第62話 莉理香、転移の理を掴む
――救護課研究室。
昼過ぎ、庁舎の静寂を破るのは、冷房の微かな風音と、榊がキーボードを叩く軽いリズムだけだった。
その一角で、莉理香は机の端に腰かけ、小さなお守りを掌に乗せていた。
――福聚守(水琴鈴)。
先日の浅草観光で、シャーロット――いや、あの“エミリー”とお揃いで買ったお土産のひとつだった。
ごく普通の開運お守り。どこにでもある、観光の思い出のはず――だったのだが。
「……おかしいんですよね、これ」
ぽつりと漏らした声に、キーボードの音が止む。
榊が顔を上げ、眼鏡の奥の視線をこちらへ向けた。
「また“世界の理”が動いてますか?」
「そういう言い方やめてくださいよ。私がなんかこう……電波系の人みたいじゃないですか」
「いや、もう十分に普通じゃないと思いますが」
軽口を交わしながらも、榊は椅子を回し、興味深そうに彼女の前に移動する。
その目はすでに、科学者の好奇心と緊張を帯びていた。
「浅草寺のやつですよね? 普通のお守りにしか見えませんが……何か感じます?」
莉理香は頷き、ゆっくりと目を閉じた。
静かに、深く、息を吸い込む。
掌の上の小さな鈴を意識の中心に置くと――そこから、淡い光が、細い糸のように立ち上った。
「……ね、見えません?」
榊の眉がわずかに上がる。
「残念ながら、私には“視覚的”には捉えられませんね。ですが……」
彼女は手元のモニターを指差す。
「魔素流動計」の針が、規則的なリズムで小刻みに揺れていた。
「――見てください。空間中の微細な魔素流動が、一定間隔で脈を打ってる。
しかも、この周期……あなたの心拍と一致しているみたいですね」
莉理香は小さく息を呑んだ。
脈拍と同調するリズム――まるで心臓の鼓動が、掌の中の鈴にまで伝わっているようだった。
「……やっぱり。これ、私に繋がってるんですよね」
「つまり、“お守り”を介して?」
「うん。渡したときは、ただ『無事に帰れるように』って祈願しただけなんです。
でも――その“祈り”に、たぶん私の力が乗っちゃったんだと思います」
榊の手が止まった。
理解が追いついた瞬間、その目に一瞬、理論を超えた驚愕が閃く。
「……無意識の付与、ですか。あなたが触れた対象に、微弱な“加護”が残る。
過去にも記録はありましたが……これは“追跡可能”なレベル、ということですか?」
「はい。……お守りを持ってる人の“場所”、なんとなくわかるんです。正確な距離じゃなくて――“存在”の気配が伝わってくる感じ」
莉理香は胸に手を当て、目を閉じた。
静かに、心の奥で響く糸を手繰るように意識を伸ばす。
そして――確かに、そこにあった。
遠く海を隔てた先。
微かに光る一点。
紅茶の香り、穏やかな笑い声、柔らかく揺れるカーテン。
そして、あの――どこか誇らしげな少女の気配。
「……シャーロットのところにも繋がってる。すごく遠いけど、感じます」
榊の表情が引き締まる。
彼女は腕を組み、難しい顔で考え込んだ。
「――位置情報ではなく、“存在感覚”。
つまり、あなたと同調している媒介がある限り、距離は理論上……無限。
それが座標の代わりになる、ということですね」
「うん。たぶん、“飛べる”かも」
淡々とした声だったが、その言葉の意味を理解した瞬間、榊の手が止まった。
「飛べる?」
「ええ。
座標を計算して転移するみたいな大げさなものじゃなくて、“繋がっている”場所へ――瞬間的に移動できる気がするんです」
静寂が落ちた。
榊は無言でペンを取り、ノートに数式を書き連ねる。
空間跳躍理論、魔素共鳴、位相干渉――
科学と未知の境界をつなぐ文字が並ぶ。
「……理屈としては、理解できますね」
ペン先が止まり、榊はゆっくりと顔を上げた。
その目には、いつもの研究者らしい理性と、少しの畏怖が同居していた。
「あなたが媒介を通じて空間的な位相を跨げるなら、距離制限は存在しない。
ただし――問題は“座標精度”です。
お守りのような簡易マーカーで、どこまで安定して“帰ってこれる”か……」
彼女は小さく笑い、わざと軽い調子で言葉を返す。
「心配性ですね。……でも、たしかに試すのは怖いかも」
「当然です。次元跳躍の事故は、冗談になりませんから」
榊は言いながらも、すでに机上のメモに手を伸ばしていた。
莉理香は笑みを深めた。
「でも、もし本当に行けるなら――」
