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第68話 心の距離

 ――救護課・研究室、深夜。


 窓の外には夜の東京。

 モニターの中には、紅茶の香りが漂いそうな英国のリビングルームが映っていた。


「――こんばんは、桐嶋先生! 今日も相変わらず素敵ですわね!」


 画面越しにシャーロット・ハワード嬢が手を振る。

 背後では金髪を優雅にまとめた婦人が、ティーカップを手にして微笑んでいた。

 キャサリン・ハワード夫人。

 アレクシスとシャーロットの母にして、英国上流社交界の重鎮である。


「こんばんは。お二人ともお元気そうで何よりです」


 莉理香は軽く会釈した。

 しかし、その声音にはどこか諦めに似た笑みが混じっていた。


 ――正直、もう“外堀”という言葉の意味を考えるのも虚しい。


 シャーロットはすっかり“英国の妹分”のような存在になっていたし、

 キャサリン夫人に至っては週に一度は紅茶の写真とともに「近況報告」を送ってくる始末だった。


「お母様、桐嶋先生がまた南米で救護活動をなさったんですって! ほんとに世界中を飛び回っていらっしゃるのよ!」


「ええ、ニュースで拝見しましたわ。

 あなたの姿、凛としていて……まるで“天の使い”のようでした」


「そ、そんな。やめてください、そういう言い方」


 莉理香は苦笑しながら手を振る。

 英国人特有の比喩的賛辞には慣れていたが、キャサリン夫人の言葉には時折“母親の温度”が混ざる。

 それがまた、妙に居心地が悪くも温かい。


「――それにしても、アレクシスから聞きましたわ。

 あなたと直接お話しできる機会が、ようやく設けられるそうね?」


「ええ……まぁ。そうなるみたいですね」


 莉理香は曖昧に笑い、肩をすくめた。


「でも、正直なところ、私としては“今さら”って感じです。

 転移ができるようになってから、距離の感覚がなくなってしまって。

 行くとか来るとか、もうあまり意味を感じなくなっちゃいました」


「まあ!」


 キャサリン夫人は扇子で口元を隠しながら、少し目を細めた。


「“時空の壁を越えても、心は近くにある”――そうおっしゃりたいのね?」


「えっ、いえ、そんな詩的な……!」


 慌てて否定する莉理香の横で、シャーロットが楽しげに笑った。


「先生、本当に照れ屋さんですわね!

