第56話 英国紳士の告白と家族会議
――イングランド東部、歴史あるハワード家邸宅。
重厚なシャンデリアがきらめき、壁には何世代にもわたる肖像画が掲げられたダイニングホールは、今夜ひときわ緊張した空気に包まれていた。
その夜は急きょ、家族会議が招集されていた。話題はもちろん、国際会議の場でアレクシス・ハワード公子が行った“突然の告白”――竜神リリカに対する公開の想い表明である。
上座には当主エドワード・ハワード伯爵。六十代半ば、銀髪をきっちりと撫でつけ、背筋を正した姿は威厳に満ちていた。隣には優美な微笑みを浮かべる母キャサリン夫人。下座にはスマホを手にした妹シャーロット嬢。そしてその真正面に、当の本人アレクシスが緊張した面持ちで座っていた。
重苦しい沈黙を破ったのは、父の低い声だった。
「……アレクシス。お前が誰を想おうと、父として否定するつもりはない」
その一言に、アレクシスは思わず背筋を伸ばす。
「……はい、父上」
「だがな」
伯爵の手がどん、とテーブルを叩いた。銀の食器がかすかに揺れ、場の空気が震える。
「国際会議の場で、何の根回しもなく個人の感情を口にするとは何事だ! 段取りが悪すぎる! 貴族の婚姻は手順が命――忘れるな!」
アレクシスは思わず姿勢を正し、深く頭を下げた。
「申し訳ありません……。ですが、どうしても伝えずにはいられなかったのです」
父は眉間を押さえ、苦々しく息を吐く。
「気持ちは理解できる。だが本来なら家族会議を経て、政府とも調整し、正式な申し込みを整えるべきだ。お前は手順を軽んじすぎる」
横で聞いていた母キャサリンが、くすりと笑みを漏らした。
「まあまあ、あなた。この子の真意は十分に伝わったでしょう? わたくし、会見を見て少し誇らしかったのよ」
「キャサリン……」
「ええ、家の名誉を考えれば段取りは大事。でも“心から想った相手に、まずは声を届ける”なんて――とてもロマンチックじゃない?」
父は言葉を失い、むっと顔をしかめる。そのとき、下座のシャーロットがスマホを掲げ、目を輝かせて叫んだ。
「お兄様、すごいですよ! “#リアル公子の求婚”が世界トレンド一位ですわ! TikTokでも切り抜き動画がバズってまして――」
「シャーロット! はしたない!」
父の叱責などどこ吹く風。妹は悪びれもせず肩をすくめた。
「でも事実ですもの。皆さん“誠実で推せる”って応援してますわよ? リリカさんもすっごく可愛いってコメントばかり! わたくし、もうファンになっちゃいました!」
「お前まで……!」
父は頭を抱え、重い嘆息をつく。母は楽しげに微笑み、妹はSNSをスクロールしながらきゃっきゃと笑う。家族の中で一人だけ厳格さを保とうとする父の姿が、かえって滑稽にすら映った。
アレクシスは苦笑を浮かべながらも、改めて真剣な声で言った。
「僕は、家のためでも国のためでもなく……ただ彼女自身に心を動かされました。それだけは嘘ではありません」
その瞳はまっすぐで、曇りがない。
父はしばし黙し、やがてゆっくりと頷いた。
「……ならばこそ、なおさら手順を踏め。リリカ嬢に迷惑をかけるのは本意ではないだろう?」
「承知しました、父上」
短いが確かな理解が交わされた瞬間だった。
――その夜遅く。
シャーロットが再びSNSを開き、にやにやしながら兄の肩を小突いた。
「ほら、“竜神リリカ様と英国紳士の恋、映画化希望”ですって!」
「シャーロット……やめてくれ……」
アレクシスは頭を抱えた。だが妹は真剣な眼差しで続ける。
「でも、本当に素敵ですわ。お兄様があんなふうに心から言葉を紡げる人だなんて。きっと、相手に伝わってます」
その言葉に、アレクシスの頬がわずかに赤く染まった。
「……そうだといいのだが」
父は再びため息を漏らし、母は愉快そうに笑い、妹はスマホを構えて記録を取る。
ハワード家の夜は、騒がしくもどこか温かい余韻を残して更けていった。
――同じ頃、日本。
救護課の休憩室は、ほとんど臨時の鑑賞会と化していた。
大型モニターには、国際会議の壇上でアレクシス卿が放った言葉の映像が繰り返し流されている。
