第70話 竜神を守るための仕組み
――ロンドン・外務省。
重厚な扉の向こうで、静かな議論が続いていた。
壁には英国旗と日本国旗。
小さな円卓を挟んで、両国の代表が向かい合っている。
英国側――アレクシス・ハワード卿と外務次官。
日本側――在英大使と、救護課の課長・高村。
表面上は穏やかな国際協議。
だが実際の議題は、今や世界が最も神経を尖らせている存在――
“竜神”桐嶋莉理香の国際的な扱いについてだった。
「――結論から申し上げます」
高村が資料を閉じ、静かに口を開いた。
声に一切の感情を混ぜないのは、彼なりの緊張の表れでもある。
「当課の桐嶋莉理香は、あくまで日本国に所属する救護職員です。
しかし、彼女の行動範囲はすでに国家の枠を越えています。
今後も各国の災害や紛争地域に“自発的に”現れる可能性が高い。
――我々としては、その自発性を最大限に尊重したいと考えています」
その言葉に、アレクシスは深く頷いた。
「同意します。
彼女の行動を制限するのは現実的ではありません。
ですが――同時に、“何でも彼女に頼めばいい”という空気が広まれば、
世界は彼女に依存し、最終的に彼女自身を壊しかねない」
「ええ。そこが問題です」
高村はうなずき、手元のタブレットを操作した。
壁面スクリーンに映し出されたのはSNSのタイムライン。
《#竜神様が来てくれた》
《#リリカ便、到着》
世界中の災害現場から投稿される映像が、
ニュースよりも早く“奇跡の到着”を伝えていた。
それらのタグが、当たり前に機能し始めている。
「現状は、ご覧のとおりですが彼女は“奇跡の化身”ではなく、どこまでいっても一人の意志を持った人間です。
だからこそ、彼女に人類社会における一定の“格”が必要なんだと思います」
「格、ですか」
外務次官が眉を上げる。
「国際的に保護されるべき存在としての枠組みを整えるという意味です。
たとえば国境なき医師団のように、国際的な認証を与える。
もしくは、“名誉職”という形式で政治や軍事から切り離す。
それによって、彼女を“呼びつける”ことのハードルを上げるわけです」
アレクシスは少し考え、やがて小さく息を吐いた。
「――では、ひとつ提案があります」
全員の視線が彼に向く。
「桐嶋先生を、ハワード家の“名誉顧問”にお迎えするのはどうでしょう。
正式な爵位ではありません。
しかし“ハワード家に属する人物”とみなされれば、
少なくとも軽々しく命令や要請を出しにくくなる」
会議室の空気が、一瞬、張り詰めた。
英国の名門――それも古くから王室に連なる家系の庇護を受けるということ。
それは同時に、桐嶋莉理香という“竜神”に人間社会の庇護を与える行為でもあった。
外務次官が慎重に言葉を選ぶ。
「……つまり、“権威による保護”ですね」
「ええ。法的拘束力はありません。
ですが、社会的には十分な抑止力になりえます」
高村は腕を組み、少し黙した後、ゆっくりと頷いた。
「……悪くありません。
彼女は権力や肩書きを嫌いますが、これなら“庇護”ではなく“信頼の証”として受け取るでしょう。あなたの妹君や母君との関係性も自然ですからね」
アレクシスは静かに笑った。
「ええ。シャーロットも母キャサリンも、彼女をもう家族のように思っています。
父もきっと同意してくれるでしょう――
彼女が“名誉”と“尊敬”という盾を手にできるのなら、私も安心できます」
高村も、わずかに表情を緩めた。
「……ですが、議会の承認は必要ないのですか?」
「必要ありません。
あくまでハワード家内部の顧問職です。
ただ、王室に非公式な報告を上げることは考えています。
――英国の伝統というのは、こういう時に意外と役に立つものです」
その言葉に、外務次官が皮肉を込めて笑う。
「……竜神を守るのが、まさか王政貴族とは。
歴史の皮肉というやつですね」
「ええ。英国の古い制度も、たまには役に立つものですよ」
アレクシスは静かに立ち上がり、テーブルの上に置かれた書類を一瞥した。
窓の外には、ロンドンの冬の空。
