第64話 竜神様は手がかかる
――翌朝、救護課研究室。
夜通しデータをまとめた榊は、カップ麺をすすりながら青白いモニター群をぼんやり眺めていた。対面では、よく眠って回復したらしい莉理香が、コンビニのパンをかじりつつ端末を軽やかに操作していた。
問題は提出しなければならない“報告書”だった。
「……で、どうします? これ、上に報告するしかないですよね?」
パンをもぐもぐしながら投げられた問いに、榊は箸を止め、深く長い溜息を落とした。
「したくないですねぇ……。正直、また防衛省案件になりますよ。『桐嶋莉理香、距離無制限の空間転移可能』なんて書いたら、世界中の安全保障会議が同時に胃痛を起こします」
莉理香は苦笑しながらコーヒーを啜った。
竜核の脈動は穏やか。転移による負荷も残っていない。
彼女にとって”転移”は、歩くことや呼吸することと同じ“自然な行為”になりつつあった。
「でもさ、考え方を変えると……別に私が“どこでも行ける”って今さらじゃないですか?」
「今さら?」
榊が眉を上げる。
莉理香は指先で机をとんとんと叩きながら、あっけらかんと続けた。
「だって、仮に私が“転移”じゃなくて、普通にどこかへ行くとしても、誰も止められませんよ? “行く”って決めたら、結局行きます。出入国審査も、旅券も、形式として通るだけ。――“止められない”って意味では、何も変わってないですよね」
榊は一瞬ぽかんとし、それから小さく吹き出した。
「……確かに。そもそも、あなたを“実力で止められる存在”がこの世にいませんからね。抑止力は最初からゼロで手段が一つ増えただけ、という話ですね」
「そう。だから、“転移能力があるから国際問題”っていう発想自体が、冷静に考えるとちょっとズレてるんですよ。
もともと誰も止められないんですもん。じゃあ転移できたところで何が変わるの? っていう」
莉理香の声は柔らかく、しかし妙に説得力があった。
榊は頬をかきながら、少し呆れたように笑う。
「あなた、時々さらっと恐ろしいことを言いますね。
でもまぁ、移動手段が増えただけで、”抑止力なんてものはもとから存在しない”って考えれば……」
そして、ふと真顔になる。
「――つまり、“信頼”が唯一の安全保障だということです。あなたが“ひどいことをしない”と世界が信じる。そこに賭ける以外、術がない」
その言葉に、莉理香は少し目を伏せた。
静かにカップを机に戻し、低く呟く。
「……そんなものに、世界の均衡を乗せられるの、怖いですよね」
「ええ。けれど、それが現実です。神話の時代なら、あなたは“国を護る竜神”と呼ばれていたでしょうね」
「言い方が生々しいなぁ」
思わず苦笑しながらも、莉理香はその重みを否定できなかった。
確かに、今の自分は国家の安全保障の一部ですらある。
だがそれは、誇りよりも責任に近い重さだった。
「……まぁ、私が暴れることなんてありませんよ。
お守りを置いたって、誰かを傷つけるために使うつもりもないですし。
だって、“救護課”の仕事って、そういうのじゃないですから」
「その言葉、録音しておきます」
「なんでですか」
「国際会議で証拠として出せますから。“本人がそう言ってました”って」
莉理香は思わず吹き出した。
笑いながらも、その中に少しの安堵があった。
この軽口が交わせるうちは、まだ自分は“人間”でいられる気がした。
榊は端末を閉じ、ふと真剣な声で言った。
「ただ――あなたがどこにでも行けるってことは、“どこにでも届く”ってことでもあります。
救護として現場に駆けつけるなら、今までより早く、正確に。
でも同時に、世界中の祈りや災厄が、あなたに直結することになる。
……その覚悟だけは、しておいてください」
言葉の端に、研究者としての冷静さと、友人としてのためらいが同居する。警告であり、覚悟の共有だ。
莉理香は、静かに頷いた。竜核が呼応して、胸の奥で一度だけ、確かな音を打つ。
「……わかってます。“力が届く場所が増える”ってことは、“助けを求める声も増える”ってこと。だから――ちゃんと“選びます”。どこへ行くのか、誰のもとへ行くのか」
榊はその言葉に、静かに頷いた。
「選ぶ、ですか」
「はい。“行ける”ことと“行くべき”ことは、同じじゃありませんから」
その言葉に、室内の空気がわずかに温かくなる。
冷たい機器の光の中、莉理香の笑みはどこまでも人間的だった。
やがて彼女は立ち上がり、窓の外に目を向けた。
遠く霞む高層ビル群の上を、白い雲が流れている。
「……でも、ほんと不思議ですよね。
大人になって“行ける場所が増える”だけで夢のようだったのに、今は“世界のどこにでも行ける”なんて。
それなのに――やっぱり、行きたいのは知人のいる場所なんですよ」
榊は微笑んだ。
「あなたらしいですね」
莉理香は頷き、くるりと振り向いた。
「よし、次はマーカーを置いて試してみましょう」
榊は頷き、端末を再び起動した。
「……そうですね。“緊急転送網の運用試験”といったところでしょうか?」