「試してみますか?」
榊の声が、わずかに低く響く。
莉理香は首をかしげて、唇に指をあてた。
「……ほんとに、いいんですか?」
榊は苦笑した。
「いい」とも「だめ」とも言えない、研究者の困った顔だった。
「少なくともここでいきなり実験するのは危険すぎますね。誤って壁の中に出現なんて、笑えませんから」
「それは困りますね……。でも、契約者のところへなら?」
榊が一瞬、眉を動かす。
莉理香の瞳は先ほどまでの軽口とは違う、真剣な光を帯びていた。
その光の奥には、確信にも似た“感覚”がある。
「契約で繋がっている人なら、共鳴がはっきりしています。お守りよりも精度が高いはず。もし転移ができるなら――契約者のもとへは安全に行けると思うんですよね」
榊は無言で数秒、彼女の顔を見つめた。
その間に、計算式でも走らせているように目の奥が細かく動く。
そして、諦めたように深いため息をついた。
「……わかりました。どうせあなたは止めてもやるでしょうし、ならば観測下で試す方がましです。
――ただし、実験条件はきちんと整えます。まず、短距離から」
「了解です。……あ、榊さん、ほんとにいいんですか? 私、飛んだ先で床にめり込んでたら笑えませんよ?」
「笑えませんね。だからこの部屋に“魔素位相モニタ”を張っておきましょう」
榊は立ち上がり、奥の制御卓に向かって操作を始める。
軽い電子音がいくつも重なり、床に埋め込まれた白いラインがふっと灯った。
光が流れるように走り、壁面の計測器が次々と反応していく。
室内の空気が一段引き締まった。
冷たく、透明な緊張。
科学と異能の境界に、二人だけが立っている。
「さて――これで準備は整いました」
榊が短く告げると、莉理香はお守りを机の端に置き、静かに深呼吸した。
呼吸が整うたびに、彼女の周囲の空気がわずかに震える。
「……榊さんのところに、行けるかどうか、試してみます」
「念のため、心拍数と核反応も同時に記録します。あまり無茶はしないでくださいね」
「はい。無茶はしませんって。――“普通に”飛ぶだけです」
榊は小さく吹き出した。
「普通に飛ぶ」――その表現自体が、もはや人間の常識を軽やかに置き去りにしている。
だが、彼女にとってはそれが日常の一部なのだ。
――この人は、もうとっくに“人間”と“神話”の境界線を越えている。
榊は、そんな考えを飲み込みながらも、無言で計測装置を見つめた。
莉理香は目を閉じた。
意識を静め、胸奥の竜核へと沈み込む。
そこには無数の光――契約者たちの気配。
一つ一つが心臓の鼓動のように脈を打ち、世界のどこかで確かに生きている証。
その中で、最も近く、最も穏やかに脈動する光を選ぶ。
(――榊さん)
その名を心の中で呼んだ瞬間、空間が揺らいだ。
研究室の照明が、波紋のように広がって歪む。
床下を走る光が一斉に跳ね上がり、空気の密度が変化する。
耳鳴り――いや、空間の悲鳴のような低音が響いた。
「……っ!」
榊が計測値を確認し、息を呑む。
モニターに映る波形が、激しく跳ねた。
「魔素流動が急上昇……! この空間位相が跳躍準備状態?」
その声に応えるように、莉理香の髪がふわりと浮き上がった。
薄い青白い光が全身を包み、まるで目に見えない竜の翼が広がろうとしているかのようだった。
(いける……!)
胸奥の竜核が応えるように脈打つ。
体の輪郭が薄れ、重力が消える。
音も、感触も、何もかもが遠のいて――
世界が、ひと呼吸の間に裏返った。
視界が切り替わる。
次の瞬間、目の前には――榊の顔。
ほんの一瞬前まで、十メートル先にいたはずの距離が、ゼロになっていた。
「……成功、ですかね?」
莉理香は、きょとんとした表情のまま首をかしげた。
榊は無言でモニターに視線を向け、数値を確かめ――ゆっくりと頷いた。
データは明確に、空間転移の成功を示していた。
しばしの沈黙の後、榊は感嘆とも嘆息ともつかぬ声で呟いた。
「……桐嶋さん。あなた、本格的に“神話の存在”になってきましたね」
莉理香は頬をかき、困ったように笑う。
「やめてくださいってば……そういう言い方」
しかし、その声の奥には、確かな実感があった。
――これは偶然ではない。
お守り。契約。祈り。
すべてが確かに、ひとつの線で結ばれている。
そして――
その線の先にいる人々を、彼女は見失わないだろう。