鈍い雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込み、机上の日本国旗を照らしていた。
「――彼女が“神”ではなく、“人”として生きていけるように。
それが我々、外交官と人間の役目でしょう」
高村はその言葉に、静かに頷いた。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙には、国家を越えたひとつの“敬意”が含まれていた。
やがてアレクシスは穏やかに微笑み、口を開く。
「――では、正式な手続きは私が進めます。
“竜神に対する庇護”を、今度は人が差し出す番ですから」
その言葉に、誰も反論しなかった。
会議室の時計の針が静かに進む。
窓の外で鐘の音が響き、ロンドンの空に新しい朝が広がっていった。
***
――協議が終わったあと。
高村とアレクシスは並んで歩きながら、会議室を後にする。
窓の外には、雲の切れ間からわずかな陽光。
霧雨に濡れた石畳が淡く光り、行き交う人々の傘の列がゆっくりと動いている。
――さっきまでの張り詰めた空気とは対照的に、二人の表情はどこか柔らかかった。
「――これで少しは、彼女を守ることができるでしょうか」
高村の問いは、 職務としての確認ではなく、どこか個人的な願いの響きを帯びていた。
アレクシスは歩みを緩め、しばし考え、ゆっくりと答えた。
「少なくとも、“何でもお願いすれば助けてくれる神”という扱いからは外れるでしょう。
代わりに、“敬意を払うべき存在”として見られるようになるはずです。
彼女の行動は信頼に基づくもの――それを利用する行為は、英国に対する侮辱にも等しい」
「なるほど……そうなると、我々としても断りやすくなりますね」
「まさにそれです」
二人は同時に笑い、軽く肩をすくめ合った。
国も文化も違うが、守ろうとしているものは同じ。
それが言葉にせずとも伝わっていた。
高村がふと足を止める。
廊下の端の窓から、街路のバラ園が見えた。
淡い風が吹き、赤と白の花がゆるやかに揺れている。
その光景を眺めながら、高村がぽつりと呟いた。
「……あなたも妹さんも、いい家族ですね」
アレクシスは少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。
ですが、それは桐嶋先生が“人として”そこにいてくれるからです。
もし彼女が本当に超常の存在として振る舞っていたら……きっと、私たちは笑い合うこともできなかったでしょう」
その言葉に、高村は目を細めた。
彼の表情には、深い理解とわずかな安堵が混じっている。
「……人のままでいてくれることが、どれほど尊いか。
ええ、よくわかりますよ。
彼女が“神”であろうと、“人”として立ち続けてくれる限り――世界はまだ希望を持てる」
外では、霧がゆっくりと晴れていく。
アレクシスは窓越しにその光景を見ながら、静かに呟いた。
「――あの方に、“休む時間”を与えてあげたい。
私たちが作れるのは、せいぜいそのくらいです」
その呟きは、誰に聞かせるでもない本音だった。
彼にとってそれは外交官としての任務ではなく、ひとりの男としての祈りに近い。
高村はその横顔を見て、静かに頷いた。
「それで十分です。
守るための制度ではなく、“思いやり”で支える――
それが、あなた方英国らしいやり方なんですね」
アレクシスは苦笑しながらも、どこか誇らしげだった。
「ええ。遠回しで、時に面倒ですけどね。
――英国流の“愛情表現”というやつです」
二人の笑い声が静かに響いた。
そして――同じころ。
当の本人――桐嶋莉理香は、
遠くインド洋の孤島で救護活動を終え、 港の桟橋に腰を下ろして海風に髪をなびかせていた。
「……あれ? なんか、誰かが私の噂してる気がする」
小さくくしゃみをしながら、彼女は苦笑した。
その背後では、救われた子どもたちの笑い声が響く。
――彼女の知らぬところで、
世界はまた一つ、“竜神を守るための仕組み”を動かし始めていた。




