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第66話 兄と妹、竜神をめぐる報告

 ――ロンドン・外務省本庁。


 午前七時。灰色の雲がまだ街を覆う時間帯、ロンドン外務省の長い廊下を、革靴の音が静かに響いていた。

 ステンドグラスを透かした早朝の光が、冷たい大理石の床に淡く反射し、古い建物の壁を虹色に染め上げる。

 重厚な扉の向こう――古色を帯びた会議室には、すでに数名の官僚が待機していた。

 その中央で、アレクシス・ハワード卿は報告書を静かに閉じ、深く息を吐く。


机上には、日本政府からの公式報告の写し――

 タイトルは英語で、《Subject: Phenomenon of Instantaneous Spatial Relocation (桐嶋莉理香氏)》。

 整ったフォントで印字された“転移”の文字が、やけに現実離れして見える。


「……また一歩、常識が遠のいたなぁ」


 吐き出すような独り言。

 声には驚きよりも、どこか諦めに近い響きがあった。

 それを聞いた副官は、報告書を手にしたまま姿勢を正す。


「――ハワード卿。日本側の見解としては、“本人の意思以外で制御不能ではあるが、危険性なし”とのことです。

 また、英国との個人的な交流に関しても、制限は設けない方針だと」


「その“個人的交流”ってやつが、問題なんだよ」


 アレクシスは額を押さえ、深くうなだれた。

 机の脇には、開きっぱなしのタブレット。そこにはSNSのニュースフィードが流れ、世界中の人々が興奮気味にコメントを連ねている。


《#シャーロット嬢日本滞在記 世界トレンド1位》

《“竜神とお茶した英国令嬢”が可愛すぎる!》

《シャーロット・ハワード嬢、奇跡の人・桐嶋氏と笑顔でツーショット》


 画面に映るのは、浅草寺の境内。

 色鮮やかな朱の鳥居を背景に、シャーロットは満面の笑みを浮かべていた。

 その隣には――桐嶋莉理香。

 柔らかい微笑みとともに肩を寄せ、まるで長年の友人のように親しげな距離で並んでいる。


 アレクシスはその写真を見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。


「……まるで、おとぎ話だ」


 ぼやく声に、副官は口元を引きつらせるように笑う。

 冗談として受け止めていいのか迷ったのだ。

 だが上司の表情は真剣そのものだった。


「妹君、すっかり人気者ですな。“竜神と最も親しい英国人”――などという呼称まで生まれています。

 正直、外務広報部が一番驚いております」


「……皮肉なものだな」


 アレクシスは椅子の背にもたれ、苦笑する。

 世界中が政治的な思惑で桐嶋莉理香に近づこうとする中、

 妹シャーロットは、ただ“人として”彼女に接し、

 結果として深く信頼を得てしまった。


 それは奇跡でも策略でもない。

 ――純粋な好奇心と、他人を疑わない心から生まれた偶然の奇跡。


 兄として、誇らしい。

 けれど同時に、胸の奥に少しだけ悔しさが滲む。


「本来、私がやるべきだったんだ。

 彼女を“特異点”としてではなく、“人”として見ることを。

 だが、妹は……あっさりやってのけた」


 その声には、嫉妬ではなく、敗北に似た苦笑が混じる。

 副官は言葉を選びながら、静かに応じた。


「……卿もまた、彼女を“人”として見ておられるのでは?」


 アレクシスは一瞬目を伏せ、それからゆっくりと笑った。

 だがその笑みは、自嘲にも似ていた。


「もちろんだ。最初からずっと、そう思っている。

 彼女は確かに神の器かもしれない。

 だが、悩み、迷い、笑う――誰よりも人間らしい女性だ。

 あんな目を見たら、とても“異能者”なんて言葉で括れやしない」


 そのとき、一瞬だけ沈黙が訪れた。

 重厚な時計の針が、コツリと音を立てる。

 副官は静かに頷き、目を伏せた。


 アレクシス・ハワード卿――英国随一の誠実さと冷静さを誇る上級貴族の一角。

 だが今の彼は、職務の枠を超えて“ひとりの男”として語っていた。

 その声音には、敬意と……ほんの少しの、抑えきれぬ感情が滲む。


 やがて副官が、ためらいがちに問いを重ねた。


「……失礼ながら、卿。

 もし桐嶋氏が再び英国を訪れることがあれば――どうなさいます?」


