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第69話 静かな夜に、紅茶を

――ハワード家・ロンドン郊外邸宅。


 夕暮れの光が、リビングを赤色に染めていた。

 壁の大時計が夜の七時を告げる。

 食卓の上には、三人分のカップと、二人分の影。


「……お父様、やっぱりお会いできませんのね」


 シャーロットが肩を落とした。

 テーブルの端に置かれた花束とメッセージ――父エドワード伯爵からの直筆だった。

 『残念ながら職務により帰国できず。どうか我が家を心安らぐ場所と思ってほしい』


「お父様にはどうぞよろしくお伝えください。

 お会いできなくて残念ですが……このおもてなしだけで十分です」


 莉理香は微笑みながら、控えめに頭を下げた。

 アレクシスが隣で小さく息をつく。


「父は昔から融通が利かない男でして。

 きっと今頃、書類の山を前に奮闘していることでしょう」


「血筋ですね」


「否定は……できませんね」


 二人は思わず笑った。

 重厚な洋館に似合わぬ、軽やかな笑い。

 シャーロットはその空気を確認して、にやりと笑った。


「では、お二人ともごゆっくり。――あっ、わたくし、少しお出かけしてきますわ」


「えっ?」


「紅茶用のスコーンを切らしてしまいましたの。ちょっと買いに――」


「シャーロット、夜だし――」


「大丈夫ですわ。ほんの少しですから!」


 返事を待たずに、彼女はバッグを掴んで出ていった。

 玄関の扉が閉まる音。

 残された二人、紅茶と沈黙。


「……あの子、わざとですね」


「ええ、間違いなく」


 莉理香は肩をすくめ、湯気の立つポットに手を伸ばした。

 紅茶の香りがふわりと広がる。

 琥珀色の液面がゆっくりと波打ち、

 その光がアレクシスの横顔を照らした。


「……改めて思いますけど、こうしてお会いしているのは不思議な気持ちですね。

 これまで何度も言葉を交わしていたのに、まるで初対面のような気がします」


「それは私もです。

 あなたの声を聞くたびに、“画面越しの幻”のように感じていました。

 今こうして目の前にいるのが、まだ信じられない」


 莉理香は少し照れたように笑った。

 手元のカップをくるくる回す。


「……たぶん、距離が近すぎるんですよね。

 転移ができるようになってしまってから、本当にどこにでも行けるのに――

 いざ会うとなると、ちょっと緊張するんです」


「ええ。移動が苦にならないとしても、心の距離が問われる。

 ――あなたはそれを誰よりも理解しているんでしょうね」


 アレクシスの声は穏やかだった。

 だが、その瞳の奥に宿るのは――

 ひとりの男性の真摯な眼差しだった。


「……昔、学生の頃に読んだ詩を思い出します。

 “星々は遠くにあるからこそ輝く。だが近くで見る月は、心を照らす”」


「……詩的ですね」


「英国人の悪癖です」


 二人の笑いが重なり、再び静寂が訪れた。

 窓の外では霧が流れ、街灯がぼんやりと光る。


 莉理香は少しだけ真面目な表情に戻り、言葉を選ぶように言った。


「……私、あなたと話すとき、少し安心しているのかもしれません。

 国とか立場とか、全部取っ払って“人間同士”でいられる気がして」


「それは、あなたがそう見てくれるからですよ。

 私はただの不器用な人間です。

 でも――あなたを見ていると、“人間であってくれてよかった”と思う」


 ふと、紅茶のカップが触れ合う小さな音が響いた。

 目が合う。

 その瞬間、世界の喧騒が遠のく。


 ほんの一拍。

 竜神と貴族ではなく、

 一人の女性と、一人の男性としての呼吸だけが、同じリズムを刻んでいた。


 やがてアレクシスが静かに口を開く。


「……あなたがここに来てくれて、本当に嬉しい。

 けれど、もし“帰りたくなったら”、何も言わずに帰ってください。

 あなたが自由でいることが、一番大切です」


 莉理香は少し驚き、そしてゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます。

 でも――実はどこにいたとしても“帰る”って感覚が、もうあまりないんです。

 どこにいても、みんなとちゃんと繋がってる気がするから」


「……そうですか」


 アレクシスは小さく笑った。

 まるで、大学のカフェで隣の席の彼女に

 “また明日もここで”と告げるような、静かな優しさだった。


 ***


 少しして、玄関の扉が勢いよく開く。


「ただいま戻りましたー!」


 シャーロットがスコーンの袋を掲げて満面の笑み。

 テーブルに座る二人を見て、にやりと笑う。


「――あらあら。いい雰囲気ですわね。

 スコーン、後でいいです?」


「今すぐ焼いてください」


「今すぐ焼いて欲しいな」


 二人の声が重なり、三人同時に吹き出した。

 笑い声がリビングに広がり、

 その奥で、エドワード伯爵の残した花束が静かに香っていた。


***


――翌朝、ロンドン。


 夜明けとともに、街はざわめいていた。

 通りには新聞スタンドが並び、見出しが風に翻る。


“DRAGON DOCTOR IN LONDON”

