第74話 小さな竜が生まれた夜
――深夜、救護課研究室。
窓の外では雨が静かに降っていた。
庁舎の灯りはほとんど消え、残っているのは一室だけ。
青白いモニターの光が、莉理香の横顔を照らしていた。
机の上には、銀色の円環状装置。
まるで儀式具のようなそれを前に、莉理香は息を整える。
(……“実体化”なんて言葉を使う時点で、自分でもだいぶおかしいと思うけど)
小さく苦笑を浮かべながら、リングの表面を指でなぞる。
金属の縁が低く唸り、光が内側へと流れ始めた。
空気がぴり、と震える。
「……榊さん、準備できました?」
隣のモニター席で、榊が背筋を伸ばした。
カップに入れたままのコーヒーは、すでに冷えている。
「うん、出力安定したよ。
でも、本当に何するつもりなんです?」
「大丈夫です。――たぶん、かわいいです」
「かわいいって何ですか!?」
即座に返ってきたツッコミに、莉理香は小さく肩をすくめた。
唇にはわずかな笑み。
「じゃあ、いきます――」
指先が端末に触れる。
次の瞬間、装置の中央に淡い光が集まり、
空気がたゆたうように波打った。
夜空を閉じ込めたような青の渦。
光が凝縮し、やがて輪郭を持ち始める。
――ふわり。
そこに現れたのは、掌ほどの白銀の小竜だった。
柔らかな光を纏い、羽をぱたぱたと揺らしている。
瞳は深く澄んだ金色。
まるで、夜空の星がそのまま命を持ったようだった。
「……え」
榊が固まる。
小竜は首をかしげ、「きゅう」と小さく鳴いた。
その声は、驚くほど愛らしい。
莉理香は両手を差し出し、そっと受け止めた。
思ったよりも冷たくない。
掌に乗せると、ほんのり温かい。
――その鼓動は、莉理香の竜核の拍動と同じリズムで脈打っていた。
「……こんにちは、ラギル」
その名を呼んだ瞬間、
小さな竜の目がきらりと光った。
『――ふむ。ずいぶんと小さくなったものだな、我ながら』
空気を震わせるような声が響く。
だが姿はどう見ても“ぬいぐるみサイズ”。
尊大な口調と見た目のギャップに、榊は固まった。
榊は目を瞬かせた。
「……え、なに? しゃ、喋った……?」
「ええ。主記憶を仮想体に転送して、思念波を音声化しました」
「ちょ、ちょっと待って。 これ……生きてるんですか?」
「たぶん、生きてます」
「“たぶん”って何!?」
莉理香が肩を揺らして笑う。
その掌の上で、ラギルは羽を小刻みに動かしながら辺りを見回した。
『ふむ……この体は軽いな。風の流れがよくわかる。悪くない』
そう言って、彼は莉理香の指に小さく頬をすり寄せた。
体温がふっと伝わる。
「……かわっ」
榊の口から、抑えきれない声が漏れた。
「かわいい……!」
『かわ……いい? なんだその評価は。我は尊き――』
ラギルが抗議しようとした瞬間、莉理香が笑って頭を撫でた。
「ほら、榊さんが“かわいい”って。 それ、誉め言葉ですよ?」
『……ぬ、ぬう……悪い気はせぬが、威厳が……』
「威厳より癒し力の方が勝ってますね、これは」
榊は完全にデレデレで、小竜を覗き込んでいる。
ラギルが「近い!」とじたばたするたびに、
研究室の空気が柔らかくなっていった。
「完全に癒しキャラですね、これは」
「ペット扱いしたら怒りますよ」
『ペットではないぞ!』
息の合った否定に、榊が腹を抱えて笑った。
「莉理香さん、これ……どのくらい維持できるんですか?」
「今のところ安定してます。
ただし私とリンクしてるので、私が疲れると一緒に寝ますね」
『ふむ、それも悪くない。昼寝は魂の休息だ』
榊は笑いながら、ふと真顔に戻る。
「……“竜光の貴婦人”だとか“救世主”だとか、
世間は勝手に言ってますけどね」
「え?」
「でも、やっぱりこうやって笑ってる莉理香さんの方が、ずっと自然ですよ。
――誰かを癒やす前に、自分をちゃんと癒やしてるみたいで」
その言葉に、莉理香は目を見開いた。
手のひらの小竜が、静かにまばたきをする。
そして、ラギルがぽつりと呟いた。
『ふむ、そうであろう。 そなたが笑うと、世界が少し穏やかになるのだ』
「……それ、詩的ですね」
『我は詩も嗜む』
その一言に、榊が吹き出した。
笑い声が重なり、雨の音と溶け合う。
深夜の研究室。
青い光に包まれた三人の笑顔は、
どんな奇跡よりも、温かな光を放っていた。
――翌朝。
庁内のチャットには、
《竜神が飼い始めた謎の生き物がかわいすぎる件》
という見出しが踊り、救護課の全員がスマホを覗き込むことになる。
だが、当の本人はというと、
掌の上の小竜を撫でながら、のんびりとあくびをしていた。
「……まあ、癒やしって大事ですよね」
『うむ、実に大事だ。では次は菓子を所望する』
「……ほんとにペットみたいだよ?」
『ペットではない!』
――そんな平和なやり取りが、夜明けまで続いた。
***
――翌日・救護課会議室。
救護課の会議室は異様な熱気に包まれていた。
空調の音すら聞こえない静寂――ただ一つ、机の中央に座る小さな“何か”を前に、全員が息を呑んでいた。
「……というわけで、精神同調の一部を仮想体に投影することに成功しました」
莉理香が、いつも通りの落ち着いた声で説明を始める。
プロジェクターには小型ホログラムの波形が映り、
そこには「被験体:ラギル(20cm)」の文字。
しかし、説明を聞いている者の視線は――誰一人として資料を見ていない。
全員が、机の上にちょこんと座る“それ”を凝視していた。
小竜。白銀の鱗をまとい、両翼を小刻みに動かしながら紅茶の湯気を見つめている。小さな前脚を組み、まるでそこが自分の定位置であるかのように落ち着いていた。
「はぁ……」
高村課長が額を押さえ、深いため息をついた。
後ろの席では、榊と山崎、杏奈が一様に神妙な顔をしていたが――実際のところ、誰もまともに思考が追いついていない。
そのとき、小竜がくるりと首を回し、金色の瞳を課長に向けた。
『――で、そなたが高村課長であろう?
