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第60話 エミリー改めシャーロットより

 一か月は、思っていた以上にあっという間に過ぎた。

 医学生として真面目に研修に取り組んだ“エミリー・スミス”の姿は、救護課の職員たちにすっかり馴染んでいた。


「エミリーさん、本当に勉強熱心でしたね」


「医学生ってみんなあんなに几帳面なんですか?」


 同僚たちの声には、素直な称賛がこもっていた。

 だが、ただ一人――桐嶋莉理香だけは、心のどこかで違和感を拭えずにいた。


 笑顔の裏に、言葉にはならない“何か”がある。

 悪意でも打算でもない。

 けれど普通の研修生が持つ好奇心よりも、あまりにも強く、深く――観察するような視線。


 それが何なのか、最後まで掴みきれなかった。


 滞在最終日。

 庁舎の前で、エミリーはキャリーケースを傍らに置き、莉理香の前に立った。


「桐嶋先生、この一か月、本当にありがとうございました!」


 いつもの明るい笑顔。

 その声には、心からの感謝がにじんでいた。


「こちらこそ……。えっと、あまり教えてあげられることもなかったと思いますけど」


「そんなことありません!」


 エミリーは勢いよく首を振った。


「患者さんに寄り添う姿勢、仲間と協力する姿、細やかな気配り……どれもわたしの心に深く残りました。あなたの振る舞いは、教科書よりもずっと大事な学びでした!」


「……」


 莉理香は思わず言葉を失った。

 あまりにも真剣で、飾り気のない言葉。

 そこに駆け引きやお世辞の影は一切なく、ただ純粋な敬意と憧れがあった。


「……大げさですよ」


 照れ隠しのように笑って、右手を差し出した。


「でも、そう言ってもらえると嬉しいです」


 エミリーはその手をしっかりと握り返した。

 灰色の瞳が一瞬、強い光を宿した気がして、莉理香の胸にざわめきが走った。


 職員たちに見送られ、庁舎を出るとき。

 エミリーは足を止め、もう一度莉理香を振り返った。


「――またお会いしましょう。必ず」


 その言葉は、明るい笑顔の裏に、確固たる確信を含んでいた。

 莉理香は思わず息を呑み、けれど笑みを返すしかなかった。


「……はい、きっと」


 それがどんな意味を持つのか、自分でもわからないまま。


 数時間後、成田空港。

 出発ゲートの明るい照明の中、スーツケースを預けた“エミリー・スミス”――いや、シャーロット・ハワードは、ガラス越しに滑走路を見下ろしていた。

 遠くで機体のエンジン音が響く。

 周囲には、護衛のSPたちがさりげなく配置されている。


「兄上……やはり、間違っていませんわ」


 唇から零れたその言葉は、静かで、確信に満ちていた。


「――あの方は本物です」


 目を閉じると、莉理香の横顔が浮かぶ。

 患者に寄り添うときの、穏やかでまっすぐな眼差し。

 人として、誰かを救うことに一点の曇りもないその姿。

 彼女は――“敬意を抱くに値する存在”だった。


 ――イギリス・ハワード家本邸。


 シャーロットの帰国報告を受け、当主エドワード伯爵は深く椅子にもたれた。


「……これで少しは静かになるか」


 ようやく心配の種が帰ってきた、と言わんばかりの声音。

 しかしその隣で、キャサリン夫人は小さく笑みを漏らした。


「いいえ、きっとまた行きたくなるわ。あの子はそういう子ですもの」


 夫の苦い顔をよそに、彼女は優しく目を細める。

 娘の行動力も、真っすぐな気質も、母としては誇らしかった。


 一方、アレクシスは無言のまま報告書を手に取っていた。

 妹が書き残した簡潔な渡航記録、その最後の一文に、視線が吸い寄せられる。


『兄上の選択は間違っていません』


 彼は何度も口を開きかけては、結局言葉を失っていた。


 同じ頃、東京の夜。

 庁舎のデスクで書類を片づけていた莉理香は、ふと手を止めた。

 思い浮かぶのは、灰色の瞳でじっと自分を見つめてきた外国人研修生の笑顔。


「……結局、彼女は何者だったんだろう」


 ぽつりと呟いて、肩をすくめる。

 しかしその胸の奥には、なぜか奇妙な余韻が残っていた。


 ――またお会いしましょう。必ず。


 最後に交わした約束のような言葉が脳裏に焼きついて離れなかった。


***


 ――それは、突然始まった。


 英国から帰国したばかりの“留学生”エミリー・スミス……

 否、シャーロット・ハワード嬢のSNSアカウントに、立て続けに投稿が上がったのだ。


《日本で出会った最高に素敵な女医さん!

