第75話 掌の竜と紅茶の午後
――日本時間・夜。
救護課の休憩室。
夜勤の静けさの中、照明はやや落とされ、机の上のノートPCだけが柔らかく光っていた。
その画面の向こうには――満面の笑みのシャーロット・ハワードの姿があった。
『先生っ! ちょっと! SNSで見たんですけど、これ本当ですの!?』
「え、なにが?」
『“掌サイズの竜を飼い始めた”って!』
「……飼ってません。共生してるんですよ」
『共生!? どういう意味ですの!? ちょっと見せてくださいまし!』
観念して、莉理香は苦笑しながら掌を差し出した。
そこに、白銀の小竜――ラギルがふわりと乗る。
カメラの前でくるりと一回転し、尾を揺らして堂々と一礼した。
『――む。久しいな、シャーロット・ハワード。
“いんすたぐらむ”によると、そなたは最近、紅茶の消費量が増えておると聞いておるぞ』
『ひっ!?!? な、ななな何でそれを!?!?』
シャーロットが素で悲鳴を上げた。
莉理香は片手で額を押さえ、諦めたように笑う。
「……えー、最近ずっと見てるそうですよ」
『そうだ。そなたが莉理香に紅茶を贈った時も、我は一緒に受け取っておる。
あと、兄上のアレクシスはあの時――』
「ラギル、黙って!!!」
即座に封じられる。
画面の向こうではシャーロットが真っ赤になって両手で顔を覆っていた。
『な、なな……なにその情報力!?!? え、え、先生、この子、本当に生きてるんですの!?』
「はい。理屈はあとで説明しますけど、触るとふわふわですよ」
『ふわふわ……!? そ、それ……触ってみたいですわ!!』
少女の瞳がキラキラと輝いた。
莉理香は、その反応を予想していたかのように小さくため息をつく。
「……あぁ、やっぱり言うと思った」
『え? まさか……』
「はい、ちょっとそっちに行きますね」
言うが早いか、莉理香は指を鳴らした。
休憩室に淡い風が吹き、画面の光が彼女を包む。
次の瞬間、カメラ越しのロンドン――ハワード邸のリビングに、
清らかな気流が駆け抜けた。
「――お待たせしました」
白い光が収束し、そこに現れたのは、
救護課の制服姿のままの桐嶋莉理香。
その肩に、ちょこんと小竜ラギルが乗っている。
『きゅうっ』
「ひゃああああああ!?!? 本当に来ましたのね!?」
シャーロットがソファの上で跳ね上がる。
驚きのあまり、手に持っていたティーカップが宙を舞い――
風がふっと流れた。
ティーカップは空中で静止し、再びシャーロットの手元へと戻る。
「ごめんなさい、驚かせちゃいましたね」
莉理香が申し訳なさそうに微笑む。
シャーロットは胸を押さえ、まだ動悸の収まらない様子で息を吐いた。
「い、いえ、そんな……! びっくりしましたわ……!」
『ふむ。驚くのも無理はない。
“リリカ”の転移をこの目では初めて見たが、
――以前よりも滑らかになった。風の流れが美しいな』
小竜が誇らしげに頷く。
莉理香は軽くラギルの頭を撫でた。
「ありがとう。精度、上がったかもね」
その様子を、ソファに座ったシャーロットがうっとりと見つめていた。
彼女の瞳には、もはや恐れも驚きもなく、純粋な憧れだけが映っている。
「……先生、本当に、まるで夢を見ているようですわ。
あの時“神話みたい”って思いましたけど……今はもう、それ以上です」
莉理香は小さく笑った。
彼女の横で、ラギルが誇らしげに胸を張る。
そんな軽口が交わされる中、
ハワード邸の空気は不思議なほど柔らかく、温かかった。
――神話の存在が、こうしてティータイムに現れる。
その光景が“奇跡”としてではなく、“日常”として受け入れられていることが、何よりも特別だった。
そのとき――。
廊下の向こうから、軽やかな足音が近づく。
次いで、上品な声が響いた。
「あら、またオンライン茶会かしら?」
現れたのは、キャサリン夫人。
絹のようなブロンドの髪を優雅に束ね、トレイを片手に微笑みながら入ってくる。
「まぁ……桐嶋さん、いらしてたのね。
そして……まぁまぁまぁ、なんて愛らしい小竜!」