“桐嶋リリカ氏、英国滞在を確認――日本外務省は黙認の模様”


 地下鉄の車内では通勤客がスマートフォンの画面を覗き込み、

 ニュースアプリには、SNSから転載された写真。

 赤レンガの街並みを歩くアジア人女性――白いコートを着て微笑みを浮かべている。ただ、それだけで世界がざわつく。


 アレクシスの邸宅は静かだった。

 朝の光が差し込むリビングで、彼は紅茶を淹れながら新聞を閉じた。

 隣のソファではシャーロットがスマートフォンを握りしめ、眉をひそめている。


「……まさか、朝の散歩だけでここまで騒ぎになるとは思いませんでしたわ」


「誰が撮ったんだ、まったく……」


 アレクシスはため息をつき、カップをテーブルに置いた。

 窓の外には、報道車の影。

 通りの角には遠巻きに見守る群衆の姿もある。


 ――彼女がどこに現れても、世界はそれを“事件”として扱う。

 救護でも、散歩でも、ただそこに“いる”という事実だけでニュースになる。


 シャーロットがスマホを置き、少し真面目な声を出した。


「……兄上。

 先生、こういうの、あまり嬉しくないと思うんです」


「そうだな」


「“助ける人”であることと、“助けを求められる人”であることは違いますもの。

 お願いされ続けたら、どんな優しい人でも疲れてしまう」


 アレクシスは頷き、紅茶を一口啜った。

 香りが静かに広がる。

 彼の瞳には、どこか遠い憂いが浮かんでいた。


「……妹よ、君は時々、鋭いね」


「だって、見ていればわかりますわ。

 先生は、誰かの願いに応え続けて――自分の願いを後回しにしてしまう人。

 わたくし、そんなの見たくありませんもの」


「私も同じ気持ちだよ。

 世界は彼女を“救世主”と呼ぶが、それは彼女を“便利な存在”にしてしまう危険でもある。私たちは、それを絶対に許してはいけない」


 アレクシスの声には、固い決意があった。

 それは貴族としての冷静な判断ではなく、

 一人の人間として、誰かを大切に思う気持ちそのものだった。


 そのとき、廊下から足音がした。

 振り向けば――リリカ。

 すでにコートを羽織り、出かける支度をしている。


「おはようございます。……朝から賑やかみたいですね」


 軽い笑顔。

 だが、その瞳にはほんの少しだけ疲労の色があった。


「おはようございます、先生! あの、ニュース見ました?」


「ええ。“観光”もなかなか難しそうですね。……まぁ、すぐに収まるでしょう」


 淡々とした口調。

 しかし、彼女の指先がコートの裾を握りしめているのを、アレクシスは見逃さなかった。


「――どこかへ?」


「ええ。少し前に洪水に関する救援要請がありました。

 現地の医療班が足りないみたいで。……少しだけ、行ってきますね」


 その声は、いつもの仕事モードの彼女の声だった。

 だが、アレクシスは思わず呼び止めた。


「待ってください」


 莉理香が振り向く。

 アレクシスは少し息を整えて言った。


「あなたが行くことを、誰も止められない。

 けれど――“行かない自由”もあることを、忘れないでほしい」


「……アレクシスさん?」


「世界は、あなたの力を望みすぎている。

 でも、それを“義務”にしてしまったら、あなた自身が壊れてしまうかもしれない。

 だから、もし疲れたら……行かなくていいんですよ」


 静寂。

 紅茶の湯気がゆらめき、

 窓の外では風がそっとバラの花を揺らす。


 莉理香は、ゆっくりと目を伏せた。


「……ありがとうございます。

 でも、私は多分、大丈夫。

 私は風みたいなものですから。止まってる方が落ち着かないんですよ」


 その笑顔は、どこまでも柔らかかった。

 しかし、それが本当の“安心”から来ているのか――アレクシスには、少しだけ分からなかった。


 彼女が光の粒となって消えた後、

 リビングには静けさが戻った。


 シャーロットが小さく息をつく。


「……兄上。わたくし、あの人の笑顔が消えるの、見たくありません」


「私もだ」


 アレクシスは答え、静かに紅茶を口に運んだ。

 その味は少し苦く、けれど温かかった。


「彼女が“世界の風”になるなら、

 私たちはせめて――その風が戻る場所を守ろう。

 “帰る場所”がある限り、彼女は迷わないはずだ」


 シャーロットは頷き、兄の手にそっと自分の手を重ねた。


「約束ですわ、兄上。

 わたくしたちが、“便利に利用されない世界”を作りましょう」


 アレクシスはわずかに笑みを返した。


「あぁ……。それが私たち兄妹の使命だと信じよう」


 窓の外、風がやさしく庭を通り抜けていく。

 空のどこかで、きっと彼女もまた同じ風を感じている。


 ――その風が、“義務”ではなく“願い”で吹き続けるように。

 兄妹の祈りは、静かにロンドンの空へと溶けていった。

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