第72話 莉理香、採寸される
――ロンドン・ハワード邸。
「……え、ちょっと待ってください。これ、何の部屋ですか?」
案内された先は、光沢のある鏡と布地に囲まれた部屋。
壁際にはマネキン、ソファの上には布見本が山のように積まれている。
莉理香は入口で立ち尽くしていた。
隣ではシャーロットが、満面の笑みで手を叩く。
「おめでとうございます、先生! 本日より“竜光の貴婦人”にふさわしいドレスのデザイン会議ですわ!」
「待ってください! 私、ドレスより白衣なんです!!」
「ですから、その白衣の代わりになるドレスをお作りするんですの!」
「いやいやいや、“代わり”にならないでしょそれ!」
だが、シャーロットの勢いは止まらない。
彼女の後ろから現れたのは、英国でも指折りの仕立屋・メゾン・ロウ。
王室御用達のエンブレムがついた鞄を抱え、深々と礼をした。
「――桐嶋様。女神ではなく、人としての威厳を表現する。
その一点に集中して、陛下からも非公式にお言葉を賜っております」
「陛下ぁぁぁ!?!?」
「ええ、正式な勅命ではございません。
“できれば彼女に似合う装いを”とのお言葉のみでございます」
完全に詰んでいる。
莉理香は額を押さえ、深く息をついた。
「……もう好きにしてください」
「まぁ! ついに観念なさいましたのね!」
莉理香は黙って両手をあげた。
***
生地の上に広げられたのは、光沢のある白銀のシルクと淡い水色のヴェール。
ドレスデザイナーが筆を走らせながら説明する。
「“竜光の貴婦人”という名を象徴するには、光を受けて変化する素材が最適です。
竜の鱗ではなく、風と光そのものを纏うイメージで――」
「……いや、それファンタジーですよね?」
「英国は詩で動く国ですわ、先生」
シャーロットがさらりと言い切った。
「こちらの袖口には、癒しの象徴として銀糸の刺繍を。
中央の胸元には王室の紋章ではなく、“ハワード家の花章”――リリーのモチーフを入れます」
「リリー……」
「ええ。あなたの名前“リリカ”に合わせたそうですわ。
兄上の提案です」
莉理香は言葉を失った。
どう考えても、外堀が埋まるどころか花壇まで完成している。
「ちなみに――靴のサイズは合っていますか?」
「24.0ですけど、なんで知ってるんですか?」
「わたくしのインスタのコメント欄に書いてありましたわ」
「やめてええええ!!」
デザイナーたちが笑いながらメモを取る。
やがて、完成イメージがテーブルに並んだ。
そこには、流麗な筆致で描かれた一枚のスケッチ。
白銀と淡青のドレス、背中から風のように流れるシフォン。
控えめな装飾なのに、見る者の心を奪うほどの気品があった。
シャーロットが嬉しそうに言う。
「先生がこれを着て立つだけで、その周りはもう“神殿”ですわね!」
「神殿じゃなくて講義室くらいで十分なんだけどなぁ……」
そのとき、扉がノックされた。
アレクシスが入ってきた。
目にした瞬間、彼の表情がやわらぐ。
「おお……これは素晴らしい。
君の“白衣”を、世界に見せる形にしたわけだね」
「やめてくださいよ、そんなロマンチックな言い方」
「ロマンチック? これは本心だよ」
言葉の応酬に、シャーロットが肩を震わせて笑った。
「お二人とも、文化祭前の学生みたいですわね」
「やめて、そういう言い方!」
だが、そんな軽口のなかで、
アレクシスの声が少しだけ真面目になった。
「……君にこのドレスを着てもらうのは、みんなに見せるためじゃない。
“守られる”ためだ。
誰かが君を呼ぶとき、そこに敬意が生まれるように。
それが、英国流の魔法なんだ」
莉理香はその言葉に目を伏せ、
小さく笑った。
「……なるほど。“礼儀という魔法”ですか。
それなら、悪くないですね」
「そう言ってもらえると助かります」
デザイナーが控えめに言った。
「完成は二週間後。
“竜光の貴婦人”の初お披露目は、国際医療会議での講演と同時になります」
「……公演とか講義とか、もう、いろいろ違う気がする」
「いいえ。あなたがそこに立つだけで、世界が落ち着くんですわ」
シャーロットの言葉は冗談めかしていたが、
莉理香は否定できなかった。
竜核が微かに光を帯びる。
その胸の奥で、確かに感じる。
――人々の祈りが、静かに満ちていく。
「……ほんとに、ドレスなんて似合わないですよ」
「そう思ってる人が着るからこそ、意味があるのですわ」
シャーロットが笑う。
その笑顔は、かつて“お姉さんと呼びたい”と言った時と同じものだった。
