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第63話 世界への扉

 ――同日午後、救護課研究棟・実験区画。


 転移成功の記録が保存されたその瞬間から、榊の研究者魂は完全に点火していた。

 モニターが次々と起動し、青白い光が研究室を照らす。

 壁一面に並んだ画面に、量子共鳴、魔素位相、時間座標補正のグラフが同時に立ち上がっていく。

 キーボードを叩く音が小気味よく響き、榊の指は文字通り走っていた。


「……榊さん、テンション高いですね」


 隣の椅子で莉理香が小首をかしげながら、温かい紅茶を口にした。

 香り立つ湯気が冷たい実験室の空気に溶け、まるで一人だけ違う世界の人間のように落ち着いている。

 対照的に、榊の目は完全に“覚醒した研究者”そのものだった。


「当然でしょう! これは“生体座標跳躍”の実証例ですよ? 既存の空間理論がまるごと書き換わります!」


 興奮に声が弾んでいる。

 彼女は勢いそのままにホワイトボードへ向かい、次々と式を書き殴っていった。

 四次元位相のズレを補正するための共鳴定数、精神同調による座標安定化率、そして――“媒介体”の存在意義。

 数式の奔流が、彼女の頭の中にある宇宙の縮図を描き出すようだった。


 莉理香はその光景を、若干引き気味に見守る。

 紅茶のカップを揺らしながら、机の上に置かれたお守りを指で転がした。


「媒介体って、契約者やこれのことですよね?」


「ええ。契約者もしくはお守り。あなたと同調して、“到達先のアンカー”になっています。……つまり、理論上は――」


「一度その場所に“置いておけば”、あとで好きな時に行ける、ってことですね」


 その言葉に、榊のペンが止まる。

 沈黙ののち、彼女の唇に危険なほど純粋な“理系的興奮”が浮かんだ。


「――そう。媒介を“固定座標化”できれば、再訪が自由になる。

 誰かに持っていってもらえば、あなたはそこに“飛べる”。最速の移動手段ですよ」


 榊の声はさらに熱を帯びる。

 だが、莉理香はその“理論上の万能性”に背筋がひやりとした。


「……榊さん、それ、言い方を変えると“どこにでも瞬間移動できる人間”ってことになりますけど」


 榊の笑みが、ぴたりと固まる。

 理屈ではわかっていた。だが“現実”として口に出されると、あまりに異常だった。

 咳払いひとつ、彼女は真顔に戻る。


「……ええ、まぁ、そうなりますね。理屈の上では、ですが」


「理屈の上でも、怖すぎませんか?」


 軽くため息をつき、莉理香は机に頬杖をついた。

 竜核が胸の奥で静かに脈動している。

 その鼓動は先ほどの転移の余韻をまだ残しているようで、身体の奥で微かに光が滲む。


「……でも、確かに“繋がってる”って感じはあります。

 お守りに、私の“波”が染み込んでるというか。たぶん、私が意識しなくても、“ここは安全な座標”って認識してくれてる」


 榊はその言葉に食いつくように身を乗り出した。


「安全な座標――つまり、“環境を記憶している”と?」


「そう。空気の密度とか、温度、空間の歪みとか、そういうのを全部。

 だから、知らない場所には転移できない。繋がりがないと、無理っぽいです」


「なるほど……自己防衛本能のようなものですね。

 そうであれば、誤転移のリスクは極めて低い」


 榊は顎に手を当て、満足げに頷いた。

 その横で、莉理香はお守りをくるくると回しながら、ふと苦笑を漏らした。


「……これ、すごく便利な気もするけど、悪用しようと思えば最悪ですよね」


 榊がペンを止め、目だけで彼女を見た。

 彼女は軽く肩をすくめて続ける。


「例えばですよ? 誰かにこのお守りを持っていってもらって、私がその“先”に飛んだら――

 世界中どこへでも、警備も検疫も関係なく行けちゃう。

 出入国もパスポートも不要。政府機関だって止められない」


 言葉が淡々としているのが、かえって重かった。

 その危険性は、榊自身もほんの数秒前に頭をよぎっていた。

 そしてそれが、冗談では済まない現実味を帯びていることを、彼女は痛感していた。


「……確かに。軍事転用の危険性がありますね。


 榊は、慎重に言葉を選ぶ。


 「でも安心してください。あなた以外に発動できるとは思えません。

 このお守り自体はマーカー機能しか持たない。媒介を動かせるのは、あなたの“意思”だけです」


「いや、そうじゃなくて。私自身が不用意に使ったら、ですよ」


 その一言に、空気が静かに張りつめた。

 榊は目を伏せ、ゆっくりとペンを置く。

 莉理香の声には、軽口の色はもうなかった。


「……確かに、それは一番怖いですね」


 榊は深く息を吐き、彼女を見据える。

 その瞳には、科学者としてではなく、“同僚”としての真摯な色が宿っていた。


「桐嶋さん。

 あなたの力は、便利で、そして……危険です。

 扱い方を誤れば、世界のほうがあなたに振り回される」


 莉理香は静かに頷き、目を伏せた。

 それはまるで――自分の覚悟を確かめているようだった。