 アレクシスは答えず、窓の外へ視線を移した。

 朝霧に煙るロンドン。テムズの川面が鈍く光を返し、その奥で歴史ある議事堂の尖塔が陽光に透けている。

 長い沈黙ののち、彼は静かに言葉を置いた。


「……彼女が望むなら、私は歓迎したい。

 ただし“外交賓客”としてではない。まずは“友人”として、だろうね」


 それは自分の立場からの台詞ではなく、ひとりの人間の願いだった。

 副官は目を細め、その真摯な表情に何も言えず、小さく息をついた。


 再び、室内に静寂が満ちる。

 外では新聞配達のバイクの音が遠ざかり、古い議事室の窓辺を淡い風が撫でた。


 アレクシスは手元の報告書をもう一度見下ろし、小さく息を吐く。

 ――“転移”。

 あり得ない奇跡を、彼女はただ「できるようになったから」と言ってやってのけた。

 世界の人々がもはや”神”と呼ぶことを疑わない存在を、彼は一人の女性として見続けている。


「……シャーロットの純粋さは、時に外交を超えてしまう。

 そして――桐嶋莉理香嬢は、それを拒まない優しさを持っている」


 苦笑交じりに呟きながら、アレクシスは椅子の背にもたれた。

 副官はそんな上司を見つめ、言葉を探すように小さく息を整える。


「……卿。

 それでも、敬意を失わなければ、きっと道は違えません。

 日本側の報告にもありました――

 『桐嶋莉理香が理性的であるのは、人間関係によるもの』と」


「……ああ。やはりそうだろうね」


 アレクシスは頷き、窓の外に目を細めた。

 白い光が議事室の床を照らす。

 その表情には、官僚としての冷静さではなく、兄として、そして一人の男としての苦い微笑が浮かんでいた。


「彼女を盲目的に神と呼ぶことも、力の象徴として見ることも――どちらも愚行でしかない。

 我々が最も失ってはならないのは彼女の意志に対する“敬意”だよ。

 それを欠いた瞬間、どんな国も、彼女の信頼を失うのさ」


「……英国も、ですか」


「例外はないだろうね。

 人の信頼を得るには、力ではなく誠実さしかない。

 妹がそれを証明してみせたじゃないか」


 アレクシスはわずかに笑う。

 その笑みは自嘲であり、同時にどこか誇らしかった。


「……まったく、あの子は兄を出し抜く天才だ。

 私が十年かけて積み上げようとした信頼を、たった一ヶ月で築き上げた。

 しかも、本人はまったく自覚していない」


 副官が少し笑いながら頷く。


「妹君は“外交官”ではなく、“友人”として接しておられます。

 その純粋さが、むしろ彼女を救っているのかもしれません」


「皮肉だな。だが、最も正しいことをしたのさ」


 アレクシスは椅子を押し、立ち上がる。

 窓辺に歩み寄り、ステンドグラスを透かした光を肩に受けた。

 淡い光がその横顔を照らし、報告書の白紙を虹のように染めていく。


 副官が資料を束ねながら言う。


「――外務省としては、桐嶋氏との直接接触は当面見合わせる方針です。

 ただし、妹君の非公式な交流は黙認することに。

 “情の交流”が最も安定している、との判断です」


「……“情の交流”か。嫌な言葉だが、正しい判断だ」


 アレクシスは苦く笑い、報告書の末尾に署名した。

 それは、英国貴族としての承認であり、兄としての“容認”でもあった。


 そのとき、机上のタブレットが軽く震えた。

 画面には、妹からの新しい投稿。


 《#今季の東京スイーツ探訪 #竜神先生おすすめ!》


 添付された写真には、カフェのラテアート――泡の模様が、どう見ても“竜”の形をしている。


 アレクシスは思わず吹き出した。

 副官もつられて笑い、室内の重苦しい空気が少しだけ和らぐ。


「結果としては、正解でしたね。

 彼女の隣にいるのが、一国の武官でも外交官でもなく――“友人”でよかった」


「……ああ。まったく、その通りだ」


 アレクシスは再び窓の外へ目を向けた。

 ロンドンの曇天の彼方に、うっすらと陽光が滲む。

 それはまるで、遠く離れた東京の朝の青を思わせる色だった。


「――どうか、あの笑顔が続く世界であってほしい。

 それだけが、今の私の願いさ」


 祈るような独白が、静かな議事室の空気に溶けていった。

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