真摯な眼差し、整った姿勢、迷いのない口調――それは翻訳を通してもなお、まるで恋愛映画のワンシーンのように胸を打つものだった。
「……私は、桐嶋リリカ嬢に深い敬意を抱いております」
音声が流れるたび、休憩室にいた職員たちがざわめく。
「リリカさん、世界一のラブレターじゃないですか」
「いやぁ、裏表なしであそこまで堂々と“お話したい”って……誠実さが滲み出てますよね」
「誠実そうだから困ってるんですってば……!」
机に突っ伏し、顔を真っ赤にする莉理香。
その背後で、山崎がニコニコしながらスマホを掲げた。
《#アレクシス卿》
《#英国紳士と竜神妃》
《#リアルシンデレラ》
画面いっぱいに並ぶトレンド。どれも彼の真心を讃えるコメントで埋め尽くされていた。
「“政治利用じゃなくてガチ恋”って言われてますよ、ほら」
「“誠実で推せる”だって。リリカさん、推されてますよ!」
涙目で抗議する莉理香。だが同僚たちは耳を貸さない。
モニターの中のアレクシス卿は、どこまでも本気で、どこまでも誠実だった。
***
昼休み。庁舎の廊下を歩いていた莉理香は、ふと届いた通知を見て足を止めた。
《アレクシス卿、追加コメント発表》。
恐る恐る再生すると、映像の中の彼は記者会見の場で再び深々と頭を下げていた。
「誤解なきよう申し上げます。私はイギリス政府の代表としてではなく、個人として発言しました。政治的な思惑はありません。ただ彼女が人々を救う姿に心を動かされ、敬意を抱いたのです。……どうか一度、彼女と直接お話ができますようにと」
その瞳は真剣そのもの。芝居でも計算でもなく、ただ純粋に「会ってみたい」という気持ちだけがそこにあった。
「……ぁ……あ……」
莉理香はその場で真っ赤になり、スマホを持つ手を震わせた。
***
その夜。実家のリビング。
ニュース番組でも大々的に彼の発言が取り上げられていた。キャスターは真面目な顔で解説する。
「アレクシス卿は慈善活動や国際医療支援に長く携わっており、桐嶋氏と価値観を共有している面も多いようです。政略ではなく、本当に個人の感情から来た発言と見られています」
「誠実ポイント解説しないで……」
ソファの上でじたばたと足をばたつかせ、クッションに顔を埋める莉理香。
その様子を見た妹がケラケラと笑い、母は「まあ、いい人そうじゃない」とのんきに言う。
「お姉ちゃん、人生最大のモテ期だね!」
「違うよ、これただの国際問題なんだよ!!」
彼女はただただ突然のモテ期に困惑していた。
***
――ロンドン郊外、ハワード家別邸
歴史あるレンガ造りの館の一室。
シャーロット・ハワードは広げたトランクに荷物を詰め込みながら、鏡の前でひとり小声をつぶやいていた。
「……よし、まずはパスポートと着替えと……」
そこに映るのは、普段の気品に満ちた立ち居振る舞い。
だが身にまとうのはドレスではなく、観光客らしいシンプルなワンピースとカーディガンだった。
「留学書類も完璧。交換プログラムの名簿に紛れ込ませてもらったし……まあ、正式に医学生として登録されているわけだから嘘ではなくてよ」
彼女は大学で確かに医学を学んでおり、国際医療支援にも関心を持っている。
だから今回の来日は、半分は正規の研修であり、半分は――兄の恋を応援するための衝動だった。
「だって……兄上ったら、会議であんな大胆な発言をしておきながら、その後はお父様の言う通り“手順が大事だ”とか言って全然動かないんですもの。もどかしくて見てられませんわ」
トランクに本を詰め込みながら、くすりと笑う。
机の上には、すでに用意されたカバーストーリーの資料が並んでいた。
【短期交換留学プログラム:桐嶋救護課見学研修】
【国際医療支援に関心を持つ学生の実習】
庶民派を装うため旅行ガイドや会話集も持ち込んだが、読み進めるうちに首を傾げる。
「“コンビニおにぎり”……? “カラオケボックス”……? まあ、とりあえず現地で試してみればいいのかしら」
名門令嬢として育った彼女にとって、異国の庶民の暮らしは未知そのもの。
しかしそれもまた、ワクワクせずにはいられない冒険だった。




