第57話 庶民派観光客、コードネームはエミリー
――出発当日。
巨大なガラス張りの出発ロビーで、シャーロット・ハワードはスーツケースの取っ手を握りしめ、深呼吸を繰り返していた。
「わたくしは――いいえ、今日からは“エミリー・スミス”。普通の医学生。日本の救護課を見学する、ただの交換留学生……」
心の中で繰り返し、自分に言い聞かせる。
だがその声の裏で、別の本音もひっそりと囁いていた。
「……そして、兄上が恋した相手がどんな方なのか、この目で確かめるために」
唇に浮かんだ笑みを浮かべ、彼女は搭乗ゲートへと軽やかに歩み出した。
キャリーケースの中には医学の教科書、観光ガイドブック、そして妹としての好奇心がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
――成田空港。
到着ゲートを抜けたシャーロット――いや、“エミリー”は、大きく息を吸い込んでから、ぱんと手を叩いた。
「さてと! ここからは“エミリー・スミス”ですわ!」
いや、言い直した。
「……じゃなかった。ここからは“わたし、エミリー・スミスです!”」
後方に控えるSPが、一瞬固まった。
「……ご令嬢、それは……」
「自然な観光客っぽいしゃべり方を練習しているのですわ。えっと、“ですわ”じゃなくて……“だよね”とか、“なんかすごい!”って言うべきかしら?」
シャーロットは真剣な顔でSPに向き直る。
「こういうしゃべり方でおかしくない? 違和感ある?」
SPはわずかに目を泳がせ、やがて苦渋の笑みを浮かべた。
「……かなり自然……かと。ご令嬢の演技力は流石でございます」
「よし! 今日からわたしは庶民派観光客、エミリー!」
高らかに宣言し、キャリーバッグを勢いよく引いた。
その姿は周囲から見れば、ただの元気な旅行者。だが、ちょっとした仕草の端々から気品が滲み出てしまうため、誰もが「上品な外国人観光客だな」と感じずにはいられなかった。
同じ頃――イギリス、ハワード家本邸。
書斎に響くのは、電話越しのSPからの逐次報告だった。
「……“エミリー・スミス”を名乗り、観光客に擬態しているようです」
エドワード伯爵はこめかみに手を当て、低く呻いた。
「……擬態、だと? 一体何をやっているんだ……」
横で聞いていたキャサリン夫人は、くすりと笑みを漏らす。
「まあまあ。小さい頃から“お忍びごっこ”が好きな子でしたから。とうとう国外でまでやり始めたのね」
「ごっこで済めばいい。だが今は日本だぞ? 息子の件で国際報道が過熱している時に、あの娘まで……!」
伯爵は机をどんと叩き、頭を抱える。
しかし夫人の笑みは崩れない。
「それだけ行動力があるってことよ。あなたの娘ですもの」
一方、別室で報告を受けたアレクシスは、顔を覆い、呻いた。
「シャーロット……お願いだから、余計なことはしないでくれ……」
――再び日本。
シャーロット――いや“エミリー”は空港から市内へ向かうバスに乗り込み、車窓に目を輝かせていた。
「わぁ、日本の街並み! あれがコンビニ? 自販機がこんなに! なんかすごい!」
観光客丸出しのテンションに、隣のSPが小声で釘を刺す。
「……ご令嬢、少々はしゃぎすぎでは」
だが周囲の乗客から見れば、ただ楽しそうな外国人観光客にしか映らない。
SPはため息をつきつつも、それを確認してひとまず胸を撫で下ろした。
夕方。
ホテルにチェックインした“エミリー”は、すぐさまSPを引き連れて近くのコンビニへ向かった。
「これが日本の庶民の台所! えっと……“おにぎり”どこかしら……」
目を輝かせながら手に取るが、包装の開け方がわからない。
四苦八苦する彼女を見かね、SPがさっと手を伸ばす。
「お手伝いしましょうか」
「だめ! こういうのは自分でやらないと。 演技の一環ですもの!」
数分の格闘の末、ようやくおにぎりが開封できた。
ぱくりと頬張った瞬間、彼女の目が大きく輝いた。
「ん~~! おいしい! これが“庶民の味”なのね!」
SPは思わず頭を抱えた。
どう見てもただの観光客にしか見えないのに、その所作の端々からやはり“令嬢”の気品が隠しきれないのだ。
イギリス本邸。
再び届いたSPの報告に、エドワードは額を押さえた。
「……“庶民派観光客としておにぎりに挑戦”……だと」
夫人は楽しげに微笑む。
「まあ可愛いじゃない。いい経験になるわ」
アレクシスはただ、両手で顔を覆った。
「……リリカ嬢に余計なご迷惑が……」
翌朝。
“エミリー”は、スマホを片手に救護課の庁舎に向けて意気揚々と歩き出した。
