第59話 オフの竜神様と過ごした一日
――週末の朝。
拠点にしている超高級ホテルのスイートで、エミリーはSPたちと簡単なブリーフィングを終えていた。
「本日の目的は“文化見学”。行き先は浅草寺と秋葉原ですね」
主任SPが淡々と確認する。
資料の地図には、びっしりと書き込まれた行程表と安全経路。彼らの緊張感は、要人警護そのものだった。
「はい。移動は救護課の車列と合わせます。近接護衛を二名、外周を二名。ですが――」
主任は一枚の写真を指先で押さえた。
そこには、庁舎前で手を振る小柄な救護課員――桐嶋莉理香の姿がある。
「……正直、殿下に危険はありません。あの方と一緒なら」
「“エミリー・スミス”ですわ、今日は」
エミリーはくすりと笑い、帽子を軽く押さえた。
白のワンピースに薄手のカーディガン。スニーカーは慣れないけれど、庶民らしく見えるはずだ。
「では、行きましょう! 観光はわたくしの得意分野ですもの」
言葉の端に高揚が混じる。
――妹として、ではなく“ひとりの見学者”として、桐嶋莉理香という人物を知りたい。
そんな好奇心を胸に、彼女は意気揚々と部屋を出た。
庁舎前では、救護課の面々が集合していた。
普段の緊張した空気はどこへやら、まるで遠足前の学生たちのように浮き立っている。
「エミリーさん、東京下町コースへようこそ」
榊が冗談めかして手を差し出すと、エミリーはにこりと笑った。
「課長も今日は楽しんでください」
「まぁ、遊ぶ時の段取りは大事だからな」
高村課長は淡々とした口調ながら、配布した行程表のすみに“自由時間◎”と書き込んでいる。そんな抜け目のない大人たちの中に混ざり、エミリーは少し誇らしげに胸を張った。
車列が走り出し、窓の外に赤い大きな提灯が見えた瞬間――
「わぁ……本当に写真のまま!」
エミリーは思わず声を上げた。
観光サイトで何度も見た光景が、今は自分の目の前にある。
浅草寺。
仲見世通りには焼き菓子の甘い香りと油の匂いが入り混じり、観光客がひしめいていた。喧噪の中で、莉理香は人の流れをさっと見渡し、自然にグループの先頭に立つ。
「まずは手水ですね」
莉理香が袖を捲り、柄杓を手に取る。
「右、左、口――今日は口は省略でもいいかな。」
「えっと、こうですね?」
冷たい水で指先を清め、境内へ。
本堂前、鈴の音がかすかに重なり合う。エミリーは硬貨をそっと投げ入れ、掌を合わせた――その横で。
莉理香は、背筋をすっと伸ばし、静かに両の手を合わせている。
その姿に、エミリーの呼吸が止まった。
背筋を伸ばし、まぶたを閉じ、深く一礼する。
その動作には一点の迷いもない。
その所作は、救護課で見る“仕事の礼”よりも、どこか綺麗に見える。
目を閉じ、静かな呼吸。人の流れの中で、そこだけ時間がゆるやかに弛む。
(……この人は、ちゃんと神様に対して敬意をもって“拝む”のね)
キリスト教の文化圏で育った彼女にとって、それは不思議で――けれど美しい光景だった。
異なる宗教の異なる祈り方。
けれど、そこにある静かな敬意と誠実さは、どの国の神に対しても通じる“善意”のように感じられた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
エミリーは自然と目を閉じ、真似るように掌を合わせた。
二拍手の音が、静かに空に溶けていく。
「エミリーさん、お願い事、しました?」
榊が小声で尋ねると、彼女は微笑んで答えた。
「ええ。“皆が健康でありますように”。――そして、さっき買った揚げおまんじゅうが美味しくありますように?」
「後半おかしくない?」
一同がくすっと笑い、空気がさらに柔らかくなる。
