を開けて、クレープにかぶりつく。
「ん~! おいしぃ~!」
頬っぺたを膨らませて、満面の笑み。
鼻の頭に、クリームがついている。
「ふふ。あわてんぼうさんですね」
私はハンカチで、彼女の口元を拭ってあげる。
その瞬間、デジャヴのように、過去の記憶が蘇った。
復興途上の城塞都市。
泣きながらクレープを食べた、十三歳の彼女。
『平和になったら、またここでクレープを食べましょうね』
あの日の約束。
場所は違うけれど。彼女の記憶はないけれど。
約束は、果たされた。
「レティもたべて!」
レナータが、食べかけのクレープを差し出してくる。
「ほら、あーん」
「……ありがとうございます」
私は屈みこみ、一口いただく。
甘酸っぱい木苺の味。全体的に甘さが強めなのは今の彼女の好み。もうしばらくしたら、カスタードの甘さを控えめに、酸味を引き立てるようにする方が良いかしら。そんなことを考えながら味わう、彼女の優しさの味。
「どう? おいしい?」
「ええ。……世界で一番、美味しいです」
私が答えると彼女は、
「えへへ」
と照れくさそうに笑った。
平和だ。
窓の外では、小鳥がさえずり、陽光が降り注いでいる。
けれど世界では、今度は新たな争いが生まれている。
第一管理塔崩壊。その知らせは私の耳にも届いた。
いつの間にか、白亜の大聖堂は、お菓子のお城に建て替えられていたらしい。
けれど、住民には何の影響もなかったとか。
まあ、実際は再建や混乱で大変だったのだろうけれど……そこまではよく知らない。
六の管理塔の間の、力の天秤も傾きが変わり、新しい秩序と支配が生まれようと、胎動を繰り返している。
またどこかの空の下では、自由になった白い騎士が、剣を振るっているのかもしれない。
けれど今、ここにあるのは、ただ穏やかな日常だけ。
「ねえ、レティ」
食べ終わったレナータが、私の膝に乗ってきた。
「なぁに?」
「レティは、ずっといっしょだよね?」
彼女は、私の胸――古代魔導人形の魔核ともまた違う、とても、とても特別な鼓動が聞こえる場所に、耳を当てる。
二人分の鼓動が聞こえる、胸の内。
その問いかけは、かつて七歳に戻った彼女が、不安げに尋ねた言葉と同じだった。
だけど今は、不安なんて微塵もない。
確信に満ちた、甘えるような響き。
私は、彼女の白銀の髪を優しく撫でる。
「はい」
私は答える。
ありったけの愛を込めて。
「ずっと、ずっと一緒ですよ。……私の、愛しいお嬢様」
レナータは嬉しそうに笑い、私の首に腕を回した。
柔らかい風が吹き抜け、テーブルの上の白いレースを揺らす。
陽だまりの中で、私たちは抱きしめ合う。
これは、終わりの物語ではない。
魔女の遺言から始まり、絶望の旅路を越えてたどり着いた、二人だけの永遠の愛の物語。
「大好き、レティ」
「私もです。……愛しています、レナ」
「ん……わたしも、愛してる。絶対に、レティを泣かせたりしない」
その言葉は、風に乗って空高く舞い上がり、どこまでも広がる青空へと、溶けていった。
――「ところで、いつまで私を娘扱いするの? 私の可愛い、ぽ・ん・こ・つちゃん?」