旅行客を装う明るい笑みを浮かべながら、胸の奥では別の鼓動が高鳴っている。
「さあ、ここからが本番! 兄上が惹かれたお方――リリカ様に、ついにご挨拶ね」
気合を入れ直す足取りは、迷いなく救護課の建物へと向かっていた。
――救護課庁舎、一階受付。
いつものように慌ただしく職員が行き交う中、受付カウンターにひとりの外国人女性がにこやかな顔で歩み寄ってきた。
観光客らしいワンピースにカーディガン。髪はきちんとまとめられているが、その姿勢の美しさは人目を引かずにはいられない。
「こんにちは! わたし、エミリー・スミスです!」
明るく透き通る声。
受付の職員は思わず目を瞬かせた。
「……え、ええと、ご用件は?」
「短期の交換留学で来ました! イギリスの大学で医学を学んでいます!日本の救護課で研修させてもらえるって聞いてます!」
流暢な日本語ではないが、丁寧に区切られた言葉。だが何より目を引いたのは、言葉以上に人懐っこい笑顔だった。
「確認しますので、少々お待ちください」
職員が慌てて奥に連絡を入れる。
***
ちょうどその頃、廊下を歩いていた莉理香は、課長に呼び止められた。
「桐嶋、君に会いたいという留学生が来ている」
「留学生……ですか?」
怪訝に首を傾げながら受付へ向かう。
そこに立っていたのは、見目麗しい金髪の女性だった。
彼女はぱっと立ち上がり、勢いよく両手を差し出してきた。
「桐嶋先生ですか? はじめまして!」
「は、はい。桐嶋莉理香です」
握手を返した瞬間、莉理香は思わず瞬きをした。
柔らかい笑顔。しかし――仕草の一つひとつが、庶民というより舞台で鍛えられた俳優のように洗練されすぎている。
「わたし、エミリー・スミス。イギリスの医学生です。ここで救護活動を見学したくて来ました!」
「それは……ようこそ。国際交流の一環ですね。期間はどれくらいなんでしょう?」
「一か月です!」
明るい返答に、受付の職員たちは「快活な人だな」と微笑を交わす。
だが莉理香の胸には、わずかな違和感が引っかかっていた。
案内の途中、廊下を並んで歩きながら、莉理香は軽く話題を振った。
「エミリーさんは、日本は初めてですか?」
「はい! 昨日、コンビニで“おにぎり”を食べました! とってもおいしかったです!」
楽しげに語る声に、思わず莉理香の口元もほころぶ。
だが、続いた言葉に足が止まった。
「ただ……開け方がすごく難しくて。日本の方々は毎回、どなたかにやってもらっているんですか?」
「……え?」
ぽかんと返す莉理香。
エミリーは一瞬「あ」と口元を押さえたが、すぐに笑顔に戻した。
「えっと……友達? そう、友達に開けてもらうのかなって思ったんです!」
その場しのぎのごまかし。だが天真爛漫な笑みが、違和感をかえって隠してしまう。莉理香は小さく息を吐き、胸の奥にわずかな引っかかりを残した。
休憩室に入ると、同僚たちが一斉に顔を上げた。
「おお、その子が留学生?」
「リリカさんの研修生ってこと?」
「そうです! わたし、ここでいろいろ学ばせてもらいます!」
エミリーは胸を張って堂々と答える。さらに目を輝かせて続けた。
「わたし、日本の庶民文化にとっても興味があって! 昨日もバスに乗ったんですけど、切符を買うときに……えっと、運転手さんに“チップを渡そうとして”すごく笑われちゃいました!」
部屋中が笑いに包まれる。
彼女自身も無邪気に笑っているが、そのエピソードはやっぱり庶民的な感覚からずれているような気もする。
莉理香は苦笑しつつ、内心で小さく息をついた。
(……変な人。でも、悪気は全然なさそう)
その瞬間、胸の奥で低い声が響いた。
『……この娘、ただの研修生ではなさそうだな』
「っ……ラギル?」
思わず心の中で応じる。
だがエミリーは何も気づかぬ様子で、笑顔のまま日本茶を口にしていた。
(ただの医学生にしては……確かにどこか浮いている。でも……)
彼女は自分を取り繕うように微笑んだ。
――あくまで目の前にいるのは、交換留学生“エミリー・スミス”。
そういうことにしておくしかなかった。
──イギリス、ハワード家本邸。
SPからの報告に、父エドワード伯爵が頭を抱えていた。
「……“おにぎりを開けてもらうと発言”……か。バレるのも時間の問題ではないか?」
キャサリン夫人はくすくすと笑う。
「でも楽しそうじゃない。あの子なりに、庶民生活を学んでいるのよ」
アレクシスは深々と椅子に沈み込み、両手で顔を覆った。
「……リリカ嬢に余計なご迷惑が……」
そんな兄の心配をよそに――
シャーロットは“庶民派観光客”エミリー・スミスとして、異国の地で確かな一歩を踏み出していた。