 でも、兄上、嬉しそうでしたよ。

 “あの方と話す時は、言葉を選ぶのが難しい”って」


「……あの人、いちいち真面目に言うんですね」


「兄上ですから!」


 きっぱりと答えるシャーロット。

 その即答ぶりに、莉理香はもう苦笑するしかなかった。


「それにね、先生。

 兄上、最近は仕事の合間に紅茶じゃなくて日本茶を飲むようになったんですのよ。

 “彼女の国の香りを知りたい”って」


「やめて……ください……」


 莉理香は顔を覆った。

 横で榊が「報告書に書けませんね、これ」とぼそりと呟く。


 キャサリン夫人はくすくすと笑いながら、ティーカップを傾けた。


「あなたが“人間”として息子たちと向き合ってくださっているのが嬉しいのです。

 神でも、伝説でもなく――ひとりの女性として。

 それが、あの子たちにとって何よりの救いですわ」


 その言葉に、莉理香の動きが一瞬止まった。

 軽口の中に潜む、真っ直ぐな本音。

 母親としてのキャサリン夫人の感情が垣間見えた。


「……ありがとうございます」


 莉理香は小さく微笑んだ。

 そして、ふと画面の向こうで紅茶をすするシャーロットに目を向ける。


「でも、あなたのおかげですよ、シャーロットさん。

 最初に会ったときから、ずっと“人”として接してくれた。

 あなたがいなかったら、今の関係はなかったと思います」


「まあ! わたくし、そんな大それたことしてませんわ!」


「してるんですよねぇ。……無自覚なのかもしれませんけど」


「先生まで兄上みたいな言い方を!」


 笑い合う二人の声に、夫人も微笑を深めた。


「――あら、こうしてお話を聞いていると、まるで家族みたいですわね」


「えっ、いえ、あの、それは……」


 莉理香が慌てて言葉を詰まらせる。

 その隙を逃さず、シャーロットが満面の笑みを浮かべた。


「そうでしょう!? わたくし、もう先生を“姉上”と呼んでも良いんじゃないかと思ってるのですけど」


「だめです!!」


「ふふふ。冗談ですわ。――半分くらい」


「半分ってなんですか……!」


 まるで旧知の姉妹のような会話。

 この瞬間だけ見れば、国境も、立場も、力の差も何もなかった。

 ただ人と人として、笑い合う空気があった。


 キャサリン夫人は静かにカップを置き、やさしく言った。


「……リリカさん。

 あなたがどこにいようと、当家はいつでもあなたを歓迎します。

 心からの客人としてね」


 莉理香は言葉を失い、わずかに頭を下げた。

 画面の向こう、二人の微笑が柔らかく滲む。


 通信が切れた後、研究室に静寂が戻った。

 榊がぽつりと呟く。


「……これ、渡英したら完全に“外堀にコンクリート打設完了”って感じですよね」


「もう、いいです……今さらですから」


 莉理香は天井を仰ぎ、力なく笑った。

 転移も、外交も、信頼も――結局のところ、すべて“人間関係”だった。

 その単純さが、時に一番難しい。


***


――渡英当日。


救護課・庁舎屋上。


 夜風が涼しい。

 東京の街の灯りを見下ろしながら、莉理香はスマートフォンの画面を見つめていた。


 《Alexis Howard:We’ll be ready whenever you come. Take your time.》

 ――あなたの都合で構いません、いつでもお迎えします。


 その文面を見て、思わず笑みが漏れる。

 どこまでも丁寧で、まっすぐな人だ。

 まるで“公式メールのような恋文”だと、自分でも可笑しくなる。


 通知の上には、別のメッセージ。


 《Charlotte:兄上のスーツ、今日ちゃんとアイロンかけておきました!》

 《Charlotte:先生が来ると知って、紅茶の棚を総入れ替えしてます!》


「……何その“全力で待ってる感”」


 呆れながらも、頬が緩んでしまう。

 最近は彼女からのメッセージが日課のようになっていた。

 “先生が来たら案内したい場所リスト”と題されたメモには、ロンドン塔から美術館、学生街のカフェまで並んでいる。


 ――ほとんどただの観光だ。


 だが、不思議と悪い気はしなかった。

 距離を超えても、こうして人と繋がっている感覚が心地よい。


 風が髪を揺らす。

 その瞬間、竜核がかすかに光を帯びた。


(……行こう)


 彼女は小さく息を整え、夜空を見上げた。

 シャーロットにメールを送り――

 次の瞬間、静かな光が屋上を包み、莉理香の姿は風のように消えた。


 ***


 ――ロンドン・チェルシー地区。


 朝の空気は冷たく、街路樹の葉が揺れている。

 旧館の中庭に淡い光がきらめき、そこから一人の女性が現れた。


 紺のコートにスカーフ。

 髪を軽くまとめた桐嶋莉理香――竜神と呼ばれた女が、

 まるで留学初日の学生のように辺りを見回していた。


「……うん。ちゃんと、着いた」


 息を吐いたその瞬間。

 背後から声がした。


「――ようこそ、桐嶋さん」


 振り向けば、アレクシス・ハワード卿。

 ダークグレーのスーツにネイビーのネクタイ。

 完璧な英国紳士然としたその姿に、莉理香は思わず言葉を失った。


「……お久しぶりです、ハワード卿」


「名前で呼んでください。あなたには“アレクシス”の方が自然でしょう」


 笑みを浮かべるその表情が柔らかい。

 彼が差し出した手を、莉理香は少し迷いながら取った。


 ――温かい。

 竜核の鼓動が、ほんの一瞬だけ速まる。


「……お元気そうで何よりです」


「あなたも。……いえ、むしろ以前より明るい顔をされている」


「仕事が多いだけですよ。今日もここに来る前、アジアの港で――」


「もう、“場所”という概念があなたには通じませんね」


「そうかもしれません」


 ふたりは笑った。

 ほんの一瞬、時間が緩む。

 遠い異国で、まるで大学のキャンパスで再会した旧友のように。


 「――それにしても、ほんとに数秒で来られるんですね」


 アレクシスが苦笑する。

 邸宅の庭を歩きながら、彼は信じられないという顔で言った。


「あなたの渡航は、まるで星の瞬きのようだ」


「そうですね。髪を乾かす方が時間かかります」


 莉理香の返しに、アレクシスは笑った。

 まるで大学のカフェで冗談を言い合う同級生のようだ。


 ふと、莉理香が立ち止まる。

 庭のバラが風に揺れ、香りが漂う。


「……いい匂い。これ、シャーロットさんのお世話ですか?」


「ええ。彼女は昔から花を枯らしたことがない。

 “命あるものには敬意を”――それは母の教えでもあります」


「素敵ですね」


 短い会話の合間に、沈黙が訪れる。

 けれどそれは気まずくも重くもなく、

 風の音と心臓の鼓動がちょうどよく混ざり合うような静けさだった。


「……変ですね」


「何がです?」


「こうして並んで歩いていると、まるで学生時代みたいです。

 授業のあと、ちょっとコーヒーでも、って誘われそうな感じ」


「――もし誘ったら、来てくれますか?」


 その問いに、莉理香は一瞬言葉を失った。

 英国の曇り空の下、アレクシスの瞳はどこまでも穏やかで、真っ直ぐだった。


「……紅茶なら、考えます」


「では、最高の茶葉を用意しましょう」


 二人の笑い声が、バラの香る庭に溶けていった。


 その様子を少し離れた場所から使用人たちと見ていたシャーロットは、

 スマートフォンを構えながらにっこりと呟く。


「――これ、完全に進展の予感ですわね。

 #竜神と英国紳士、更新準備っと」


 その表情に英国貴族令嬢の面影はなく、ただ兄と友人の恋模様をウォッチングする好奇心旺盛なハンターがそこにいるのみだった。

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