 彼女は、微笑んだ。

 その笑みは柔らかく、それでいてどこか遠くを見ていた。


「……大丈夫ですよ。私、そこまで無茶はしませんから。

 ――たぶん」


 榊の肩が、ほんのわずかに落ちた。

 “たぶん”という言葉が、一番信用ならないことを彼女はよく知っている。

 だが、それでも。

 彼女はどこか安心してしまう自分に気づき、苦笑した。


「……たぶん、ですか。全然安心できませんね」


「まぁ、よく言われます」


 研究室に、ようやく笑い声が戻る。

 だが、その奥には確かに――新たな時代の胎動のような、静かな脈動が響いていた。


 莉理香は苦笑し、少し肩の力を抜いた。


「……まぁ、怖がってばかりも仕方ないですし。うまく使えば、かなり役立ちますよ。

 たとえば現場に先行してマーカーを設置しておけば、避難者や契約者のいる地点に瞬時に行ける」


 榊はその言葉を受け、眼鏡の奥で目を細めた。


「被災地の候補をマーカーで埋め尽くせば、あなたは“どこにでも現れる神”になりますね」


「そういう言い方やめてください。なんかもう、“神様アプリ”みたいじゃないですか」


「でも実際、あなたはそれをやろうとしてません?

 私は止めませんよ。安全性を検証して、制御法を確立しましょう」


 そう言いながら、榊はすでに端末を操作していた。

 モニターに地図データが浮かび上がり、仮想空間上にマーカー座標が次々と設定されていく。


「じゃあ、次は“お守り”そのものをターゲットにしましょう。

 誰もいない区画にマーカーを置いて、あなたがそこへ“飛べる”か確認します」


「……また壁の中に出るパターンじゃないですよね?」


「理論上、大丈夫です。理論上は」


「“理論上”っていうとき、たいてい危険な気がするんですけど」


 冗談めかした声に、榊がわずかに肩をすくめた。

 空気は軽いが、部屋全体には確かな緊張が満ちていく。

 科学と異能――その狭間にある静かな危険を、二人とも理解していた。


 榊が床の中央にお守りを置き、転移マーカーとして設置する。

 莉理香は距離を十メートルほどとり、ゆっくりと呼吸を整えた。


 意識が深く沈み、竜核の脈動が全身へと広がっていく。

 青い光が内側で生まれ、鼓動に合わせて揺れた。


(――行ける)


 思考と同時に、空間がきらめいた。

 細やかな粒子が舞い上がり、彼女の輪郭が霞のように溶けていく。

 光の尾を引きながら、存在そのものがほどけ――次の瞬間、床中央のマーカーの上で再構成された。


「……ふぅ。今度も成功ですね」


 莉理香は軽く息を吐き、指先で髪を整えながら振り返る。

 その姿を、榊は一言も発せず見つめていた。

 モニターの光が彼女の横顔を青く染め、データの数字が静かに流れていく。


「空間位相の再結合が……ノイズなし、誤差ゼロ。

 ……本当に、あなたは物理法則の例外ですね」


「だから言ってるじゃないですか。例外とか言うのやめましょうよ」


 言葉とは裏腹に、莉理香の胸の奥には、はっきりとした手応えがあった。

 空間の揺らぎ、跳躍の感覚、そして再構成された瞬間の“重さ”まで――

 すべてが手に取るようにわかる。

 それはもう、偶然や奇跡ではなく、彼女自身の「感覚」として存在していた。


 ――お守りを媒介にすれば、“どこにでも行ける”。


 一度訪れた場所、誰かの持つマーカー、あるいは契約者の存在そのもの。

 それらすべてが、世界中に散らばる“扉”になり得る。


 そのことを思うと、嬉しさと同時に、背筋が少し冷たくなる。


 榊の声が、静かにその思考を断ち切る。


「……次は、どこまで試すつもりですか?」


 莉理香は少しだけ考え、微笑を浮かべた。


「まずは国内。協会の訓練場とか、災害時の現場とか。

 それから――お守りを持ってる人たち。どこまで届くか見たいですね」


「つまり、遠距離転移の検証ですね。……なるほど、国際実験もした方がいいかな」


 榊の声は真面目そのものだったが、内心は研究者としての好奇心に満ちていた。

 一方で、莉理香はその言葉にわずかに眉をひそめた。


「……“実験”って言葉、あんまり好きじゃないですね。

 私にとっては、あくまで“行けるかどうか”の確認ですから。

 誰かを助けるために使う。それ以外は、怖くて触れられませんよ」


 その静かな決意に、榊は何も言えず、ただ小さく頷いた。


 ――竜核の光は、依然として穏やかに脈打っている。

 莉理香の掌の中、お守りは微かに温もりを帯び、まるで呼吸するように震えていた。


「……さて。次は、もう少し遠くまで行ってみましょうか」


 そう呟いた莉理香の瞳に淡い金色の光が宿っていた。

 その視線の先には、まだ見ぬ地平がある


 ――世界のどこへでも行ける。

 その言葉が、現実になろうとしている。


 その手にあるのは祈りの象徴――“お守り”。

 それを握り締めた瞬間、世界がかすかに震えた。


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