第65話 信頼による安全保障
――霞が関・官邸地下会議室。
分厚い防音扉が閉じられると、外界の喧噪は完全に断たれた。
長机を囲む十数名の人影。
内閣官房、外務、防衛、公安、そして探索者協会の代表――。
紙の擦過音、キャップの外れる乾いた音――それらが緊張の底に沈んで、会議室全体が薄く張り詰めていた。
その末席で、高村は静かに報告書を閉じた。
「――以上が、桐嶋莉理香の“転移能力”に関する現状です。
意識的な発動が可能である一方、本人以外への再現は不可能と確認されています」
会議室に重苦しい沈黙が落ちた。
蛍光灯の白光の下、誰もが顔をしかめ、目を伏せる。
最初に口を開いたのは、防衛省の局長だった。
声は低く、抑えてはいるが、底にざらついた焦燥が混じっている。
「……つまり、“竜神”がどこへでも行けると」
「理論上は、です」
「理論上で十分だろう」
別の官僚が、乾いた笑いに似た吐息で言い捨てる。
開いた資料に指を滑らせ、諦念を塗り込めるような口ぶりだ。
「距離無制限の転移。国境線もなにも関係ない。
そんな存在をどうやって管理する?」
高村は眉根をほんのわずか寄せた。
ペンで机を小さく一回、こつ、と叩く。自分の呼吸と会議室の呼吸を合わせるための、ささやかな合図のように。
「管理は不可能と考えるべきです」
「……は?」
空気が揺れた。数人が思わず、資料から目を外し、高村を凝視する。
「どうやって“転移を禁止”するおつもりですか? GPSタグでも?
彼女は風も操れ、空も飛べる。転移できなくても同じことです。
“物理的に止める”という発想自体が、もはや無理筋なんですよ」
ざわめきが走った。
数名の官僚が資料を見合わせ、唇を噛む。
高村はさらに言葉を重ねた。
「現実問題として彼女を拘束できる手段は存在しません。
規則違反を理由に“解雇”したところで、制御下から外れるだけです。
――クビにした瞬間、形式的にも彼女への指揮系統を失う。
それで、誰が責任を取るんですか?」
防衛局長の表情が固まる。
反駁の言葉は喉元まで来て、形にならない。
高村の声は静かだ。だが、その静けさにだけ怒気が漂う。
怒鳴らないぶん、膝の上で握られた拳に血が集まっているのが自分でもわかった。
「桐嶋は、今も理性的で、倫理的に行動しています。
それは“法”でも“命令”でもなく、“人間関係”で保たれているんです。
救護課の仲間、現場の信頼、そういう“絆”が彼女を人の側に留めている。
もしそこを壊したら――竜神を敵に回すことになります」
外務省の担当官が、恐る恐る糸口を探す。
「……しかし、各国がすでに外交的に動いています。
英連邦側では“桐嶋氏との文化的交流”という名目で、要人の接触が進められている。
例の“国際プロポーズ”騒動も――」
「ええ、存じてますよ」
高村の視線が、わずかに鋭さを増した。
指先が机を一度、こん、と叩く。その小さな音が、室内の空気をぴんと張る。
「――あれを“政治利用”と呼ばずになんと呼ぶつもりですか。
竜神を外交カードにする? 冗談じゃない。
人間の恋愛感情まで国家間交渉の材料にするつもりですか」
誰も答えない。答えられない。
沈黙が巡り、時計の秒針だけが冷たく前へ進む。
高村は書類を閉じ、言い切った。
「いいですか。桐嶋莉理香が“怒ったらどうなるか”、誰も想像していませんね。
彼女が自制しているから世界は平和なんです。
彼女が“自身の倫理感”で止まっているから、今が保たれている。
その理性を侮辱して利用したら――責任、取れますか?」
痺れるような沈黙。
椅子の軋み音すら、誰も鳴らせない。
内閣補佐官が、ようやく息を吐いて口を開いた。
乾いた唇が、慎重に言葉の輪郭を作る。
「……つまり、現状維持が最善、と?」
「ええ。彼女に報酬や称号を与えるのは構いません。
ただし、“操ろう”としないで頂きたい。
命令も拘束も意味がない。信頼関係の中で、穏やかに動いてもらうしかない」
補佐官は椅子にもたれ、天井の蛍光灯を一瞬だけ見た。
そのまぶしさが痛い。だが目を閉じると、もっと痛い現実が瞼の裏に広がる。
誰かが呟く。半分は自嘲、半分は納得。
「……まるで、神との共存政策だな」
「その認識で違いありませんよ」
高村は淡々と応じる。語気に虚勢はない。
ただ事実を、事実のまま卓上に置く。
「“神”を封じることはできません。
ならば、敬意と信頼で共に生きるしかない。
幸い、彼女はまだ“人”でいることを望んでいます」
言葉が、ほんの少し空気を緩めた。
救いというより、唯一の手がかり。
その細い綱を、全員が指先で確かめるように心で握る。
だが高村の顔つきは崩れない。
声を落とし、最後の釘を打つ。
「……ただし、最後に一つだけ申し上げます」
彼は報告書の表紙をゆっくり叩いた。
乾いた一音が、金槌のように会議室の芯を打つ。
「――“竜神”を本気で怒らせたとき、誰が責任を取れるのか。
それを想像できない者は、この席にいないほうがいい」
空気が一段、冷えた。
笑った者は一人もいない。椅子の足が床を擦る音すら、憚られる。
「桐嶋莉理香は、命令ではなく“信頼”で動く。
その信頼を裏切った瞬間、我々の手には何も残らない。
――どうか、そのことを忘れないでください」
やがて会議は静かに解散となった。
防衛省の職員は無言で書類を鞄に滑り込ませ、外務の面々は俯いたまま退室する。
椅子の列が一席ずつ空になり、白い長机の天板が広く露わになる。