「ものすごく無難な感じだけど、緊急転送ってなに?っていう違和感がすごい」
莉理香のツッコミが響き、研究室に小さな笑い声が広がった。
けれどその背後で、静かに竜核が脈動を刻む。
――それはまるで、世界そのものが新たな呼吸を始めたようだった。
***
――救護課・課長室。
莉理香はわずかに背筋を伸ばし、榊と並んで部屋に入った。
机の上には書類の山と、冷めかけたコーヒー。
高村課長は眉間に皺を寄せたまま、彼らを見上げた。
「……嫌な予感がする顔ぶれだな」
「いえ、そんなことは……ありますね」
榊が正直に認めてしまい、莉理香が思わず肘で小突いた。
高村のため息が一段深くなる。
「まぁ、座れ。……で、今度は何をやらかした」
「やらかしては、いません。ちゃんとした成果報告です」
莉理香は姿勢を正し、端末を取り出した。
画面には、昨日の転移実験のログと計測データが並んでいる。
榊が要点を端的に説明した。
「――結論から申しますと、桐嶋さんが空間転移に成功しました」
その衝撃的な一言に、課長の手が止まった。
数秒の沈黙ののち、低い声が返る。
「……転移?」
「はい。いわゆるワープです」
榊が補足する。
高村の眉がぴくりと動いた。
「ワープって言うな。庁内文書にそんな単語が載ったら、防衛省から呼び出し食らうぞ」
「ですよねぇ……」
「“空間跳躍”で統一しましょうか」
「もっと悪い!」
高村は頭を抱えた。
机の上の書類を指で弾きながら、ぼやくように呟く。
「……また上に説明するのに困るネタが増えたな。どう報告しろってんだ……。
『救護課員が転移能力を獲得しました』?」
「でも、冷静に考えると、今さらなんですよ」
莉理香が口を出す。
高村は半眼で睨んだ。
「どういう意味だ」
「仮に私がどこかへ“行く”つもりなら、転移がなくても誰も止められません。
だから、“転移できるようになった”ところで状況はさほど変わらないんです。
結局、使う人間がどうするかの問題ですよ」
高村はしばらく彼女を見つめ、やがて苦笑した。
その笑いは呆れと、少しの安心が混ざったようなものだった。
「……まったく、お前は時々悟った坊主みたいなことを言うな。
だが確かにその通りだ。お前を縛る鎖なんて、最初から存在しないんだよな……」
それでも、と高村は椅子を傾け、真顔で続けた。
「それでも報告は必要だ。
“できること”と“やっていいこと”は別だ。公務員として、それを線引きするのが俺たちの仕事だ」
「……はい」
莉理香は静かに頷いた。
高村の声には怒気ではなく、明確な信頼が込められていた。
「それで、転移の仕組みは?」
「えっと、この前お寺で買ったお守りがきっかけで……」
「お寺?」
高村が目を細める。
莉理香は苦笑しながら説明を続けた。
「観光のときにシャーロットさんに渡したお土産があったんです。
そのお守りに、私の力がうっすら残ってたみたいで――それが“マーカー”になってました。契約者の人たちにも同じことが言えて……
試してみたら、繋がりをたどって榊さんのところに転移できたんです」
「……つまり、印を置けばどこへでも行ける、と」
「理論上は」
「……理論上って言葉、嫌いなんだよなぁ」
課長の嘆息が部屋にこだまする。
榊は真面目な顔で言葉を添えた。
「転移は桐嶋さんしかできません。
また、記録上は救護目的以外には不用意に発動させない方針を明記すべきだと思います」
高村は腕を組み、二人を見渡した。
しばしの沈黙。
外の雨音がやけに大きく聞こえた。
「……わかった。報告は俺のほうでまとめる。
ただし、『転移現象の観測例あり』程度にとどめておくかな。
そのほうがまだマシだ」
「ありがとうございます」
高村の口調は皮肉めいたものだったが、そこには温かいものが混じっていた。
高村は深く息を吐き、莉理香へ視線を戻す。
「桐嶋。お前がどこにでも行けるってのは、便利でもあり、危険でもある。だから――お前自身の線引きは、絶対に忘れるな」
「……はい。わかってます」
莉理香の返事は穏やかで、しかし迷いがなかった。
高村はその声を確かめるように頷くと、机の上の報告書を一枚めくった。
「まったく。神様を部下に持つと、胃薬が増える一方だ」
「すみません……治します?」
「……頼む」
トンッと軽く指で机を叩く音。
そのやりとりに、部屋の空気が少しだけ和んだ。
榊がくすりと笑い、莉理香もつられて肩をすくめる。
高村は深く椅子にもたれかかり、最後にぼそりと呟いた。
「……まぁ、報告は俺が引き受ける。
ただし、“人を助けるために使う”って路線だけは、絶対に曲げないでくれ。いいよな?」
「はい、課長」
莉理香の声は、凛としていた。
竜神の力を持つ彼女が、確かに“人としての立場”を忘れていない。
その事実が何よりの救いだと、高村は心の奥で小さく息をついた。
――雨脚が強くなる。
窓の向こう、灰色の空を見上げながら、高村は独り言のように呟いた。
「まったく、うちの竜神様は……手がかかる」
その言葉に、莉理香は少しだけ照れくさそうに笑った。