いやぁ、いつもお主の愚痴は聞かされておったぞ』
その場の空気が一瞬で凍りついた。
莉理香は顔を覆う。
「ラギル、今それ言わなくていい」
『何、隠すことでもあるまい。人の上に立つ者の苦労、我も理解しておるぞ?』
「そういう話じゃなくてですね!?」
課長は紅茶を一口飲み、しばし沈黙した。
そして、現実逃避のように呟く。
「……いや、桐嶋。うちの課で“新種の知的生命体”を飼う予定はなかったんだが」
「飼ってませんよ?」
『我はペットではないぞ!』
即座に声が重なり、会議室に笑いが弾けた。
榊がこらえきれずに手を上げる。
「課長、すみません……これ、どう見ても生きてます。
意識体を分離・投影して、エネルギーは本人と同期してるみたいです」
「つまり、桐嶋の……一部ってことか?」
「厳密には、“精神の同居者”と呼ぶべきでしょうね」
『ふむ、まあそれが最も近い表現であろう。
我は莉理香の内より、そなたらの営みをずっと見ておったからな。
高村課長の“寝不足”と“胃薬の消費量”の増加も、把握しておるぞ』
「情報過多だな」
高村の目が完全に死んだ。
後方で山崎が吹き出し、杏奈が慌てて咳払いでごまかす。
『榊殿は酒に弱く、山崎は無茶をする。
杏奈は徹夜明けに甘味を摂りすぎる――』
「ラギル! 黙って!!」
『礼儀として我が知ることを共有しただけだが?』
「それ“機密情報”ですから!」
莉理香が両手で抱き上げると、
ラギルは「むぅ」と鳴きながらじたばたした。
莉理香が両手で抱き上げると、ラギルは「むぅ」と唸りながら前脚をばたつかせた。
榊が笑いをこらえきれず、ぽつりと呟く。
「課長、ちょっとかわいくないですか」
高村が眼鏡を押し上げ、冷静に言った。
「……榊。 “かわいい”で済ませたら、この課は終わりだぞ」
「でも癒し効果は抜群ですよ? ストレス値が下がりそうです」
「確かに……」
気づけば、高村の声も少しだけ和らいでいた。
ラギルは莉理香の掌の上で翼を動かし、得意げに言った。
『む。人の子ら、案外面白いものだな。
特に課長、そなたはよく莉理香を支えておる。感謝するぞ』
その言葉に、高村が目を細めた。
「……竜の口から“感謝”なんて言われたら、返す言葉がないな」
『恐れ多いと思うか?』
「いや、現実味がなさすぎて理解が追いつかないだけだ」
どっと笑いが広がる。
会議室の空気が、重い議題の場から一瞬で“温かい場所”に変わった。
莉理香は掌のラギルをそっと机に戻し、深く息を吐いた。
「……課長。これは単なる実験じゃありません。
私は、この“共生体ラギル”を外部に展開できる。
つまり、私の力を制御する“第三の器”を確立できたということです」
「なるほど。つまり、彼はある程度独立して行動できるわけだな」
「はい。ただし完全な分離は不可能です」
「逆に言えば、“誰にも奪えない”わけだな」
「そうなります」
高村は腕を組み、数秒の沈黙の後――ふっと笑った。
「――よし。正式に認めよう。 “救護課備品:ラギル”」
『……なんだその肩書きは!?』
「備品扱いの方が予算が取りやすいんだ」
『備品!? 我が備品!?』
莉理香が慌ててなだめる。
「ラギル、違う。課長なりの愛ですよ」
「そうそう、予算通るんだぞ。偉いぞ」
『……ぬう……褒められているのか、誤魔化されているのか……』
榊が笑いながら肩をすくめる。
「でも、こうして見ると……桐嶋さん、ようやく“相棒”を形にできたんですね」
「そうなんですよね」
莉理香は小さな竜の背を撫でた。
ラギルが気持ちよさそうに目を細め、小さく「ふにゃ」と鳴いた。
その可愛げな声に、つい課長も吹き出した。
「……あーもう。 これ、報告書どう書けばいいんだ」
『好きに書くがよい。“ラギル殿、かわいい”とでも書いておけ』
救護課員たちの笑い声が、会議室いっぱいに広がった。
それはまるで、日常の中に小さな奇跡が舞い降りたような瞬間だった。
――そしてその日の午後。
庁内サーバーには一件の新規ファイルが登録された。
《共生意識体・ラギル:限定実体化成功報告書(可愛さに関する所見を含む)》
この文書が後に庁内フォーラムで「史上もっとも和む報告書」として伝説になることを、まだ誰も知らなかった。