高村だけが、最後まで席に残った。
窓のない地下会議室、その重い扉が再び閉じる音を背に、彼はゆっくりと息を絞り出した。
「……誰が“竜神の管理”なんて言い出したんだか」
独り言は、苦笑にも嘆息にも似ている。
諦め――半分。誇り――半分。
人智の外に立った部下を、それでも“部下”と呼べることへの矜持が、声の温度を少しだけ上げる。
「――あいつはうちの部下だ。
少なくとも、彼女がそう望む限りは」
報告書を胸に抱え、立ち上がる。
扉の向こうには、眩しい地上と、面倒くさい現実と、頼もしい背中が待っている。
高村はネクタイを軽く直し、足取りを整えて、静かに部屋を後にした。
***
――永田町・内閣情報分析室。
分厚いブラインドを通して、柔らかい光が差し込む。
数名の若い官僚がモニターに囲まれたデスクで、真剣な顔をしてキーボードを叩いていた。だが、その画面に映っているのは――国家機密ではなく、SNSのタイムラインだった。
「……あー、またトレンド入りしてますね。“#シャーロット嬢日本滞在記”。」
「マジか。今週で何回目だ?」
「五回目です。“#竜神様と歩いた浅草”がバズってからずっとです。
しかもこれ、“公式広報”じゃなくて全部民間のまとめ垢ですよ」
分析官の一人が眉をひそめ、別モニターにグラフを映し出した。
“いいね数推移”が急角度で伸びている。
「コメント欄も半分は『英国の王族級マナーすごい』『庶民的でかわいい』みたいな好意的な反応ですけど、
残り半分は『この人、兄の婚約者候補と仲良すぎない?』『むしろ妹のほうが親密では?』ってざわついてます」
「……“むしろ妹のほうが仲がいい”って、どういう話ですか?」
「たぶんこれです。見てください、“#カフェ巡りwith竜神先生”」
分析官が画面を拡大する。
そこには、東京・谷中の古民家カフェでスイーツを前に笑うシャーロット・ハワード嬢の姿。
その隣――写真の隅に映る救護課の制服。
笑顔の角度と距離感、自然な仕草。
見る者が見れば、ただの観光ではなく“友情”に近い空気が伝わってくる。
「……あー。これ、兄より仲良いわ」
「でしょ。英国側のSNSでは“#SisterDiplomacy(姉妹外交)”ってタグまでできてます。しかもご本人がコメントしてるんですよ。“日本の友人は、私の宝物です”って」
「うわぁ……」
室内に微妙な沈黙が流れる。
その空気を破ったのは、主任格の男性だった。
五十代、眼鏡越しの視線が鋭い。
「で、分析は?」
「はい。我々としては――シャーロット・ハワード嬢の行動は、“非公式”かつ個人的な接触ですが、結果として竜神・桐嶋莉理香氏に一番近づいたVIPになっています。
彼女だけが、“国家”や“組織”ではなく“個人”として信頼を築くことに成功した」
「……人間関係による安全保障、か」
「彼女自身はおそらく自覚していません。
兄アレクシス卿の想いを確かめるという“好奇心”から来日しただけ。
けれど結果的に、“竜神と直接繋がる非政治的パイプ”になったわけです」
「……皮肉だな」
主任がため息をついた。
隣の若手が苦笑いしながら呟く。
「まさか外交のキーパーソンが“ブラコン妹”とは」
「笑いごとじゃないぞ」
主任が低い声で制す。
机の上の報告書を叩きながら言葉を続けた。
「英国側はどう動いている?」
「兄のハワード卿は、現在は沈黙しています。
ただし外務省経由で“非公式面談の再調整”をしています。
現時点で問題化の兆候はありませんが――
やはり妹の人気が兄の政治的立場を凌駕しつつありますね」
「……なるほど。世界が皮肉にも“感情”のほうを信用し始めたわけだ」
主任は書類をめくり、静かに唸った。
国防会議で議論された「竜神抑止論」――。
そのすべてが、いま一人の少女の笑顔で上書きされている。
「……だが、問題はここからだ。
桐嶋氏本人が政治利用を嫌っている以上、どこかがなにかを仕掛けた瞬間、バランスが崩れる」
「はい。実際に彼女は“利用されること”への警戒を強めています。
先日の高村課長の報告でも、“政治的利用への不快感”が明記されていました」
「だろうな……もし彼女を本気で怒らせたら、外交どころの話じゃ済まない」
室内が一瞬、静まる。
その現実を誰も否定できなかった。
「けど――」
若い分析官が小さく口を開いた。
モニターには、シャーロットの笑顔が映っている。
「彼女、ほんとに楽しそうですよ。
政治でも立場でもなく、“友達”として接してる感じが伝わってきます。
……なんか、見てると救われるというか」
主任はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「――そうだな。
我々がどんな理屈を並べても、普通に築かれた“人間関係”には勝てない」
窓の外では、雨上がりの陽光が街を照らしていた。
SNSのトレンドには、また新しいタグが浮かんでいる。
《#シャーロット嬢ありがとう》
《#竜神様に友人ができた日》
分析班の一人が、思わず苦笑しながら呟いた。
「……これ、歴史の教科書に載るんじゃないですか。“ブラコン妹、奇跡の副作用”って」
「やめろ、それが正式名称になったら困るだろ」
笑いがこぼれる。
だがその笑いは、安堵にも似ていた。
誰もが知っていたのだ。
この脆い平和が、理論や条約ではなく――
一人の少女の無邪気な“人間らしさ”の上に成り立っていることを。