そして恒例のおみくじへ。
「さて、“桐嶋のおみくじ”。ちなみに過去戦績は驚異の……」
「言わないの」
莉理香は軽く睨むように微笑み、筒をしゃかしゃかと振る。番号棒がひょい、と顔を出し、巫女さんが引き出しを開く。
差し出された細長い紙を開けば――
「……大吉、ですね」
「やっぱり!」
「出たよ、“リリカ補正”!」
「絶対、神様が忖度してるんじゃないの?」
「そんなはずないと思うんですけどね」
困ったように笑う莉理香の横顔は、どこか照れくさそうで。
彼女のそんな“人間らしい一面”に、エミリーはまた胸が温かくなった。
「ほら、皆さんも引いて。――結果は各自の責任で」
引いてみれば、榊は中吉、山崎は末吉、高村課長に至っては小吉。
全員が紙を見比べ、同時に莉理香の“大吉”へ視線を集める。
(――この人は、本当に神様に好かれているのかもしれない)
そう思いながら、自分の“吉”を結びつける。
そこに書かれた“焦らず、学べ”という一文を、何度も目で追った。
(はい。焦らず、学びます)
参拝のあとは、甘味。
揚げまんじゅうを頬張った瞬間、エミリーの目がとろんと潤む。
「……これ、幸福の食感ですね」
「甘味は正義」
莉理香も満足げに一口。
「カロリーは歩いて帳消しにしましょう」
「はいっ。――ところで、あれは何です?」
エミリーが指差すのは、境内の香炉。
立ちのぼる煙に人々が手をかざし、頭へといざなっている。
「“賢くなるように”って煙を浴びるんだ」
山崎が穏やかに説明する。
「それじゃ、私も!」
エミリーは嬉々として煙を頭に寄せ、ふわりと笑う。
その姿は純粋な少女のようで、SPたちは遠巻きに見守りながら、互いに苦笑を交わした。
誰もが知っていた。
この一日が、ただの“文化体験”ではなく、彼女が少しずつ――桐嶋莉理香という人を心から理解していく、大切な時間になっていることを。
浅草を後にすると、午後は秋葉原へ。
高架を渡れば、看板は鮮やかに、音楽は賑やかに、空気の色が一段変わる。
「ここが、日本のサブカルチャーの聖地……!」
エミリーの瞳が、まるで子供のように輝く。
その様子に、同行していた榊が笑って指を差した。
「まずは電気街。救護課的にはセンサー売り場も結構使うんだよ」
榊が指さす先で、部品の小箱が幾何学模様のように積まれている。
「測定用の環境センサー、ここの部品で私が自作したのがまだ現役で動いてるんだ」
「えっ、業務機器を自作?」
目を丸くするエミリーに、榊は小さく肩をすくめて笑う。
「もちろん、合法の範囲で、きっちりね。業務申請も通してる」
榊が補足し、店員と手際よくやり取りする。
――現場の人たちは、何をしてもプロフェッショナルなのだと改めて思う。
その後は、いよいよ「秋葉原らしい」エリアへ。
フィギュアショップ、ゲームショップ、そして同人誌の並ぶ通り。
眩い色彩と文字の洪水の中を歩きながら、エミリーは目を輝かせて呟いた。
「これが……日本のサブカル文化!」
ところが次の瞬間、彼女の視線が吸い寄せられたのは、やや大人向けの看板が掲げられた一角だった。
「“アニメコレクション大人館”……あら、年齢制限って何のことでしょう?」
「待って、そこは違う!」
莉理香が慌てて彼女の腕を掴む。
「えっ? えっ? あらまあ……!」
顔を真っ赤にしながら慌てて後ずさるエミリー。
通行人たちは何事かと振り返り、救護課の面々は笑いをこらえるのに必死だった。
「……文化の深淵、見えかけましたね」
榊がぼそっとつぶやき、莉理香が肘で軽くつつく。
「黙ってください」
しばらく歩くと、山崎が真顔で言った。
「そういえば、桐嶋は最近いろんなグッズになってるぞ」