 人々を救う姿がまぶしすぎて、忘れられません!》


《兄上が惹かれるのも当然だと確信しました!

 #竜神先生 #英国卿の恋 #推し活は国境を越える》


 投稿される写真には、莉理香が機材を抱えて歩く後ろ姿や、食堂で同僚と笑い合う横顔。どれも肖像権や機密情報に一切抵触しないように顔には可愛らしいクマやハートのスタンプが貼られていた。

 まるでファンアートのように綺麗に構成された投稿に、コメント欄は平和な熱気で溢れ返っていた。


《桐嶋先生の顔にスタンプ貼る意味今更ある?》

《え……この抱えてる機材一人で持てる重さだっけ》

《兄上が恋する理由、わかります!》

《エミリー=シャーロット・ハワード嬢、兄の恋路を応援するために日本へ!?》


 最初は一部のファン層が「貴族の姫の推し活w」と軽くネタにして拡散しただけだった。

 しかし、数日も経たぬうちに――英国の上流階級SNSアカウントが反応を始めた。


《またハワード嬢がやらかしている……!》

《だが彼女の“目”は侮れない。言及された人は必ず脚光を浴びる》


 そして、火の手は国境を越えた。

 日本のニュースサイトが英語投稿を翻訳し、トップ記事に踊り出る。


《英国貴族令嬢、“竜神先生”を絶賛! 文化を越えた医療の絆?》

《#ドキュメンタリー婚活》


 ――気づけば、莉理香の日常は世界規模でトレンド入りしていた。


 救護課の休憩室。

 モニターの前に座った莉理香は、固まっていた。


「な、なにこれ……!? なんでわたしがイギリスでこんなに話題になってるの……!?」


 隣の山崎がスマホを手に目を丸くする。


「先生、世界的に推されてるね……」


「笑いごとじゃないです!」


 莉理香は真っ赤になって机に突っ伏した。

 救護課員たちは苦笑を交わしながらも、画面の中で再生される映像に感心している。

 どれも丁寧に編集されたスライドショーのようで、ナレーションこそないが、まるで一つのドキュメンタリーだ。


「……編集が上手すぎて逆に腹が立つ……」


「これ、完全に“プロの広報”ですね」


「だから嫌なんですってばぁぁ……!」


 その時。

 背後から低い声が落ちた。


「桐嶋」


 低い声に顔を上げると、課長が腕を組んで立っていた。

 表情はどこか諦めを含んでいる。


「……あ、課長! この件ご存じですか!?」


 課長は額に手を当て、深々とため息をついた。


「実を言うと――最初から知っていた」


「……は?」


 会議室に移り、課長は重々しく語り出した。


「“エミリー・スミス”は偽名だ。本名はシャーロット。英国でも屈指の名家の令嬢だ」


「…………」


 莉理香は口をぱくぱくと開閉した。

 まるで言葉が出てこない金魚である。


「つ、つまり……やっぱり、ただの研修生じゃなかったんですか!?」


「そうだ。正式な短期留学として来ていたから、書類上は問題ない。

 ――だが裏の目的はな」


 課長は言葉を区切り、目元を押さえる。


「……彼女のフルネームはシャーロット・ハワード、兄の思い人を自分の目で確かめに来たんだ」


「………………」


 脳裏をよぎるのは、あの灰色の瞳。

 観察するように、しかし優しく見つめてきたあの視線。

 心の奥でラギルの声が囁く。


『なるほど……そういうことか。妙な視線の正体、ようやく合点がいったな』


 静寂のあと、莉理香は机に突っ伏し――


「――あの目は、そういうことかぁぁぁぁ!!!」


 悲鳴にも似た叫びが庁舎に木霊した。

 課長は肩をすくめて微苦笑する。


「まあ、彼女に悪意はなかったろう?」


「……はい。むしろ、すごく真剣で、勉強熱心で……」


「だろうな。

 あの子は君を“敵”として見に来たわけじゃない。

 ――兄の想いを確かめたかっただけだ」


「……」


 莉理香は、頬を押さえたまま、かすかにため息をついた。


(……ほんとに、勘弁してください……)


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