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第54話 存在しない記憶

 課長室を出た瞬間、莉理香は背中から力が抜けるのを感じた。

 ドアが閉まった途端、膝が笑いそうになり、慌てて壁にもたれかかる。心臓がばくばくとうるさく鳴り響き、顔の熱は一向に収まらなかった。


「……な、なにあれ……“国内で相手を見つけろ”って……課長、どういう意味なんですかぁぁ……」


 誰もいない廊下で両頬を押さえ、ひとりぶんぶんと首を振る。

 たった今のやり取りを思い出すだけで、恥ずかしさと混乱で頭が爆発しそうだった。

 自分の結婚が外交案件になっているというだけでも十分意味不明なのに、国内婚活を課長に真顔で勧められるとは思ってもいなかった。


 ――そのとき。

 胸奥から、低く重い声が響いてきた。


『……莉理香よ。あながち、あの男の言葉は間違いではない』


「っ!? ちょ、ラギル!? 今じゃないです、今は黙っててください!」


 慌てて声をひそめるが、竜の気配はお構いなしに続けてくる。


『竜神の婚姻は、古より国を繋ぐ礎とされてきた。伴侶を得るということは、竜核の安定と直結する。国家がそれを望むのは理にかなっておる』


「や、やめてくださいってば……課長に言われただけじゃなくて、ラギルまで同じことを……!」


 莉理香は両手で頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。

 だがラギルの声音は真剣で、古代の叡智を淡々と語る。


『我が時代、ある竜神が人間の姫を娶ろうとした時、三つの王国が血を流す争いとなった。竜神の伴侶は、力の均衡そのものを左右する。ゆえに今、お前が狙われるのも必然だ』


「ちょ、ちょっと待って! なんでそんな物騒な歴史講義を私に……!」


『事実だ。竜神の婚姻とは、国運をも左右する大事。ゆえに“国内で相手を見つけよ”という忠告は、極めて理にかなっておる』


「理にかなってるとか言わないでぇぇぇぇ!!」


 頭を抱えたまま、莉理香は床に突っ伏した。

 まるで課長とラギルがタッグを組んで、彼女を婚活地獄に引きずり込もうとしているようにしか思えない。

 ただでさえSNSでは《#竜神婚活》がトレンド入りし、ネットニュースは「政略結婚か?」と騒ぎ立てているのだ。それに加えて課長とラギルのダブルパンチ。精神的ダメージは計り知れない。


「……私、医者で、救護員で、ダンジョン対応職員で……婚活の外交カードじゃないんですけど!? 公共財ってそういう意味じゃないでしょ!」


『ふむ。水も電も公共財であり、国家の根幹を支える。婚姻もまた、同じ理で人と人、国と国を繋ぐ。そう考えれば矛盾はない』


「水道管と結婚話を一緒にしないでぇぇぇ!!」


 莉理香の絶叫は廊下に木霊し、通りかかった同僚がびくりと肩をすくめた。

 彼女は必死に取り繕い、咳払いをしてすました顔を装う。が、胸奥の竜は容赦なく追撃してきた。


『それに……お前も気づいておろう。伴侶を得ることは、力の制御に有効だとな』


「……うぅ……」


 図星を突かれ、莉理香は小さく呻いた。

 たしかに竜核はときおり暴走しかける。心の揺れや不安が大きいときほど、その兆候は強い。誰かに傍にいてほしい――そう思った瞬間、力がすっと安定するのを何度も感じてきた。


 でも、それを竜神の婚姻と結びつけられると……困るにもほどがある。


「……私は、ただの人間でいたいんです。結婚だって、普通に、恋愛して、普通に……」


『竜神である以上、“普通”は存在せぬ』


「そんなにキッパリ言わないで!!」


 叫びながらも、胸の奥にじんわり広がる焦燥は消えなかった。

 課長は「国内で相手を見つけろ」と言った。

 ラギルは「竜神の婚姻は国家の均衡」と言った。

 そして世界は、王族や貴族を通じて彼女を取り込もうとしている。


 どう考えても、ただの若い女医の悩みで済む話ではなかった。


「……ほんとにもう、なんで私の婚活が国連案件なんですかぁぁぁ……」


 小さな呻きが、廊下に溶けて消えていった。


 そのニュースが世間をさらに賑わせている最中、突然、見覚えのない男がワイドショーに登場した。三十代前半の、どこにでもいそうな中肉中背の優男。だが口を開いた瞬間、全国の視聴者が耳を疑った。


