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第58話 エミリーの救護研修

 ――救護課での「エミリー・スミス」の日常は、思いのほか真面目で規則正しかった。

 朝は必ず時間前に庁舎へ現れ、きちんとノートとペンを取り出す。

 その表情は観光客を装うときの無邪気さとはまるで別人のように真剣で、指導役についた若手医師たちも思わず感心してしまうほどだった。


「ルートの管理は……ああ、こういう手順なのですね。わかりました!」


 真剣にメモを取りながら何度も頷く姿は、熱心な医学生そのもの。

 だがその合間に、やはり小さな“ズレ”は顔を出す。


 昼休み、救護課の食堂にて。

 トレーを持って席に着いたエミリーは、料理を前に姿勢よく両手を膝に添え、じっと待っていた。


「……あれ?」


 一緒にいた同僚が水を取りに立ち上がると、彼女は小首をかしげる。


「お水は……持ってきてもらえるのでは?」


 一瞬で周囲の視線が集まり、彼女は慌てて笑みを浮かべた。


「あ、なるほど! 自分で取りに行くのですね!」


 翌日には、誰よりも先に水を取りに行く姿があった。

 胸を張って戻ってくるその様子に、同僚たちは吹き出さずにはいられなかった。


 また別の日。

 廊下ですれ違った職員が軽く会釈すると、エミリーはにっこりと笑顔だけ返した。

 その夜、SPから「日本では笑顔だけでなく会釈を返すのが自然です」と教えられ、翌日にはすぐ修正。


 今度はぺこりと頭を下げ、にこにこと笑う。

 まだぎこちなさはあるものの、その熱心さに職員たちの頬も緩んだ。


(……変なところでズレるけど、真面目なんだな)


 誰もがそう感じるようになっていた。


 ――そんな日々を送りながらも、エミリーの滞在先はまったく別世界にあった。


 煌びやかな摩天楼を見下ろす超高級ホテルのスイートルーム。

 昼間は庶民派研修生として救護課で真面目に働くシャーロット――今は「エミリー・スミス」として振る舞っている――は、ベッドに腰掛けながらタブレットを閉じた。


「ふぅ。きょうも一日、日本文化の勉強が進みましたわ!」


 その声に、控えていたSPが静かに頷く。


「……ご令嬢、本当に自然に馴染んでおられますね。観光客を演じるなどと最初に聞いたときは頭を抱えましたが……」


「でしょう?」


 シャーロットは誇らしげに胸を張った。


「ちゃんと観察して修正しているもの。きょうだって水を取りに行くのを忘れませんでしたし、廊下ですれ違ったときも会釈をしましたわ。昨日までの失敗はもう繰り返しません」


 そこへ、ホテルの扉がノックされた。


「失礼いたします、お嬢様」


 現れたのは、長年仕えてきた専属のメイド、アナベル。

 銀のトレイに紅茶と軽食を載せ、優雅な所作でテーブルに並べる。


「本日もお疲れでしょう。少しお召し上がりになってくださいませ」


「ありがとう、アナベル。やっぱりあなたの紅茶は最高ですわ」


 シャーロットはにっこり笑い、紅茶を一口すする。

 SPたちはそんな主従の自然なやりとりに、ひそかに安堵を覚えた。


(……やはり立派な淑女であられる。庶民派を演じていても、この空気までは隠しきれない)


 アナベルは優しく微笑みながら言葉を添える。


「ですが、今日も本当に熱心にご研修なさったのですね。ノートがびっしりです」


「当然ですわ。観光ごっこではなく、本気で学んでいますもの」


 そう言って彼女はノートを広げ、学んだことを書き留める。

 一見些細なことばかりだが、彼女にとっては大切な文化学習の成果だった。


 もう一人のSPが言葉を添える。


「ここまで真摯に取り組まれるとは正直考えておりませんでした。……ご令嬢としてではなく、ひとりの学生として自然に馴染んでおられる」


「まあ、うれしい!」


 シャーロットはぱっと顔を輝かせた。


「あなた方に嫌われていたらどうしようかと心配だったのよ。だって、観光客を演じている間は本名すら隠して色々ご苦労かけてるんですもの」


「嫌うどころか……むしろ守り甲斐がございます」


 SPの声には真心がこもっていた。


「庶民に混じるご令嬢をお守りするなど、なかなか経験できませんから」


 シャーロットは小さく笑い、ソファに体を預けた。


「ふふ……やっぱり、わたしって行動力あると思いません?」


「はい。……そして、根回しを欠かさないのは本当に助かります」


「もちろん。あなたたちに迷惑をかけたら任務にならないでしょう? だから“こういう演技をするからよろしくね”って必ず伝えているじゃない」


「……そのお心遣いには救われております」


 彼女の奔放さは頭痛の種でありながら、同時に護衛にとっては働きやすさにもつながっていた。無茶はするが無謀ではない。彼女の無邪気さと誠実さは、日々接するSPたちの心を知らず知らず和ませていた。