『おお、キャサリン殿。その優雅な紅茶の淹れ方、実に見事である。
香りの立ち方が絶妙だ。そして――我は茶菓子を所望するぞ』
夫人は目を丸くし、次の瞬間、頬をゆるめて笑った。
「まぁ! お世辞まで覚えていますの? 可愛いだけでなく紳士なのね!」
『紳士ではなく竜神であるのだがなぁ』
「まぁ、竜神の紳士……素敵ですこと!」
「母上、さては可愛くてどうでもよくなってますね?」
シャーロットが呆れ気味に茶を啜る。
だがキャサリン夫人は、そんな言葉など気にも留めず、
テーブルの上のラギルを指先でつついた。
ラギルはくすぐったそうに尻尾を巻き、柔らかく鳴く。
『……ぬう、そなたの指先はあたたかいのう』
「まあ……!」
夫人の目が一瞬、潤んだ。
その表情は、慈しみと誇りを併せ持つ聖母のよう。
「まるで、長く旅して戻った子どもを撫でているような気分ですわ」
『……莉理香、やはりこの家の者は妙に包容力があるな。』
「ですね。たぶん、あなたが可愛いせいだと思うけど」
『儂はかわい……む、否定はできぬか』
照れ隠しのように喉を鳴らすラギル。
その様子に、ソファの隅で控えていたシャーロットが小さく手を挙げた。
「……先生、少しだけ、抱いてみてもいいですか?」
「もちろん。落とさないようにしてくださいね」
「ええ、もちろん……!」
両手でそっと包み込むと、ラギルはきゅるると鳴いて、
そのまま彼女の指に頬をすり寄せた。
『ふむ。悪くないな。おぬしの香りは花茶のようだ』
「……かわいすぎて息が止まりそうですわ」
「シャーロットさん、息はして!」
莉理香が苦笑する。
キャサリン夫人が微笑み、紅茶を注ぎ足した。
――その時。
「……おい、何の騒ぎだ?」
重厚な声が、廊下から響いた。
現れたのは、グレーのスーツを身に纏ったエドワード・ハワード伯爵。
帰国したばかりなのだろう、少し疲れた顔をしていたが、
部屋に足を踏み入れた瞬間、その表情が凍りつく。
「……竜?」
『うむ、エドワード殿。久しいな』
「……そもそも誰だお前は!!」
「ラギルです。私の……まあ、相棒みたいなものです」
『我は彼女の守護者。
実はそなたを含め、この家の者とはすでに長いつきあいでもある。
シャーロットの紅茶の好みも、キャサリン殿の読書リストも把握しておるよ』
「何だこの情報屋は!?」
伯爵が思わず後ずさる。
キャサリン夫人が微笑みながら夫の腕を取り、
まるで子供を宥めるように囁いた。
「あなた。この方が“竜光の貴婦人”の内なる声そのものなのですって。
可愛いでしょう?」
「……かわ……?」
半信半疑のまま、伯爵が目を細めてラギルを見つめる。
そして――目が合った。
『……うむ。威厳ある眉だな。血筋がよく出ておる。』
「……褒めてるのか……?」
「たぶん、褒めてますね」
『褒めておるよ。 人間の男としては上々だ!』
「……む、そう言われるのは悪くないな」
伯爵がなぜか得意げに頷いた。
シャーロットと莉理香が同時に吹き出す。
「……お父様、単純ですわね」
「ちょっと、すごいスピードで懐柔されてません?」
キャサリン夫人が微笑みながら言った。
「まぁ、竜神様に“悪くない”って言われたら、男の人は皆嬉しいものですわ」
『ふむ、心得ておるな。そなたこそ気品の化身よ、キャサリン殿。』
「まぁ……うれしい」
「……お母様、まんざらでもない顔してますわよ!」
笑いと紅茶の香りに包まれたリビング。
その中心で、ラギルが窓辺にひらりと飛び乗り、外を眺めた。
『――アレクシス殿は留守か。残念だのう。
次に会うときは、少しだけからかってやらねばな』
「やめてください、あの人真面目なんですから」
『そこが面白いのだ、わからんか?』
莉理香が頭を抱え、キャサリン夫人とシャーロットはもう笑いが止まらない。
「先生……これで兄上がいたら、卒倒してましたわね」
「でしょうね」
窓の外、ロンドンの午後の光。
ラギルの白銀の翼がきらめき、
柔らかな風がカーテンを揺らした。
その光景は――竜神と人間が肩を並べて笑う、
まるで家族写真のような穏やかな一幕だった。




