第71話 竜光の貴婦人
――ロンドン・ハワード邸。
午後の光が差し込むリビングで、アレクシスは書類の束を整えていた。
紅茶の香りが漂うテーブルの向かいでは、シャーロットがスマホをいじりながら鼻歌を歌っている。
「兄上、それ本当に“公務”なんですの?」
「そうだよ。見てわからないかい? 外交に関連した連絡書類なんだ」
「……でも、メッセージ欄に“Her Majesty’s Private Secretary”って書いてありますわ」
「……見なくていい」
「えっ、もしかして――王室に話を通したんですの!?」
シャーロットが勢いよく椅子を鳴らす。
アレクシスはため息をついた。
「ハワード家の名の下に、王室から“賛同の意”をいただく――その程度だ」
「でも、それってつまり、“王室の後ろ盾がある”ってことですわよね?」
「……結果的には、そうなることは否定しないよ」
アレクシスは頷き、窓の外を見やった。
曇り空の下、庭のバラが風に揺れている。
机の上には、一通の手紙。
“Clarence House”の封蝋が押されていた。
それは英国王室の私的秘書官からの返書。
短い文面が、慎ましくも強い意味を持っていた。
「ハワード家が庇護するならば、我らはそれを信ずる。
彼女を“人として敬う”その姿勢に、王室も共感する。」
――勅命ではない。だが、これほど強い“無言の承認”もない。
アレクシスは深く息を吐いた。
「これで、彼女に“軽い依頼”を出すことは難しくなる。
王室の名の下にある人間に対して、軽率な接触は不敬と見なされる。
いわば、“静かな防壁”だ」
シャーロットはぱちぱちと瞬きをしたあと、
やがてゆっくりと笑顔になった。
「……お兄様、本気で“護る気”なんですね」
「当たり前だろう。彼女は世界を救っている。
だからこそ――誰かが彼女を救わなくちゃならない」
その言葉に、シャーロットの胸が熱くなる。
兄はいつだって理性的で、冷静で、感情を表に出さない。
だが今だけは、静かに燃える情熱が見えた。
「……ねえ、兄上。
この話、桐嶋先生にはまだ内緒ですのよね?」
「ああ。知られたら絶対に『そんなことをお願いしたつもりはありません』って言うだろう」
「ふふっ、間違いありませんわ」
二人の笑いが重なり、空気が和らぐ。
やがて、アレクシスは少し真面目な表情に戻った。
「――それにしても、君が最初に“姉上”と呼んだことが、すべての始まりかもしれないな」
「え? あの冗談がですの?」
「冗談でも、君がそう呼んだことで、“家族”という概念が現実味を帯びた。
英国の上流社会にとって、“家族に近しい存在”は守る対象になる。
……その空気が、結果的に王室まで動かした」
シャーロットは驚きに目を見開き、
そしてゆっくりと笑った。
「じゃあ、わたくしの“日本研修”も、少しは役に立ちましたのね」
「……“少しは”どころじゃない。
君の行動は、誰よりも効果的だった」
アレクシスはそう言い、
妹の頭をくしゃりと撫でた。
「やめてくださいまし、子ども扱いは!」
「大人扱いしても、やることは子どもだろう」
「失礼な!」
二人の軽口が、英国式のティーセットの音に混ざって響く。
その背後では、執事が静かに立っていた。
彼は小声でアレクシスに告げる。
「――卿、王室報道局より報告が入りました。
“桐嶋莉理香氏の名誉顧問就任に、王室も理解を示す”とのことです」
アレクシスはゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。……これで道筋はできた」
彼はティーカップを取り上げ、
深く香りを吸い込む。
「“王冠の傘の下”というやつだな。
彼女が望まなくても、世界が彼女を守る構造を作る」
シャーロットが真剣な瞳で兄を見つめた。
「……先生が知ったら、なんて言うかしら」
「たぶん、“やめてください、そういうの”だ」
二人は同時に笑った。
けれど、その笑いの奥には、確かな願いがあった。
――どうか、彼女がこれ以上、世界の重荷を一人で背負わないように。
そのための“名誉”が、優しい盾でありますように。
ロンドンの空は曇っていた。
けれど、その雲の向こうで、風が静かに吹いていた。
それはまるで、彼女の笑い声のようにやさしい風だった。
***
――数日後、日本・霞が関。
「……えっと、課長。これは、何ですか?」
救護課の執務室。
デスクの上に置かれた一枚の封書。
王室紋章の封蝋と、「Clarence House」の文字が輝いている。
高村課長は咳払いをして、慎重に言葉を選んだ。
「えー、英国王室報道局の非公式発表によりますと――
桐嶋莉理香氏が……えー、“Lady of the Dragonlight(竜光の貴婦人)”として登録されたそうです」
「……登録って、何ですか?」
「まあ、つまり、英国王室がお前さんを“友人”として公式記録に残したということだな」
「……は?」
莉理香のまばたきが止まった。
隣で榊が無言でスマートフォンを操作し、ニュースサイトを見せる。
『英国王室後援のもと、“竜光の貴婦人”認定』
『Lady of the Dragonlight――地球規模災害への貢献を称えて』
『日本の竜神、王冠の傘の下へ』
「……ニュースになってるうううぅぅぅ!!」
「はい。ええ、まぁ、どこも一面ですね」
高村が苦笑しながら資料を閉じる。
莉理香は頭を抱えた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、そんな話聞いてませんよ!?