 しばらくして、シャーロットはペンを手に取り、研修ノートを開いた。


「きょう学んだこと――。ふふ、簡単なことのようで、奥が深いのですわね」


 書き込みながら彼女は微笑む。

 SPは静かに見守りながら思う。


(この方は、どこにいても本気だ。文化を学ぶのも、医療の研修も、兄のことも……全部を真剣に吸収してしまう。だからこそ危なっかしいが、だからこそ守りたいと思わせる)


 やがてノートを閉じ、シャーロットは窓辺に立った。

 東京の夜景を見下ろし、少し声を潜める。


「……兄上が惹かれたあの方。わたくし、ようやく少しわかってきた気がします」


 その横顔は、演技でも擬態でもない、ひとりの妹としての素直な想いを映していた。

 SPたちは互いに視線を交わし、アナベルは静かに一礼した。


「お嬢様、どうかご無理はなさらずに。ですが……そのお気持ち、とても素敵ですわ」


 ――このご令嬢は奔放だが、嫌われる類の性質ではない。

 護衛たちは皆、同じ確信を抱いていた。


「ふふ、ありがとう」


 シャーロット=エミリーは小さく笑い、紅茶を置いた。


 観光客を装う軽やかさと、令嬢としての誇り。

 その狭間で過ごす日常は、慌ただしくも充実に満ちていた。


「兄上にも色々お伝えしたいことができましたね」


 そう呟くと、ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。


 昼間に見たリリカの落ち着いた立ち居振る舞い、困っている人へ向ける迷いのない眼差し。

 彼女の胸に、確かな印象を残していた。


 観光客を装う軽やかさと、令嬢としての誇り。

 その狭間で、シャーロット=エミリーの日常は、慌ただしくも充実したものとなっていった。


 ――翌日。

 研修を終えて片付けをしていたエミリーは、少し躊躇いがちに課長室を訪ねた。


「……どうした、エミリー」


 デスクに積み上げられた書類から顔を上げた高村課長に、彼女は胸の前で両手を組み、真剣な眼差しを向ける。


「あの……課長。ひとつお願いがございます」


「お願い?」


「わたくし……いえ、私、日本の観光をしてみたいのです」


 一瞬、室内の空気が和んだ。

 意外な申し出に、高村は苦笑を漏らす。


「観光……か。まぁ、来てからずっと真面目に研修してたからな。どこに行きたい?」


「浅草寺や秋葉原というところを聞きました。日本の文化を肌で感じたいのです」


 熱意を込めた声に、課長はしばし腕を組んで考え込み、やがて頷いた。


「よし。なら救護課の連中と一緒に行こう。俺一人だと目が行き届かんしな」


「えっ……みなさんと?」


「お前ひとりだと騒ぎになりかねん。莉理香も一緒なら安全だろう。どうせなら皆で楽しめばいい」


 そのやり取りを耳にした庁舎の仲間たちが、ぱっと顔を明るくした。


「いいですね! 久しぶりに外でゆっくりしたいですし」

「浅草の雷門で写真撮りたい!」


 エミリーは驚いたように目を瞬かせ、すぐに花が咲いたような笑みを浮かべた。


「まあ……! 本当にご一緒してくださるのですか? うれしいですわ!」


 その嬉しそうな反応に、課長は思わず咳払いで照れ隠しをした。


「……ただし、はしゃぎすぎて怪我するなよ。救護課が観光中に出動なんて、笑い話にもならん」


「はいっ、気をつけます!」


 元気よく返事をするエミリーの姿に、同僚たちは吹き出しながらも頷き合った。

 そこへ、腕を組んで聞いていた莉理香が、いたずらっぽく口を挟む。


「もし怪我しても、私がすぐ治しますから大丈夫ですよー」


 冗談めかした調子に、課長が即座に眉をひそめる。


「お前な……そもそも怪我なんかさせるな」


 三浦や山崎も乗っかって、笑いながら突っ込む。


「そうそう、怪我する前に莉理香が防いじゃうでしょ」

「というか、怪我した時点で観光じゃなくなるだろうに」


 わっと笑い声が広がり、エミリーもつられてくすくすと笑った。

 こうして救護課総出の「エミリー観光ツアー」は、和やかな空気の中で決定したのだった。


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