「えっ、そうなんですか?」
エミリーが興味津々に振り向くと、全員がうんうんと頷いた。
「お菓子のオマケカードに、SNSのスタンプ、そして……」
「……あら? こんなところに!」
エミリーの声が弾んだ。
指先が示す先、ガラスケースの中には――
「――桐嶋先生のフィギュアが!」
小さなドラゴンの着ぐるみを着た、デフォルメ風のリリカ。
手を高く構えたポーズで、「(「・ω・)「ガオー」タグ。
「可愛い! これ、ほしいです!」
ためらいなくレジに直行し、財布を取り出す。
表示された金額は、税込19,800円。
「……え、高っ……」
山崎が小声で呟くが、エミリーは満面の笑顔。
「問題ありません。文化への投資です!」
「公式ではない……んだよね、だって私こんなの知らないし」
莉理香は半ば諦め顔で苦笑した。
それでも、エミリーが嬉しそうに包みを抱える姿には、なぜか怒る気になれない。
通りを抜けると、メイド服姿の店員がチラシを配っていた。
その一人が、軽やかに莉理香へと差し出す。
「ご主人様~! メイドカフェは如何ですか~!」
エミリーが目を瞬かせる。
「えっと……これは……?」
「“メイド喫茶”の呼び込みですよ」
莉理香がさらりと受け取り、笑う。
「せっかくだし、行ってみます?」
「えっ、いいんですか!?」
数分後――。
案内された店内は、ピンクの照明と甘い香りに満ちていた。
可愛らしいエプロン姿の店員が「おかえりなさいませ、ご主人様、お嬢様~!」と唱えるたびに、高村課長が顔を真っ赤にする。
「……いや、これは、こう……心の準備が……」
榊は笑いをこらえ、山崎は冷静にメニューを眺める。
そしてエミリーは――固まっていた。
「……なんだか、違和感があります……」
「既視感?」
「ええ。……私の知ってるメイドではないというか。なんだか不思議な感じ」
その純粋な感想に、周囲がまた笑いに包まれた。
“おまじない”で描かれたハート模様のオムライスを前に、全員の肩の力がようやく抜けた。
夕方。
歩数は軽く一万を超えていた。
通りに灯がともり始め、風が心地よく吹き抜ける。
「いやー、よく歩いた」
榊がストレッチをしながらつぶやく。
その隣で、エミリーは深呼吸し、小さく微笑んだ。
「……素敵な一日でした。ありがとうございます」
その瞳には、充実の色が宿っている。
視線の先、莉理香が首をかしげながら穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ。エミリーさんと歩いて、見慣れた景色が少し新しく見えましたよ」
莉理香はエミリーに小さな紙袋を手渡した。
「――お守りです。みんなおそろいで」
「まあ!」
袋の口から、金色の鈴が顔をのぞかせる。
光を受けて、小さく鳴る音が優しく響いた。
「ありがとうございます!……これでさっきの“吉”を“大吉”に修正できるかしら」
「修正は神様次第かなぁ」
莉理香が肩をすくめて笑う。
「でも、次に行くときも、きっと楽しいですよ」
その笑顔は、どこまでも自然で、どこまでも優しい。
帰りの車内。
東京の夜が、窓の外を静かに流れていく。
ライトに照らされる街並みを眺めながら、エミリーは小さなノートを取り出し、メモを残した。
『桐嶋先生は、やっぱり“良い人”。』
そう記して、そっとページを閉じる。
車列は庁舎へと向かう。
笑い声と鈴の音が混じり合うその車内で、エミリーの胸の奥には――確かな尊敬と、ほんの少しの憧れが静かに灯っていた。
楽しかった観光の一日は、救護課らしく安全に、規則正しく、そして満ち足りたまま終わりを迎えたのだった。