“竜光の貴婦人”って……どこのファンタジー設定ですか!? ネーミングセンスが異世界!!」
「異世界由来ではなく、英国のセンスですね」
「そういう問題じゃありません!!」
榊が思わず吹き出した。
「いやぁ、でも似合ってますよ。“Lady of the Dragonlight”。
英国的には“竜の光を導く女性”って意味らしいです。……たしかにあなたそのものじゃないですか」
「やめてください! その翻訳の方がこそばゆいです!」
莉理香は机に突っ伏した。
そして小さく呟く。
「……これ絶対、シャーロットさんですよね。いや、アレクシスさんもグルか」
「ええ、でしょうね」
高村課長の声が妙に穏やかだ。
「実は私にも、ハワード卿から一本電話があったよ。
“国際的に保護する形が整った。これで彼女が無茶な要請に巻き込まれずに済む”と」
「いやいやいや、なんで私の意向抜きで勝手に“保護されてる”んですか!!」
「まぁ、我が国と英国の善意だな」
「悪意よりタチが悪いですよ!!」
そのとき、莉理香のスマホが震えた。
画面には“Charlotte”の文字。
……嫌な予感しかしない。
おそるおそる通話ボタンを押すと、明るい声が響いた。
『Lady Ririkaーーっ!! おめでとうございますっ!!』
「やっぱりあなたかぁぁぁぁ!!!」
『え、違いますわ! 兄上が話をまとめてくださったんですの! わたくしはただ、“先生にはもっと素敵な肩書きが必要ですわね~”って言っただけで!』
「それを“原因”って言うんですよ?」
『でもでも、素敵じゃありません? “Lady of the Dragonlight”!
まるで絵本の女神様みたいですわ! ……あ、でも女神じゃなくて、“人”ですものね。だから“Lady”。完璧ですわ!』
自信満々な声に、莉理香は完全に降参した。
「……はぁ。
もう、あなたたち本当に、どこまで外堀固めれば気が済むんですか」
『外堀? あら、それならもう城壁が上に建ってますよ?』
高村と榊が机に突っ伏して笑っている。
電話の向こうでは、シャーロットの笑い声と、キャサリン夫人の穏やかな声が重なっていた。
『リリカさん、どうか誇りに思ってください。
これはあなたを縛る鎖ではなく、あなたを“人として守る盾”です。
――王冠の傘の下でも、あなたの自由は保証されていますわ』
その言葉に、莉理香の表情が少し和らいだ。
笑いながら、でもその奥で、胸の奥がほんのり温かくなる。
「……ありがとうございます。
でも、“Lady Ririka”って呼んだら怒りますからね?」
『まぁ! では“Lady Ririka of Japan”で!』
「余計ひどくなってる!!!」
結局その日、救護課のSNSはこのHOTなタグで埋め尽くされた。
“#竜光の貴婦人ご降臨”
“#Ladyリリカ爆誕”
だが、誰よりも先にそのニュースを知った高村課長だけは、
ひとり静かに胸の内で思った。
――いい判断だ、ハワード卿。
“名誉”という名の防壁。
それは、彼女を利用から守るための、最も英国らしい優しさだ。
夕方。
莉理香はデスクで書類をまとめながら、
ふと窓の外に沈む夕日を見上げた。
「……Lady of the Dragonlight、ね」
その響きを、小さく呟く。
どこか気恥ずかしくて、けれど不思議に、嫌ではなかった。
「――ま、悪くないかも」
そう呟いた彼女の頬には、
ほんの少しだけ、笑みが浮かんでいた。