「……実は、桐嶋莉理香さんとは学生時代に交際していました」


 ――ざわっ。


 スタジオの空気が一瞬でざわめく。司会者が身を乗り出し、食いつくように尋ねる。


「えっ、あの“竜神リリカ”の!? どんな方でした?」


 男はわざとらしく遠い目をして、しみじみと答えた。


「普段も真面目でしっかりしてるんですけどね……かわいいところもあるんですよ。二人で動物園に行った時、ペンギンに夢中になっちゃって、僕が呼んでも全然振り向かなくて……」


 にこやかに語られる“二人の思い出”。

 だがそれは、莉理香にとって――存在しない記憶だった。


「ぎゃああああああああああ!!」


 救護課の休憩室で、莉理香はテーブルに突っ伏して叫んだ。

 テレビ画面では男が「雨の日の帰りに傘を持ってきてくれて……」などと甘酸っぱいエピソードを語り続けている。


「そんなことしてません!! 傘なんて貸してません! ていうかそもそも彼氏なんていませんでしたからぁぁぁぁぁ!!」


 三浦と山崎は腹を抱えて転げ回り、他の同僚たちも肩を震わせて笑いをこらえている。


「莉理香さん、人気者ですねぇ」

「“ペンギンデート”とか、“雨の帰り道”とか……いやあ、ロマンチック!」


「笑いごとじゃないですってぇぇぇ!!」


 顔を真っ赤にして抗議する莉理香。だが番組はさらに追い打ちをかけた。


「彼女、こう見えてちょっと甘えん坊なんですよ。膝枕してほしいとか言ったりして……」


「死ぬぅぅぅ!! そんなこと言ってません!! 私の尊厳が死んじゃいますぅぅぅ!!」


 机に突っ伏し、耳まで真っ赤にして悶絶する莉理香。その姿を見て、同僚たちはますます爆笑するしかなかった。


 だがそれから奇妙な現象が起こり始める。


 男が別の番組で再びインタビューを受けていたとき――突然、照明がバチンと落ち、スタジオが一瞬真っ暗になった。悲鳴とざわめきの中、すぐに予備電源がつく。今度は後ろのパネルがぐらりと揺れて倒れかける。慌ててスタッフが押さえ、ギリギリで事故は免れた。


 さらに、屋外中継では突如としてカラスの群れが頭上を旋回し、鳴き声でインタビューが中断される。

 ラジオ出演の際には、機材が何度もハウリングを起こし、まともに話せない状態が続く。


 視聴者の間で、すぐに囁かれた言葉は一つ。


『……竜神リリカの天罰だ』


 SNSは瞬く間に祭りになった。


《#リリカ天罰》

《嘘ついてるからスタジオ調子悪いに一票》

《優しいよね、すっげー怖いけど”まだ”実害ない》

《これくらいで済んでるうちにやめた方がいいんじゃない?》

《昔の彼氏って嘘ついた報いw》

《インタビュー中に雷落ちないだけマシ》

《(「・ω・)「ウソダ!》


 ネットの空気は半分お祭り、半分本気で畏怖を込めた冗談へと変わっていった。


 ついには本人が音を上げた。

 件の男は記者会見を開き、深々と頭を下げる。


「……すべて虚偽です。本当に申し訳ございません。話題作りのつもりだったんです……許してください」


 泣きそうな顔で謝罪する姿に、ネットはさらに大盛り上がり。


《竜神に嘘ついて公開謝罪w》

《これはもう神話の逸話だろ》

《軽い天罰で済んでるあたりリリカ様やさしすぎ》


 その頃、救護課。

 莉理香は机に突っ伏し、ひくひくと肩を震わせていた。頬は真っ赤、目はうるうる。


「……もうやだ……学生時代ずっと一人身だったことまでバラされてるし……余計なダメージ受けてる気がするし……」


 三浦が背中をぽんぽんと叩き、笑いをこらえながら声をかける。


「まぁまぁ、これで“本当に彼氏いなかった”って証明されたじゃない」


「そんな証明いらないですぅぅぅ!!」


 莉理香の悲鳴が救護課に響き、職員たちはまた大爆笑に包まれた。

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