「では、竜光の貴婦人。採寸を続けましょうか?」
「もう、その呼び方定着してるんですね……」
莉理香はため息をつき、笑いながら腕を広げた。
窓の外、薄曇りのロンドンの空。
風がカーテンを揺らし、
光の粒がまるで彼女の肩を撫でるように舞い降りた。
――“Lady of the Dragonlight”。
世界が呼ぶその名に、少しだけ現実味が帯びた瞬間だった。
***
――ロンドン・国際医療会議センター。
巨大なガラスドームの天井から、午前の光が降り注いでいた。
百カ国以上の代表が集うその会場で、静寂が支配している。
ステージ中央に、ゆっくりと一人の女性が歩み出た。
淡い白銀のドレス。
裾をなぞるように揺れる水色のヴェールが、光を受けて虹のように輝く。
彼女の動きに合わせて、まるで空気そのものが柔らかく波打つようだった。
――“Lady of the Dragonlight”。
誰かが小さくその名を囁く。
世界中の報道カメラが一斉にレンズを向けた。
舞台袖ではアレクシスとシャーロットが固唾を飲み、
英国王室の席にはキャサリン夫人が静かに頷いている。
莉理香は立ち止まり、深呼吸した。
そして、マイクの前で穏やかに口を開いた。
「皆さま、初めまして――
“竜光の貴婦人”などという、恐れ多い呼び名をいただいてしまいました桐嶋莉理香です」
笑いが起こる。
その笑いには、緊張を解く安堵と親しみが混ざっていた。
「本来なら私は、ただの医師であり、救護員であり……
災害現場で汗をかく“人間”です。
でも――できることを積み重ねていたら、
なぜか“竜神”と呼ばれるようになっていました」
会場の一角で、英国代表団の誰かが微笑む。
翻訳機を通じて、柔らかな笑いが広がる。
「……正直に言えば、最初は戸惑いました。
けれど、気づいたんです。
“呼ばれる名”がどうであっても、
“何のために力を使うか”は自分で決められる。
それが、私たち人間の一番の特権なんだって」
光がステージを包み、
ドレスの銀糸が淡く瞬いた。
「この力は、誰の命令でも、国のものでもありません。
私の“意志”と、“想い”で使うものです。
――だから、私は今日も一人の“医師”としてここに立っています」
拍手が起こる。
最初は小さく、やがて波のように広がり、
会場全体を包み込んだ。
彼女は微笑み、ゆっくりと続けた。
「私は、結局は“人間”なんです。
食べますし、寝ますし、たまに転びます」
通訳が追いつくより早く、あちこちで笑い声が上がった。
それは、張り詰めていた空気を一気にほどく、人間らしい温もり。
「だからお願いがあります。
どうか――私を“便利な誰か”ではなく、“隣にいる人”として見てください。
私は皆さんの仲間でありたい。
それが、“竜光の貴婦人”としての、私の願いです」
最後の言葉が終わると、
会場はしばらく静まり返った。
その沈黙は、敬意の沈黙だった。
やがて、英国代表席からひとりが立ち上がり、
胸に手を当てて深く頭を下げた。
続いて他国の代表も次々に起立し、
百を超える国の代表が、一斉に“敬礼”の姿勢をとった。
その光景に、莉理香は思わず目を瞬いた。
(……やめてください、そんな大げさな)
口には出さなかったが、頬が少し熱い。
だが、その姿を見つめる人々の表情に、
彼女はふと気づいた。
――そこには“神への崇拝”ではなく、“人への信頼”があった。
誰もが「この人なら世界を壊さない」と、
心のどこかで信じている。
その空気が、静かに会場全体を包んでいた。
ステージ袖で、アレクシスが小さく息をついた。
「……やはり、彼女は素晴らしい」
隣でシャーロットが涙ぐみながら頷いた。
「ね、兄上。
あの方、もう完全に“貴婦人”ですわよ」
「そうだな。……ただし、世界で一番自由な貴婦人だ」
拍手が鳴り止まない。
莉理香はそっと一礼し、マイクを外した。
ステージの照明が、まるで竜の鱗のように光を散らす。
ドレスの裾が揺れ、
風が彼女の背を押すように吹いた。
――“Lady of the Dragonlight”。
その名は、もうただの“称号”ではなく、世界との“約束”のように響いていた。
彼女は歩きながら、小さく笑った。
「……次は、ちゃんとスーツも持ってきます」
その一言に、観客席から再び笑いが起こった。
その笑いの中、
彼女はまっすぐ前を見つめた。
人々が祈る未来へ――
竜光の貴婦人は、静かに歩き出した。




